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2010年12月23日 (木)

神の国に殉ず 上 阿部牧郎 著を読む その1蘆溝橋まで

神の国に殉ず 上 阿部牧郎 著を読む その1蘆溝橋まで

この小説は副題に「小説 東条英機と米内光政」とある様に東条、米内を中心として支那事変にいたる背景のみならず日露戦争などを通して東条英機と米内光政の伝記的なものである。
しかし、冒頭の「県人会」の項目は板垣征四郎陸軍大臣就任(昭和13年(1938年)6月19日近衛内閣)であり、その後に1年前の蘆溝橋事件(1937年7月7日支那事変)から改めて始まる。
そして、中国が日中戦争の発端として喧伝する蘆溝橋事件などは単なる小競り合いにすぎず、実は上海事変(第2次)が本当の日中戦争(日支事変)であることを改めて政治史を通して紹介している。
大方この辺までを読むと、結果を知っている者としては何やら重苦しくなるのは誰もが感じることではないだろうか。
多分、読む方としてはこの辺で諦めてしまうのだろう。
この小説は、戦争の戦闘史を描いているのではなくあくまでも当時の陸軍、海軍内部での政治史である。
黄文雄氏は、日中戦争について「日中戦争は中国の内戦に対する日本の人道的道義的介入であった。中国のブラックホールに日本は巻き込まれたのである。‥‥‥」と述べている。
その中国のやり方というのが日本軍を徴発し、その軍が乗ってこなければ単独旅行中の軍人(1937年8月9日上海陸戦隊第一中隊長大山勇夫中尉と斉藤要蔵一等兵が虹橋飛行場付近で中国保安隊に殺害される)、それでも効果がなければ無防備な民間人邦人を攻撃して敢えて徴発するというものである。
年月を経たとしても、北清事件が事実上延長戦の形で展開されていると言うのが中国の事情であったと考える。北清事変の時は曲がりなりにも清朝政府が健在だったが、中華民国蒋介石政権も軍閥の一つにすぎず、自治政府などが乱立している。
都市国家、城壁国家という古代に戻ってしまったというのが北清事件以降の中国の状況である。
そして、日本が中国の徴発に乗ってこないので邦人虐殺に着手した最大なものが通州事件(1937年(昭和12年)7月29日・北京東約18キロ)である。
親日派の「冀東防共自治政府」の長官の妻は日本人だったと言うから虚を突かれた。
この後に支那駐屯軍は、北京周辺の中国第29軍を追い払って北京周辺の邦人約4,000人他を守った。
この時期に当たって、関東軍参謀長の東条英機中将は参謀長でありながら東条兵団を組織して、内蒙古へ進撃(職名 戦闘指導所長)。
その後、参謀本部第一作戦部長を追われた石原完爾少将が関東軍参謀副長に就任し、東条参謀長と対立する。
この東条英機の感覚を考えると、二二六事件の青年将校の一般的に言われている考えとよく似ている感じがする。そして、当時の石原完爾の戦略的な考え方とは違い「バスに乗り遅れるな」という競争主義や時代と共に、変わる中国の軍事情勢の無知など現代の政治家に通じる侮りというものがある。
当時の超エリートだった幼年学校・士官学校・陸大という陸軍参謀というのが、非常に狭い視点でしか物が見られなかったことが推察される一面である。
そして、満州事件を起こした石原完爾という人物の非凡さと言うものは中盤に書かれているとおり、「幼年学校・士官学校・陸大」という超エリートを超越していたことを物語る。

国民党軍などの中国軍は、必ず防備が手薄になった拠点に攻撃を仕掛けてくると言うのが常套手段である。常套手段と言うよりこれは当時の日本以外の軍事的な常識というものだ。
だから通州事件は、日本の第二連隊が移動して110名の守備隊しかなくなったところで保安隊によって攻撃された。
同様に上海事変(第二次)というのは、日本租界に海軍陸戦隊司令部に約4,000人の隊員しかいなかったところである。
そこにドイツは軍事顧問団を派遣すると共に、強力なトーチカと膨大な武器輸出と共に上海の日本租界などを攻撃した。
これは「当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファルケンハウゼンの計画にそって、国民党軍は上海租界を攻撃(ウィキペディア)」と言う風に、周到に計画され中国側から仕掛けられたものである。
従って、日本が三八式歩兵銃というライフルしか持てず、銃弾も節約していたのに対して中国軍はドイツのシュマイザーなどの軽機関銃やイギリス製の高性能の武器を使っている。
又、毒ガスを多く用い、銃弾もダムダム弾という今では禁止されている殺傷能力の高い物だったりもする。
持っている拳銃自体もドイツ製で、馬賊がモーゼルを持っているシーンは昔の映画ではよく見られたものである。
こういう実態で人なと見えないところから銃弾が飛んでくるような近代戦なのに、百人斬り裁判で裁判長が日本刀で「百人斬り」を実行したと認めるような白兵戦中心だと思われた記事があったことがある。
しかも、今の仙谷官房長官など中国に「悪いことをした」と言うような引け目と同時に、当時の中国人は「文化の遅れた軍事的に無力な人達」と考えている節があるというのは事実と反する。
そして、本当は彼ら左派人士とみられる人達というのは、相当当時の中国人をバカにしているのだと思えてならない。

