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2009年1月29日 (木)

なぜこうも新聞記者は、書道について無知なのか

今年も年賀状を多く貰ったが、過半は書道家でもパソコンでの宛名書きだった。
又、筆文字でいただく賀状も数多い。
一般には筆文字で上手そうに書かれていれば、書家か手先が器用な人の文字か分からないように見える。書家がもし全部そのように見えたなら書家失格、少なくとも審査など出来ない資質と言うべきものだ。
違いは、端的に言えば「線質」が違うと言うことに尽きる。
見れば、NHKが「天地人」の宣伝と共に、そのパンフ載っている嫌らしい「天地人」文字は、どう見ても書家が書かない文字である。

【勿忘草】書道 型にはまらなくても…(武部由香里記者)2009/01/28 01:27(サンケイエクスプレスWeb)というコラムがあった。
内容は石井誠氏(25)という人物の書展の感想なのだが、石井氏も若いと言うことからどうも書道の世界というものを分かっていないようだ。
なぜなら、石井氏の様な作品は毎日書道展の近代詩文か前衛書でなら「書」と認めているからである。傾向としては、前衛書の初期の巨匠大沢雅休先生あたりの書に似ているが、読めてしまうから今なら「近代詩文」と言うところだろう。

記者自身がよく分かっていないというのは、書道展というものは日展などの伝統書だけではないと言うことであり、書作品は読めるものと勘違いしていることだ。
なぜなら、書道展の漢詩の条幅作品。これが今の一般人に読めるかと言うものだ。
楷書なら何字が見当が付くかもしれないが、行書、草書になってくれば無理だ。かろうじて文字が読めても読み下し文にはならない。
それこそ漢文の知識だが、ここで「自詠詩」という作者本人が作ってしまうことがある。この時は、漢文でも読めないことはざらだ。
それなら、漢字の少ない「かな」はと言えば、「変体仮名」が三分の一を占める。
要するに、かなもほとんど読めない。
前衛書は当然読むものではないから、読める、読めそうと言うのは「近代詩文・調和体と小字数」しかない。
だから書道展というのは、ほとんど読めない書を展示していると言うのが真実の姿だ。

コラムには、子供の冬休みの宿題「書初め」に言及している。
石井氏も筆者も何を勘違いしているのか、「楽しそうに書いている。(石井氏)」とか、「書道は、上手下手を人と比較するものではなく、自己表現の一つ。」と書いている。
子供は、上手く書けて満足なので、下手でも良いというのではないというのは「書初め」の本当の姿だ。
なぜなら、学校が始まって直ぐに「書き初め大会」があるからだ。
下手な作品をかざられるほど子供は惨めでしかない。
だから、少しでも上手く書きたいと言うのが希望なのだ。

大きな紙に書く「書き初め」というのは、実はやり方がある。
小生なら2日、2時間の特訓指導で「書き初め大会」で赤賞(銅賞)程度なら取らせるまでにすることが出来る。
そして書き初めは1回で2枚まで、あと何枚書いても全て無駄。
書を書く神髄というのは、そのポイントさえ掴めば容易というものだ。
但し、「金賞」は‥‥これは短期特訓では無理だ。
そして、大人もこんな特訓で上手くはならない。
上手く書けるのは、子供の特権というものだろう。
コラムでは、
「書道は、上手下手を人と比較するものではなく、自己表現の一つ。しかられてばかりでは、萎縮(いしゅく)してしまうのも当然だ。型にはまらない石井さんの書は、お手本をまねればよいと考えがちの固い頭に、新鮮な風を送ってくれた。」とするが、記者の固定観念からするとそうだろう。
しかし、書道の「型にはまった書」を完璧に書けない限り、「近代詩文」「前衛書」などの現代書というものは絶対に書けない。
偶然書けても、直ぐに行き詰まってしまう。
展覧会に出した作品が全く同じ傾向で、いつも判を押したような文字を書くというのは、書家ではない。
そして、「書は人なり」と言うように文字を見ればその人物が分かるというのは、いつも変わらない。

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