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2009年7月26日 (日)

NHK名将の采配「アウステルリッツの戦い」

名将の采配「アウステルリッツの戦い」

(第5回 アウステルリッツの戦い2009/07/21 NHK総合 24:10〜24:39)

第5回は、Napoleonのアウステルリッツ(Austerlitz)の三帝会戦。

NHKの名将の采配「アウステルリッツの戦い」は、例によってジオラマによって説明するのだが、そのジオラマの粗雑さはどう見てもアウステルリッツ東方の戦闘地図を描き出しているとは思えない。
番組では、大筋として兵力約8万の同盟軍に対して、ナポレオン軍7万。
アウステルリッツ村西方にナポレオン軍が南翼を手薄にして展開しているのを確認して、同盟軍が仕掛けた。
後は、大方史実に基づいた筋道なのだが誰もが違和感を覚えたのは、あまりに単純すぎる上に攻め手の同盟軍が「お馬鹿」に見えてしまうことではないだろうか。
前回「名将の采配・第4回 真田昌幸“懐の深さ”が勝利のカギ」でも述べたように対戦する相手の将軍などは決して凡庸ではない。
従って、アウステルリッツ(Austerlitz)の三帝会戦も同盟軍はいわゆる正攻法を行ったに過ぎないと言う事なのである。

そして、ゲストの森永卓郎、松嶋尚美にナポレオンの作戦を答(とう)のだがあまりに前提が粗雑だと答えようがない感じがする。
一節には「お間抜けぶりも堂にいって」ともあるがそうではあるまい。
その様に、実際はNHKの名将の采配「アウステルリッツの戦い」はかえって会戦をわかりにくくする。
1805年11月ナポレオン軍は兵力5万を背後連絡線の防衛に残して、主力約15万をもってオーストリアへ侵攻した。ウィーン占領。
クトゥーゾフ大将(Mikhail I.Kutuzov)(アウステルリッツ(Austerlitz)の三帝会戦の事実上の総指揮)のロシア軍は、決戦を回避して退却。
1805年11月15日ナポレオン軍は、ウィーンに兵力2万を残しロシア軍に対処するためにウィーン北方約112キロのブリュン(Brunn)に結集。
ナポレオン軍兵力約6万5000。
NHKの名将の采配でもナポレオン軍の進撃速度が速いと指摘されていたのだが、実際10月4日から11月19日までの46日間に約800キロを進撃した。‥‥17キロ/日。
このために、実際戦闘に参加できる兵力は約三分の一に減少すると共に、ナポレオン軍は相当に疲れていると言う事が同盟軍(兵力約9万)に知れ渡っていた。

ナポレオン軍はプラッツエン(Pratzen)高地を一旦確保するが、同盟軍が進出してくるとあっけなく放棄して、ナポレオン軍はアウステルリッツ村西方3.2キロの地点に1個師団がが布陣。主力をブリュン東側、南翼を薄くして展開。

プラッツエン(Pratzen)高地を確保した同盟軍は、斥候による報告によって南翼を攻撃することに決定。これは、正攻法である。
要するに、直ぐにプラッツエン(Pratzen)高地を明け渡してしまったナポレオン軍の戦意は少ないと判断し、急に撤退したナポレオン軍の陣形の意図を読み取れなかった。

NHKの名将の采配では一切述べてないのだが、この地方特有の気象現象がある。
それは、朝方靄(モヤ)、霧かが掛かると言うことである。
その朝靄を利用して同盟軍は、夜明けと共にフランス軍南翼にブックスヘウデン軍の主力を投入。
ナポレオン軍は、残存兵力をこのモヤを利用してダヴー元帥(Louis N.Davout)軍を配置。
スルト元帥(Nicolas J.Sout)旗下・第四軍団のルグラン師団軍8,500、ダヴー元帥軍8,000。合計16,500で攻撃を食い止める。
朝9時までに同盟軍の約三分の一の兵力が投入され、更に多くの部隊がフランス軍陣地前を横切り南下。

実際、このフランス軍南翼が崩壊すれば、ブリュンへの背後連絡線が遮断されナポレオン軍は包囲される。
それで無理にでもフランス軍南翼を攻撃して、大量の軍隊を投入した理由が分かる。
ここで、ナポレオンが普通の名将であれば、スルト元帥の中央主力からフランス軍南翼へ兵力が逐次投入されて、フランス軍南翼の防衛にあたることになる。
結果、数に優る同盟軍に押されてフランス軍の壊滅。
正攻法で見れば、同盟軍の完全勝利である。

そこで、ナポレオンは同盟軍の主力がフランス軍南翼に投入されたのを見て、同盟軍の分断作戦を開始する。
ナポレオン軍中央、スルトの第四軍団17,500がプラッツエン高地を目指して、クトゥーゾフ隊16,000に突撃。
クトゥーゾフ隊は、プラッツエン高地を下りて反撃、同様にバグラチオン隊18,000、リヒテンシュタイン公ヨハン4,500の騎兵隊が、街道側よりそれぞれランヌ元帥の第五軍団13,000、ミュラ元帥の騎兵隊5,500を攻撃。

午前十時ごろ、スルトはプラッツエン高地を占領。
高地奪還のために同盟軍は、コンスタンティン・パーヴロヴィッチ大公旗下ロシア近衛兵8,500を投入。
フランス軍は、スルト軍団に続行していたベルナドット(Jean Baptise J.Bernadotte)元帥旗下第一軍団10,000などが遮断。そのまま同盟軍の間隙から真東に攻撃して、バグラチオン隊を包囲攻撃。
ブリュン~オルミュッツ街道に展開していたランヌ軍団は、進んで同盟軍の退路を遮断。

午後1時すぎ連合軍中央と右翼は退却を開始する。
フランス軍南翼を攻撃していた左翼のブックスヘウデン軍は取り残され形となり孤立。
既に残存同盟軍を撃破したフランス軍と、プラッツエン高地からの砲撃によりブックスヘウデン軍は降伏。一部は氷ったテルニッツ湖から脱出しようとし、数多くのロシア兵が、フランス軍の砲撃で氷を割られ数多く溺死。

孫子の兵法に「山の上に陣を置いてはいけない」「陣は山を背にして敷け」と言うのがあったかどうかよく覚えていない。
只、三国志で諸葛孔明が馬謖に軍を任せる時、山の上に陣を置いてはいけないと厳命したのにもかかわらず陣を置いて全滅したということがあった。
何故なら、山の上に陣を敷いても戦う時には山を下りなければならず、不利だと言うのかも知れない。

いずれせよ、アウステルリッツ(Austerlitz)の三帝会戦では、ナポレオン軍がある程度戦意を喪失しているという前提の元になされている上に、実際ナポレオン軍は先制攻撃を控えている。

アウステルリッツの三帝会戦というのは、心理作戦を導入した近代戦だったと言う事だ。NHKの名将の采配では、ここまで読み取れなかった気がする。

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