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2010年5月 3日 (月)

佐伯啓思・「保守」が「戦後」を超克するすべはあるのか・を読む2

佐伯啓思・「保守」が「戦後」を超克するすべはあるのか・を読む 2

雑誌正論6月号、「佐伯啓思・『保守』が『戦後』を超克するすべはあるのか」という記事。
表題部で、「保守」と「戦後」と言うものを規定しているから、この「保守」と「戦後」と言うものを定義づけてやらなくてはならない。
従って、この16ページにも及ぶ論文の冒頭は‥‥「保守」という立場の困難さ‥‥という副題で書き出している。
ところが、ここで簡単に「保守」と言うことを定義づけてしまっては、結論まで数ページも持たない筈なのだが本分では9ページも要している。
このことから見て、この9ページに書かれていることの半分以上は文章を膨らませるページ稼ぎというものと取って良い。
では、そのページを膨らませている部分を勘案して分析してみよう。
先ずとしてこういう文章がある。

「一応のところ、大きな構図で言えば、民主党がリベラル、自民党が保守、という図式をあてはめたくもなる。しかし、話はそれほど単純ではない。」

今自民党が下野して民主党が政権を取っている現在、本来「保守」と評されていた自民党が、民主党の失政にも拘わらず支持率が低迷している。
このことを見れば、国民の視点では自民党が民主党の対極にあるとは思われていない証拠である。
日米関係を除けば民主党のバラマキ政策や及び腰の国防問題、自衛隊敵視の思想など自民党と民主党とは変わることがない。
事実、民主党が日本解体政策として推し進めていると保守派が言う3点セット、民法改正・選択制夫婦別姓制度、外国人参政権、人権擁護委員会の設置など自民党内部でも推進の動きがあった。
只、自民党内では内部の保守派によって実現しなかったにすぎない。
このことから見て、自民党を保守と規定するのは、無理があるだけでなく世界水準から見れば間違いなくリベラルに相当する。
従って、佐伯啓思論文で「自民党が保守、‥‥話はそれほど単純ではない。」と述べるのは現在では常識に価する。
それ故に、自民党は民主党との差別化を主張する人達によって離党、新党結成が行われて新聞ネタになっている。
そうであるならば、自民党を元々のリベラル政党であると言ってしまえば、ならば保守とは何かと問われることになるが、佐伯啓思論文ではそうなっていない。
それは「自民党が保守、という図式をあてはめたくもなる。しかし、話はそれほど単純ではない。」続いて次の文章が来る。

「この場合のリベラルそして保守とは何か、といえば決して明快ではないからである。」

分かりやすく解読すれば、自民党も民主党も保守、リベラルでは論じられないと言うことであって、当然自民党は政策的にあるときは保守、あるときリベラルと主張する。
ここで佐伯啓思論文では、「保守政党であった自民党」と書いているから、認識としては自民党は保守政党であったと言うことであろう。
又そこで「保守政党であった自民党」と言い切ってしまうと、祖語(そご)が生じるから、佐伯啓思論文では

「保守の原点に立ち戻ろうとか、保守を再定義しようとする動きが出ていることは歓迎すべきことだし‥‥」

と「保守」を定義するはずがまた元に戻って定義もしないで「保守」のことが出てきて、堂々巡りである。
しかも、「保守を再定義しようとする動き」などは聞いたことがない。
これから、「保守」という従来からの認識である考え方を避けて、「保守」ということを定義しようと散々苦労していることが伺える。

そして、「そもそも『保守の原点に立ち戻る』とはどういうことなのだろうか。」

と書き出して、保守とはあまり関係のない脈絡を追加し「保守」説明にもなっていない保守を規定して、次の結論に移る。
ここで佐伯啓思のいう「保守」とは、その時の時代や変化に対応せず、又は変化に「振り回されない」、惑わされない立場と主張している。
しかし、そう言う「保守」という規定は短絡しすぎ、又実に軽薄で保守と伝統宗教と同一視するような考え方というのは、どう考えても保守思想では有り得ないのではないか。
そして、保守とは単に伝統を守り変化を求めないことと規定するのは、ある種の思想的バイアスが懸かっている思えないのである。
だから続く論点は、

「この時代に『保守』を唱えることの困難さの第二の理由は、戦後日本という特異な空間に関わっている。」と言う事になる。

この日本の戦後に対する「特異な空間」というのはSyuunとしても納得するところなのだが、本当にそうかと思えばそうでない。
続いて、こう書かれている。

「もう少し時代をさかのぼっておけば明治といってよいのだが、要するに、日本の近代化が、一方で『王政復古』のように伝統的日本(と思われるもの)へ回帰を意図し、‥‥」と又「保守とは伝統」と解釈している。

そして次に、MacArthur司令部による日本占領政策による結果に言及して行くが、はっきり言って「保守」の説明にはどうでも良いことを挿入して良くやるものだと感心する。
そして、その保守議論はまだまだ続き、保守という根本の本質その物の廻りをまんべんなく回ると言う議論を展開する。

正直言って、「どうでも良いことを延々と書くなぁ」とこういう文章には腹が立つ。
なぜならば、その本質を知りながらその本質を書きたくないという意図があからさまであって、わざと視点をそらしていると思われてならないのである。

さて、まだまだ延々と「保守」の定義の議論は続く。

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