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2009年8月 9日 (日)

サイゴンの火焔樹・副題・もうひとつのベトナム戦争 ・牧 久 (著) を読む

サイゴンの火焔樹・副題・もうひとつのベトナム戦争 ・牧 久 (著) を読む

その1

ベトナム戦争に関する著作はたまに気がつくと読んでいるのだが、それは自分の青春時代に散々騒がれたことからだろう。
大学時代どこかの講習室の廊下に「反戦のポスター」が貼ってあったのを今で思い出すのである。どんなポスターだったかの黒地に「No!Nixon」だったかも知れない。
しかし、1975年(昭和50年)にどこかの赤い国旗を掲げた北ベトナム軍の装甲車が大統領官邸の門を壊して侵入し、国旗を掲げたのはTVでも散々報道された。
そして、その後のポートピープルの報道。ベトナムのカンボジア侵攻。
北ベトナムがベトナムを統一してのその後、ベトナム戦争の実態が明らかなにるにつれ、TVでも二夜連続に亘る特番がなされた。
米国を非難した米国マスメディアは沈黙を守り、逆にベトナム戦争批判を繰り返したジェーン・フォンダは自己批判をする羽目になった。
そして、日本ではあれほど騒いだ「べ平連」は、南ベトナム陥落以降全く知らぬふり。正に蛙の顔に何とやらであった。
思えば1970年頃は、小田実氏は東大助手で代ゼミの英語講師をしていた。
聞くところによると、英語授業より米国批判の講義の方が多かったと当時の受講生から聞いた。但し、小生は講習を受けたことがないので確認しようがない。
いずれにせよ、そう言う似非反戦家の扇動にも乗らなかった。
1970年と言えば、70年安保で大学紛争が激化した頃だった。

そして、今回某ブログの紹介もあってこの「サイゴンの火焔樹・副題・もうひとつのベトナム戦争」を読んでみることにした。

以前に読んだ本は、「ベトナム革命の素顔・タイン ティン(著)、中川 明子(翻訳)」(2002)であって、ドイモイ政策後であっても共産党の特権階級としての腐敗。
何の知識もない共産党員の妻が突然大病院の院長になったり、各種の搾取。ベトナムという国の共産革命とは何であったのかの疑問を解くものであった。
その他は、 ベトナム戦争の「戦後」中野 亜里 (編集)2005。
この中では、「第2部ベトナムの戦後と関係諸国、第1章日本から見たベトナム戦争とその戦後(渡部恵子・読売新聞英字新聞部記者)」では、ベトナム戦争を知らない世代による「推測」。
どう考えても、小生などの認識とは全く別なベトナム感。そして日本の歴史に対する無知が日本断罪を行っている。

「サイゴンの火焔樹」は、牧久という当時日本経済新聞記者が1975年3月陥落直前の南ベトナムへ「サイゴン・シンガポール特派員」となり、9月29日朝国外退去命令が出て、10月31日朝強制退去した8か月の記録である。
持ち出せたものは、身の回りの衣類、アオザイ人形と小さな漆塗り2点のオミアゲと30米ドルのみ。
その間、陥落後記事を南ベトナム臨時革命政府の目を盗んで日経新聞に送り届け、その日経新聞に送った記事が300ページまでの主要な内容になっている。
実を言うと、ここまでの記事というものは実際本を読まずとも以前TV特集で充分おさらい済みであった。
だから、読んでいてその内容を再度確認すると言うものだったのだが、南ベトナム臨時革命政府との折衝、記事は概略掌握していたものの牧氏のスクープ記事だから初めて聞く話もあった。
実際、その南ベトナム臨時革命政府の首脳の希望とベトナムの真実の姿を報道してしまったために「危険人物」「スパイの嫌疑」をかけられ強制退去になった。
しかし、あとで判ったことかも知れないが南ベトナム臨時革命政府としては、牧氏の報道をかばい通して、最終的にはハノイの共産党本部の命令によったらしい。

そして、後半第2部「歴史に翻弄された人たち」に書かれている在留元日本兵について言及している。
感じるところ前半の第1部は、自身のベトナム特派員としてのメモワールとして当然としても、100ページもある第2部が本当は書きたかったのではないかと思う節がある。
それは、ポートピープルの真実とその背景であり、出会った元日本兵(第2章元日本兵と民族解放)である。
その中で、元日本兵は南と北に別れて存在していることを述べ、その人達が元日本の特務機関出身だったりすることを明らかにしている。
それによって、日本経済新聞の牧氏の日本で掲載された記事は全てハノイでチェックされていたことが明にさせている。

1940 年9月日本軍が仏印(フランス領インドシナ)に進駐するのは、ヴィシー政権(親独)下のフランス領である。日本は、このヴィシー政権と協定を結んで「蒋介 石への援助ルートを絶つ」(蒋援ルート)と言う名目で進駐した。‥‥軍事に関しては日本、政治経済はフランスが主導する。
日本が降伏した2日後の1945年8月17日以降、ベトナムではベトミン、フランス軍、中国雲南軍、国民党軍がベトナム北部で戦闘が繰り返され、日本軍の将兵と武器の争奪戦が行われた。
こ の中で、ベトミン軍の中核になった脱走日本兵は約4,000人だという。(大森実・「ホー・チ・ミン不倒の革命家」)この日本兵は、ベトミン士官学校の幹 部養成に関わり、軍事教練もした。その後暫時引き上げが始まって、最終的に残ったのは7-800人といわれている。(サイゴン寿関係者)

この辺のところは、小生としては断片的にしかよく知らない。
しかし、イントネシアにしろベトナムの初期のベトミンにしろ中核となって戦ったのは旧日本兵だったし、日本軍が残した大量の武器弾薬、物資だった。
この軍事物資によって中国共産党八路軍は強力な軍隊を組織できたし、ベトミンは民族解放の助となった。

ベトナム戦争の「戦後」中野 亜里 (編集)2005
「第2部ベトナムの戦後と関係諸国、第1章日本から見たベトナム戦争とその戦後(渡部恵子・読売新聞英字新聞部記者)」
では、○年表の出来事ではなく
で「また、私事になるが、ベトナム人の義父(筆者の夫はベトナム人)が、私の友人に問われるままに、『仏印進駐時代に日本軍が、米の徴発の猶予を願い出たベトナム人を軍刀で袈裟懸けに切ったのを見た』というのを耳にしたことがあった。」と言う部分がある。

戦後日本の教育として、反戦と共に旧日本を嫌悪する教育を行った。
それと同時に、日本の過去の歴史というものをある種の一辺倒の考え方に固定した。
それは、あたかもGHQが日本人に与えようとしたWarGiltProgramそのままに過ぎない。
しかも、日本人の軍事に関する無知というのは救いようのないレベルまでに達してしまっている。
「軍刀で笠懸斬り」‥‥例の虚構「100人斬り競争」を思わせるではないか。
軍人の持っていた軍刀とは、大方指揮刀でなまくらだったのは有名である。

そして、ベトナム共産党のなどの共産主義者に共通なのは、人に助けてもらっても助けてもらったとは決して言わないことだ。

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