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2010年3月27日 (土)

金澤魯水先生逝去を悼む(個人的な弔辞)

金澤魯水先生逝去を悼む(個人的な弔辞)

大澤雅休、最晩年の弟子の一人である金澤魯水先生が3月24日亡くなった。
「金澤魯水先生逝去を悼む」と題をつけたものの齢(よわい)85歳の長命で、大往生と言った方がふさわしいかも知れない。
小生の師、横堀艸風は同じく大沢雅休の弟子とはいうものの、中島邑水先生とほぼ同時期の高弟であって金澤魯水先生などとは、多少趣を異にする。
ちなみに、横堀艸風の逝去は群馬県書道協会会長現職の時であって、当然80歳に満たない。
逝去の年齢という部分で言えば、大澤雅休は手本執筆中の63歳の時、狭心症で逝去。
近代詩文の創設者と言えるかな作家の弟の大澤竹胎先生は、「今日は、兄雅休の告別式の日だったと、家人に語り、突如、心臓発作に逝去、時に55歳。」(上毛書家列伝(上)・昭和59年刊・みやま文庫)‥‥と言った具合であった。
大澤雅休が長命の書家の倣いとして、あと20年生きておれば書道界は大きく違ったと言われているものなのである。
実際、そんなことを言えば香川峰雲先生がもっと長生きしていれば、同じく書道界というものが違ったものになったと言うことになって、収拾が付かない、というより無駄な話なのである。
さて、金澤魯水先生の葬儀は高崎市の斎場で行われた。
近年公共施設の斎場などで葬儀が行われると言うのも珍しいのだが、高崎市の住民でない小生としては行くのが初めてである。
小高い岡と言うより山の上のあるここが本当に斎場なのかと、裏のお寺の横のくねくねとした急登の参道から入ったので特にそう思った。
それは兎も角も、会場の設営の思惑違いか多くの会葬者で溢れかえっていた。
金澤魯水先生とは、書道界に30年近く在籍していると当然のことながら良く見知っていると言うところなのだが、実は一度も話をしたことはない。
そしてその葬儀では、6本の弔辞が読まれた中で常に話題にあがったのが、2007年(平成19年)3月の末に亡くなった金子魯空先生であって、その魯空先生とはよく話した間柄でもあった。
この金澤魯水、金子魯空両先生というのは、同じ「魯」と言う文字を雅号に使っているだけに大澤雅休の弟子というだけでなく、いろいろな縁があって碧玉会という今でも続く書団を創設して活躍しておられた。
そんなことは、先刻承知なのは誰でも分かっているもので話す話題でもないが、葬儀に出ているといろいろと分かるものである。
ちなみに、弔辞は

  • 1、長寿会(?)
  • 2、(財)書道芸術院北関東総局長 西林乗宣(先生・元(社)群馬県書道協会会長)
  • 3、(社)群馬県書道協会副会長 大井美津江(先生)
  • 4、上毛書人会会長 関口虚想(先生・元(社)群馬県書道協会会長)
  • 5、高崎書道会会長 金澤子卿(先生・元(社)群馬県書道協会会長)(代読)
  • 6,碧玉会会長 大島桂水(題のみ)

の一応5プラス1という長大なものになった。
思い返してみれば金子魯空先生の時は、(社)群馬県書道協会とあと一つぐらいだったかあまり記憶にない。
しかし、葬儀会場に作品集や各種の賞状などが並べられ、金子先生の書家としての業績がそれとなく分かったものである。
それは、斎場と葬儀社の会場との違いと言ってしまえばそうなのであるが、そう言うものが一切無かったというのは寂しいものである。
この金子魯空先生に関しては、作品集も頂いていることだから機会があったら紹介しておこうと思う。
祭壇の献花は、正面右に(財)書道芸術院・辻元大雲常務理事と(財)毎日書道会北村理事長、左に(財)書道芸術院恩地理事長、(財)書道芸術院北関東総局とあり、右横には(社)群馬県書道協会、香川倫子((財)書道芸術院・馨香会)、大井美津江(邑門会・秀水会)など書道関係の献花がズラリと並んでいた。
金澤魯水先生のことはあまり良く知らないというのは、前掲で述べたことでその理由というのは、いわゆる師系が違うと言うことである。
その師系が違うと言う事がよく分かったのは、大井美津江先生の弔辞によるものであった。
それは何かと言えば、大澤雅休は思いの外早く亡くなった(急逝)ために、高弟である中島邑水先生師事したということである。
それで、中島邑水先生の弟子である大井美津江先生の弔辞によって、何センチもあるほどの稽古の書作を邑水先生のところに持ってきたと言う話になる。
それはあたかも大澤雅休が比田井天来先生に通うにあたり、50センチもの厚さの書作を毎週持っていったという逸話に繋がる。
そんなことで、金澤魯水先生というのは邑門会に繋がるというのであれば、なるほどと頷けるものがある。
そう言う部分では、横堀艸風というのは孤高の名人で、組織的に弟子を育てるというのは不得手であったようなのである。
それにしても、ほとんど関係のないと思われた高崎書道会会長 金澤子卿先生の弔辞というものは中々注目するところで、金澤魯水先生も書道史の一部だったことを思い起こさせるものであった。
金澤子卿先生の話というのは、高崎書道会の歴史を直前に読んでいたために、昭和24年(1949年)8月の東京都美術館で「日本総合書芸展」(毎日書道展の第2回に相当)の話が出て来たのには驚いた。
この時、金澤子卿先生というのは漢字部門入賞者20名という時に、その一員として褒状を貰ったとあった。
弔辞では、金澤子卿先生と金澤魯水先生は、その後群馬県書道展創設に係わることを述べられているが、金澤子卿先生は以後毎日書道展に拘わっていない。
金澤子卿先生は、昭和33年に日本では唯一の于右任先生の門人となって日本の書団との係わり合いを絶って今日に至っている。
それにしても小此木草卿先生(毎日・大字書部)によれば、黒澤春来先生に習いに行っていた時に、金澤子卿先生とその奥様が同門だったと言うから書の世界というのは本当に良く分からないことばかりである。

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