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2008年12月15日 (月)

旧家に取り憑く、「土地神」はありや?

歳を取ると過去の回想ばかり
‥‥旧家に取り憑く、「土地神」はありや?


先週末、東京にある書団の審査に当番審査員として上京した。
今頃になると冬至も近くなってくるから、朝7時前というのは夜明け前(日の出前)だったりする。
こ このところ、12月というのに11月中旬の気温で昔同時期に上京した時のような肌を切るような寒さはない。新幹線に接続する連絡列車も土曜日とあって、空 いているのは幸い。だから、新幹線もいつもなら満席状態で到着するのに空席が目立つ。お陰で一本早い何時もなら乗らない列車に乗った。
これだと、途中大宮まで止まらないので早いし「新特急」のような妙な感覚を覚えずともすむ。
朝の新幹線というのは、何時もそうだがうつらうつらとして、朝寝を楽しむ時間なのだが、不思議と「あのときは‥‥だった」という感慨に「どきり」としたりする。
時は過ぎてしまったのに、変な記憶というものは過ぎ去らないようだ。
そして、今回は過去に住んだ家にまつわる記憶を思い出したりしていた。
過去に住んでいた家、空白期間を差し引いても数十年住んだ両親と共に暮らした家の記憶である。
あの好きだった岩に絡みついた木の根、春の水仙、松葉ボタン、‥‥四季の花が咲き乱れ‥‥。小さい頃ツツジの季節には近くに地方新聞社の本社があって、そこから紙面に載せる写真を撮りに来るというのが年中行事だった。
しかし、よくよく見ると今思えばツツジは少なくほとんどがサツキだった。
今では流行らなくなった、石の回廊、赤城の噴火石の石組み。
そんな小さい頃、今12月になると庭師が松を剪定する音が朝の眠気を覚ますものだった。
その後、松の手入れが出来る庭師のハサミの音を聞くこともほとんど無かったが。

そして、それは両親や家族の記憶と、自分自身の過去の存在をも建物、敷地、樹木と共に消え失せてしまった様に感じる。
古い家というのは、「家の神様」と言うものが居るらしいと昔から聞いていた。
そんなものは迷信だ、とはいうものの小生の家にも何やら居たらしい。
それは、建物が撤去されてアスファルトで舗装された駐車場になった後、半年から1年ほどで母屋があった中心の地面が陥没した。
実は、他に二カ所陥没したところがあった。
その一つは、「御稲荷さん」があったところと、元「御稲荷さん」があったところだ。
しかもその位置は偶然ではなく、間違いなくはっきりした場所であるというのが不思議なものだった。
この「御稲荷さん」というのは昔から非常に難しい因縁があって、移動するにも「御稲荷さん」の専門の神主さんに拝んでもらう必要がある。
それで「元」の場所というのは「拝んでもらわなかった」筈なので、残ってしまったのかどうか知らないが、東向きから南向きへ移したから条件は良くなったはずとは亡父の弁。
それで、天罰が当たらなかった(?)のは設置した相続人であったからかも知れない。
‥‥相続人が移って最終的に移転させるに当たっては、今度は「本当に」神主さんに拝んでもらって撤去し、他の場所一時的に移した。
しかし、「御稲荷さん」には申し訳ないが、もう一度戻せる状態には未だなっていない。

世の中迷信というが、分からないことが多々ある。
だから、そう言う古い家にあった石や曰わく因縁のありそうなものは、その家系に連なる相続人以外の他人が移動したり持ち出したりするのは注意が必要だ。
小生の実家を買った不動産屋の社長にその点を注意した。
ところが、「塩を撒いて何でもやってしまえばよいのだよ」と取り合わなかった。
しかし、土地が陥没する頃の「土地神」の移動と共にあの世に旅立ったらしい。

そんな偶然の一致はどうでも良いことだが、同じように古い旧家を買ってマンションを建てようとした業者が、同じようにマンション建設で立ち往生している。
理由は様々だが、建物の更新はされていても少なくとも100年以上も続いた一族の屋敷跡というのは、何やら謎めいたものがある。

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