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2008年12月 6日 (土)

評論家・加藤周一氏の死去に対して思う

評論家・加藤周一氏の死去に対して思う

加藤周一氏は、1968年に出版された「羊の歌」で出会った。
それは、主語述語が無かったり、ばらばらな文章の東大卒の国語教師が絶賛する小林秀雄の「悪文」又、大江健三郎の長ったらしい長文の悪文に嫌気がさしていた頃だ。
古典の教師に何がよいかと教えて貰ったのがこの回想録「羊の歌」であった。
その「羊の歌」が読了したと思ったら直ぐに「続羊の歌」が岩波新書から出て読んだものだった。
文章は平易で、小林秀雄や大江健三郎に比べたら余程わかりやすい。要するに、頭の切れがよいと思わせる良い文章だったと記憶する。
その内容は今でも覚えているところは、医師であって「血液に関する事なら‥‥」多少分かるがと言いながら欧州・フランスへ医学留学生として渡欧したこと。
そして、「羊の歌」か「続」がどうか忘れたが、‥‥多分「続‥‥」の方で、後の夫人となるオーストラリア人の女性との出会いが書かれていたこと。
その出会いは、フランスの美術館(?)に行ったとき、誰もいない美術館で同じ歩調歩き、鑑賞する女性と知り合いになったと言う事。
その後、恋人同士になりいざ帰国となったとき、日本に残してきた婚約者の問題が浮上したこと。そして、この日本の婚約者を振ってオーストラリア人の女性と結婚を決意させたのは、この女性が言ったという「三人全員が不幸になるよりも、少なくとも二人は幸福になれる」と言うような事だった。
はっきり言って、勝手なものだ‥‥。
そのオーストラリア人の女性とは死別したのか離縁したのか知らないが、3回も加藤周一氏は結婚をしている。

この回想録でぬけぬけと自身の武勇伝を披露していると言うことなのだが、その時「日本で関係を持った婚約者の女性がいるなら」外国へ行って女など漁るなと思ったものだ。
しかも、美術館か博物館か忘れたがそんなところで、ナンパするとは日本では考えられないものだ。
事実誰もいない美術館の展示場で、身が知らずの女性に話す機会など有りはしない。
事実、その後そんな機会など、小生は一度たりとも経験しなかった。

そんな妙な感情を持ちながら、それ以後加藤周一氏の著作というものはほとんど読んでいない。
しかし、10年数年ほど前に気が付いた新聞、雑誌に妙な論説が載った。
それは、「日本国憲法第九条を世界に広める」などという荒唐無稽なことを「冗談ではなく」言う変な評論家としてである。
しかも、言論は益々先鋭化して収拾が付かないだけでなく、写真で見る限り「醜悪な面容」になった。
この様な人物には近づきたくないという面影だ。
その昔男は40歳を過ぎたら「自分の顔に責任を持て」とか言われた。
その人物の本当の姿が「顔に表れる」と言うものだ。
最近では、50歳を過ぎたらと言うことになるかもしれないが、加藤周一氏はどのように思ったのであろうか。
昔「羊の歌」を読んで感じたことは、今でも心の底に残っている。
その感情は「人でなし」だ。
確か、婚約者に「人でなし」とさんざん罵倒されたと書かれていたと思う。

その「人でなし」は、日本をあけすけに非難する。
自らの家庭も守れない人物が、日本を守れるはずがない。
いや、日本国という家族の集合を、幸せな家庭を憎悪していると言うのが、この加藤周一氏の本当のところではないだろうか。
今この世の中で、結婚も出来ない若者が増えているのに、婚約者一人を振り、三回も結婚した。
それが加藤周一氏の本当の姿だろう。

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