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2010年4月17日 (土)

<アーカイブ>syuun の不思議な少年時代 その24 Episode 1 その4

syuun の不思議な少年時代 その24 Episode 1

その4

その3では、S幼稚園の今で言う年中組の夏休みの話しの途中で終わった。
なぜ「今で言う年中組」なのかと言えば、当時3年保育というのは保育園では当然としても幼稚園ではほとんどいなかったからである。
その理由というのは、一つには費用の点があったのではないかと思う。終戦後という雰囲気は、だいぶ薄れたとはいえ、いわゆる独立してから間が経っていない。
だから一応占領体勢がなくなったとは言え、まだMacArthurという言葉が普通に出てきた時代である。
当然、今で言う私立学校に対する憲法違反の補助などは行われていなかった。
それだけでなく、戦争から帰ってきて職がなく公務員や会社員に転身した人達は当然、新人の初任給しか貰えていない時代。
当時流行った「安月給」とは、30歳台半ばの人達が戦後の大学出たての人達と同じ給料で働いたから文字通り「安月給」である。
戦後の給与体系というものは、戦前の給与体系とは大きく違う。
戦前の給与体系とは、今の欧米などの給与に似ていて数少ないエリートの大学卒(学士)だと幹部候補生というので、初めから今で言えば年俸1,000万円くらいは貰えた。
帝大(旧帝国大学)出は月給100円、私大(早稲田、慶応、立教など)だと50~70円という時代。
1,000円あれば一軒家の家が建てられたと言うし、税金も高くなかった。
大学の下に旧制高校、旧制専門学校、旧制中学、旧制小学校。
旧制中学で代用教員の資格(今で言えば短大並み)が貰えたから、大卒というのが学士様と言うはずである。
日本の高度成長というのは、そう言う安月給の元々のエリートと軍需工場の優秀な技術者が薄給でも、その末端で支えたものである。
そして、まだ街の風景もバラックの様な建物がそこ、ここに残っていた。そんな建物は、一つの扉を開けるとそこが台所であり、玄関であり生活の場だった。

