小説Syuun の不思議な少年時代 その39-5 1967年(昭和42年)春頃~
「数学研究部」の時代
★部活・「書道部」ではなく「数学研究部」の時代
昔自宅があった前橋市役所当たりから前橋高校(天川校舎)まで約4Km(?)あった。
進む方向が両毛線(高架前)の線路を越えて東なので、女子高の生徒とは出会わない。
最短で12分という記録があるものの、前高に進む自転車の流れに乗って大方15分の道のり。
駅の先から続く斜め道路の突き当たり、細い農道の西に朝だけ開く駐輪場横の北門。
1年生は乗ってきていないものの50CCのスーパーカブが何台もあった。
(※斜め道路の農道・市街地だった部分を除き区画整理のため現在のケヤキ(旧ダイハツ)から先は残っていない。)
夏休み過ぎに「軽免許」を取る生徒がチラホラ出て「本検」とかいって早引きする生徒がいた。
昭和42年度中に「軽免許」を取得すると自動二輪免許が付いてきたので、それが目当てだったとは後で聞いた。
それで2年になると富士見村(現・前橋北部)あたりから、125CC(ホンダCB125)のバイクで通学する同級生もいた。
雨が降ると軽自動車で通学していた生徒もいたのは3年になって知った。
前橋高校というので前橋市からだけだと思うと、前橋市と伊勢崎市周辺の群馬県中央から東に広がる地域だった。
(現在は全県一区)
当時の隣接区域はほとんど前橋市と伊勢崎市に合併しているので、分かりにくいところが多い。
それなので前高生の約三分の一が電車通学で、当時の国鉄・両毛線で伊勢崎方面からやって来る。
前橋駅を右に出て南下し(第二校歌・右と左に分かれて泣き別れ)、当時あった養魚場の先から第二校歌にも登場する「斜め道路」という農道を行く。
(先述の通り現在一部しか存在せず)
これが冒頭の駐輪場横、北門近くの農道につづく。
帰りは正門しか開いていないので、木造のバラックのような建物・・文芸(文化)部の部室の横を過ぎて正門に向かう。
この文化部系の部室近くの屋根裏のようなところからピコピコとモールス信号の音がする。
「アマチュア無線部でもあるの?」と聴けば、2級の免許を取ったので個人的に練習をしているという。
5月頃になると、アンテナが撤去されていたから一時的なものかもしれなかった。
文化部の部室の一番奥では、4月上旬に紺の制服が出入りする様子がチラチラと見える。
何かと思ったらESSの看板。
偶然出会ってしまったら、眼鏡をかけた強そうな女子学生。
それほど前女の生徒が出入りするのかと思ったら、ESSの行事に関して2年生が連絡に来ていたらしい。
その後は白襟に赤線のセーラー服を着た(何となくナヨナヨした)女子生徒が入り浸っていたような。
しかし、5月を過ぎると前高生は忙しくなって誰も部室にはいなかった。
中学時代の部活動は短期間で止めてしまったので、高校では文化部でと「数学研究部」に入部した。
書道は、書写として小学校から塾へ通っていて、芸術選択でも「書道」は選ばなかった。
そして、今(令和4年)のように毎日書道展審査会員までなったりして、「書道」から一生抜けられないようになるとは思わなかった。
ちょうどこの頃は「書道」に若干疲れたという時期であった。
「数学研究部」の狭い部室。
先に入部していたのが同じ1中からきた浜野君。
ほかには元同級生の後藤君がいるとの話だが、余り逢ったことはない。
入部書類を書いて部室の連絡箱にいれたものの、部室にはいつも浜野君ぐらいしかいない。
それでちょうどいた背が高い三年生(部長)に「数学研究部」とは何をするのと聞いてみても、言っていることが分からない。
5月の連休前にして、部室にゆくと今度の日曜日に「数学研究部の発表交流会」をするから前橋駅に7時半集合という。
「数学研究部」の活動内容が分かるから「1年生は全員参加」と部長が言う。
日曜日の朝早く駅前の初めて利用する「自転車一時預かり」という商店に自転車を預け駅へ。
日曜日は預からないという店も、前橋高校の制服を着ていると普通に預かってくれた。
(夕方5時頃までと・・・)