ここまでの経緯に対して石原完爾参謀本部第1部長の話が出ている。
1、「蘆溝橋事件が拡大し、日本軍が北京天津地区を制圧したとき、石原は満州との国境線まで兵を引いて蒋介石と和平交渉をするべきだと主張してやまなかった。」
2、「上海の陸戦隊を撤退して、居留民の財産を肩代わりしても、『戦争よりは安くつく』とさけんで陸軍の派兵を拒もうとした。」
石原完爾は成し遂げられなかったが鉄人であると述べられている。
結局それが事実上の参謀本部の主(ぬし)である石原完爾が参謀本部を辞めることになった。
この上海事変の時の米内光政は、「鉄人どころか煩悩のかたまりである」と述べられていると共に、「和平を徹底追及すれば『世論』の袋叩きになり、海軍を追われたかも知れない。」とある。

さて、今の感覚で見てみれば石原完爾が「満州との国境線まで兵を引いて蒋介石と和平交渉」との主張に対して、ある意味実行しても上手くいったかどうかは疑問である。
なぜなら、中国人というのは本書でも数々と指摘されているとおり約束を守らないし、引けば押してくるというものだからである。
その感覚で言えば石原完爾の案の通り満州国境まで引けば、次は満州と言う事になろう。
しかも、歴史上のイフはあくまでも想像の域を出ない。
一方、上海事変に関しては、今なら世界の趨勢として石原完爾の意見と同様な態度を取るであろう。
そして、歴史上のイフを考えてみれば実行していたら日中戦争は起こらなかったかも知れない。しかし、その時の世界というのはアジアで独立国というのは日本と東南アジアのほんの一部であり、インドは英領であるし、インドシナは仏領‥‥。
この時代にあって今のような対応が出来たかどうかは疑問でもある。

そうであるならば、上海事変以降において「南京を落とせば戦争が終わる」という幻想を勝手に抱き、南京攻略戦に突入していった軍部の戦略眼のなさと甘さを考えてみなければならない。
こんなところで冒頭の県人会に戻り、次に米内光政と東条英機の幼少からの伝記が始まる。

ここで冒頭の県人会。
支那事変(日支事変と昔の人は呼んだ)が佳境に入ったとき、日本の軍部の首脳が東北地方
特に岩手県盛岡周辺又は出身者であることである。
これらの人物を書き出してみると

満州事変立役者‥‥
板垣征四郎陸軍大臣・中将(関東軍高級参謀後・大将)盛岡
石原完爾少将(後・中将・参謀本部作戦部長)山形県西田川郡鶴岡

東条英機中将(関東軍参謀長・陸軍省次官‥後首相)父親まで盛岡
米内光政中将・海軍大臣(首相)盛岡
山屋他人海軍(予備役)大将・盛岡
及川古志郎海軍中将(第三艦隊司令官)・盛岡
と言うように、陸海軍の中心的な人達がほとんど東北地方なのである。

奈良・平安時代の征夷大将軍から日露戦争まで、藤原系の将軍に関東武士団(蝦夷)の実行部隊というのが当たり前だった。
ところが、満州事変以降、日支事変など「蝦夷」の将軍に対して「蝦夷」の実行部隊という編成になっている。特に、東条英機などは旧薩長軍閥を徹底的に排除するのを使命としていた。
平安時代後期の奥州(東北地方)を舞台とした前九年の役、後三年の役という取り留めのない奥州戦を見てみれば、どう考えても戦略を持って戦争を戦ったという意味合いはない。そして、そう言う感覚が引き継がれたのが東北地方出身の日支事変前後の日本軍隊というものであろう。
ちなみに、徳川幕府の徳川・松平家は藤原系の殿様、重臣に、関東武士の奉行、上士というのが常識である。
関東武士団というのは、戦闘部隊としても優秀だったが、能史であり官僚としても傑出していた。
教えられたことを学ぶ能力と、教えられたまま実行に移す能力というのは関西の藤原系では及びもつかない。
全国学力試験を見ても関西より東北の方が圧倒的に成績がよいというのは、この証拠ではあるまいか。
だから、彼らは陸軍士官学校などでは優秀な生徒に違いない。
優秀な生徒は往々にして学校秀才であって、「東大までの人」と「東大からの人」と揶揄されるように「謎解き秀才」というのは希有である。
「祖父たちの零戦」の戦闘機隊長、進藤三郎、鈴木實両氏は藤原系であって、海軍兵学校ではビリに近い成績で卒業した。
やはり学校秀才は軍人に要らない、有害であると思うことしきりである。

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