その夏休みの絵画教室は、少し名が知れた画家が直接教えるというものだった。
多分附属小学校でも絵を教えていた先生のようだった。
もしそうなら、大学の教授と言う事になるが、虚(うろ)覚えに名前(N先生?)を覚えているに過ぎない。
そして、その絵画教室は7月の土日曜日に4回(先生の都合で3回)、8月の夏休み明け直前の土日曜日に4回程度のプログラムだった。
7月の第1回から行かなかったのは、母が幼稚園に尋ねて行くとまだ「K園長先生がいらっしゃるので‥‥」と断られ、第2回目は「K園長先生が帰られたから‥‥」と言って、参加できたのである。
第3回目は母の都合で行かなかった。
後半の8月の第1回目は、2時頃に行ったのだがK園長先生は、この土日どこかへ出かけていて不在ということ。
だから、K園長先生は翌日も不在という話で第2回目は、午後1時半過ぎに出かけていった。
ところが奥の方に、例のK園長先生がいるではないか。
そこで何やら不意に見学に来たという風体で見ていると、K園長先生は無視している雰囲気。
そこは、元々絵画教室に来ていたのだから教えていたN先生が参加しても良いという態度を取ったために、何やら参加することになった。
そんなときというのは、やはり不思議と幼稚園の先生はどこかに消えていないというか、帰ってしまったようだ。
そして時間が来て、N先生が用事がありますのでと後片付けもせずに帰ってしまうと‥‥迎えに来た母親に頃合いを見計らって、このK園長先生が文句を言いに来た。
K園長先生・「これは(高額)寄付をいただいている人達のためのものですよ」
母・「はい分かりました。寄付をいたしますので‥‥参加させてください。」
K園長先生・「‥‥‥‥‥‥‥‥」
母が言うのには、7月、8月は夏休みで幼稚園に行かないので、寄付をしなかったそうだ。
それで、7,8,9月分をまとめて(金額を多くして)寄付をしておいたそうである。
それが第3回目になると、結構見た事がある園児の何人か参加し始めた。
‥‥それは、子供一人で家に置いておけないので、一緒に園に行って月謝と寄付を払いに行った時、居合わせた他の母親に「絵画教室」の話を聞かれてしまったからである。
そこで、それならうちでも参加したいという母親がいた。
そこで即座に寄付を払いその親は確認を取った上で、参加してきたと言うことである。
だからその絵画教室は、何やらやる気のない園児ばかりだった中に、何か学ぼうとする興味津々の園児が参加して俄に活況を呈した。
そして、それは今回は模造紙に描く場所を得られなかったくらいである。
しかし、そのK園長先生の顔をしっくり見ていると何やら「苦々しい」雰囲気が見て取れたのは面白かった。
‥‥というか、絵をまともに描けなかったからそんなことばかり見ていた。
そして教室が終わる時間に母親が迎えに来ると、最後にK園長先生は言ったのである。
K園長先生・「絵画教室は今年で終わりにします。次回は自由に来て構いません。」
第4回目は、母に用事が出来て遅めに連れられ、母はそのままどこかへ行ったのだが、例の「坊ちゃん風」の男の子(仮にFとする)はいつも通り先に来ていて、手持ちぶさたに菓子を食べている。
子供と言うのは、他人が何かしている時は一緒にやりたいと思っても、誰も何もやっていないとやりたくないものだ。
それでN先生が何か指示を出したが、そのF君は嫌々ながら立ち上がり、炎天下に広げられた模造紙に何か描き始めた。
F君「S君も描けよ‥‥」と誘われて、何やら書こうとしたものの何も思いつかない。
それでF君に
S・「今日はポスターカラーを使わないのかい?」と聞くと。
F君「ああ、今日は最後だから使わないんだよ。」と淡々と描き始めるが、何を書いているのかさっぱり分からない。
‥‥と途中で辞めて、又菓子を食べ始める。
それは、8月の末とはいえ炎天下では暑い。
この頃というのは、当然エアコンなどない時代、夏は決まって37℃でその上下にはピクリとも動かなかった。だから、多少涼しい園庭で絵画教室をやっていた訳である。
但し、舗装路も戦車が通る国道以外なかった時代であるし、庭木や草がそこ、ここに生えていたから結構風は涼しかったものである。
そして、毎日夕立が判で押したように午後に来た。
突然雨が、ポツポツと振り始め‥‥慌てて園児と母親、N先生などが濡れるものを片付けているうちに「ザー」という音と共に雷雨。
この雷雨は、帰るまで永遠に続くかと子供ながら思ったほどだがほどなく止み、見れば雷雨が上がった頃を見計らって幾人かは帰ってしまった。
又絵画教室が始まった。
ポスターカラーというのは、5歳の幼稚園児の頃は知らなかった。
そのポスターカラーの原色というのは、不思議と子供の目には実に鮮明だった。
今のように年寄りになると、目も濁って子供の頃ほど明るく見えない。
そうとは言っても、その頃の都市というものはどこもかしこも「無彩色」の世界だった。
母に連れられて乗った旧国鉄の蒸気機関車(SL)も白と黒。蒸気の白と車体の黒。
母が省線(鉄道省・線)と呼んでいた山手線。
当時はえび茶色に光り、日陰のアメ横の黒い雑踏は冬では釜飯の白い湯気がだ酔っていた。
白い舗装路などなくて、例え新しいものでさえ、直ぐに未舗装の道路からの埃で、何もかしこも薄汚れた雰囲気になった。
だから、ポスターカラーの原色というのは、夏の強い光りと共に子供の目に強烈に焼き付いた。

絵画教室は、雷雨が上がって再開した頃にはもう何も緊張感がなくなってしまっていた。
一旦終ったものをもう一度取り出すとは言うもの、もう終わりだからと何やらやる気のない雰囲気が漂う。
そして、時間が来て
「終わりにします。片付けてください。」というどこからとも無いかけ声。
F君に「このポスターカラーどうする?」と聞くと‥‥
F君・「あ!それ‥‥うちで持って来たんだ!」
    「うちじゃ要らないから、みんなやるよ!」
と手に持っていた派手な色や、使い掛けのポスターカラー瓶のを全部よこした。
何が何だか分からないが、N先生よりなぜかそこを仕切っている様なF君が不思議ではあった。
しかし、何やら妙な感じの幼稚園生活半年であったのである。
実は、この秘密のプログラムというのはそれ以降も深く潜行して続けられていた様なのである。
しかし、この時は何も分かっていなかった。

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