前橋駅に着くと3年生2人、2年生1人、1年生3の総勢6名。
どこへ行くのか分からないままで聞くと富岡へゆくという。
高崎駅の0番線から上信電鉄に乗り富岡へ、「上州富岡」駅。
そして行くのは群馬県立富岡東高等学校(富岡東高)
(当時・女子高・2018年に群馬県立富岡高等学校(共学化)と統合し閉校)。
駅には多少人はいたものの国道254もほとんど人がいない。
富岡東高が近くなると歩いている人も車も全くいない。
富岡東高の正面玄関に付くと、待っていたと思われる紺の制服を着た女子生徒が1人いて、許可を取ってくるとかで多少待たされた。
それから空き教室に案内されて手持ち無沙汰にただ立っていると・・・
富岡東高の数学研究部の生徒に「何をするのですか」と聞かれた。
「1年生なのでついてきただけなので・・」というしかない。
2年生に聴くとほら(3年生が)説明するよという。
参加者の他高校はいない。
高高・不参加、高女はナシ、前女は維持の1人なので他の参加者はナシ。
富岡東高の数学研究部は4人。
このとき高崎地域・学区の高校生の制服は全く知らなかった。
高崎女子高の制服や校章を初めて見たのは、高校2年のときにあった前橋女子高の文化祭の時だった。
高崎女子高の校章(バッチ)は赤地の大きなもので、OGの女房殿に言わせると「100mバッチ」と呼び嫌だったそうな。
そして、今富岡東高の制服を調べて見たら高崎女子高とほとんどそっくりで、ボタンが高女の4個に対して富岡東高は3個だつた。
富岡東高の校章は小さくて気がつかなかった。
なるほど「100mバッチ・・・100m先からで認識できる。」は理由があったようだ。
それで(背が高くイケメンの)3年生(前高・部長)が「数学研究部への要望や意見など」の紙を配布してあるはずだが・・・」
そう言うもののほとんど沈黙。
富岡東高の2年生らしい生徒が「何もありません。」というようなことを言ったような。
それで部長が何やら黒板に数式を書き出す。
黒板いっぱいに数式が並んだところで図形を描き出す。
曲線(curve)だとか代数曲線?・・・・そんなふうなもの。
こんなのを書いても数IIIを習っていないからほとんどみんな「ドン引き」状態。
それで午前中は終わり、昼になったので校外へ出るも何もない。
それで国道254、駅の近くに雑貨屋があったのを思い出してそこで菓子パンを買って何とか昼とした。
午後は富岡東高の番ということだったが「何もなし」。
何だか無駄に時間を潰して
部長や2年生が富岡東高の生徒に数学研究部に入部した理由を聞くと・・・
「学校の数学の勉強の足しになれば」というようなことを聞こえないような小声で言っていたような・・・
今から思えば「数学」を教えてもらいたかったのかもしれない。
しかし、1年生だったから言えなかった。
どうも上級生は数学の崇高な理想を持っていたのかもしれない。
しかし、大学で一般数学を学びその後、数学の教員免許取得のために数学を勉強してみて数学研究部では結構浅い知識だったと思う。
実のところ数学研究部は、高校数学と一般数学の橋渡しのような勉強をするのかと思ったらそうではなかった。
そう言う「高校数学」を一般数学を使って解くというのは高校を卒業した後、浪人してから身についた。
この後5月頃になって1中出身のM君が部室にいて、遊びに来たのかと思ったら数学研究部に入部していた。
数学に関しては4月の富岡へ行った浜野君、後藤君、そして小生がその後に「数学教諭」の免許を取得した。
M君はどうなったのかは全く不明。
またこのときの3年生の部長など2名は、京都大学理学部数学科へ進学したという噂だった。
何となく後味の悪いというか「数学研究部」の未来が見えない感じで4時近くになって解散。
列車の接続の都合から前橋駅に着いたのは夕方6時頃だった。
お店のカーテンが閉まったガラス戸を開けて、自転車を取り戻したのはかなり冷や汗だった。
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