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2011年3月 8日 (火)

確信を突かない多胡郡建郡1300年「多胡碑は何を伝えようとしたのか」

確信を突かない多胡郡建郡1300年「多胡碑は何を伝えようとしたのか」

2011年3月6日に高崎市の群馬音楽センターで行われた多胡郡建郡1300年記念事業シンポジウム。

講演者は、
記念講演「東国における渡来人の位相と多胡郡の建郡」
土生田 純之氏(専修大学教授)

記念講演「多胡碑の輝き」
平川 南氏(国立歴史民俗博物館館長)

基調講演「渡来人の東国移住と多胡郡建郡」
亀田 修一氏(岡山理科大学教授)

基調講演「多胡郡成立前夜-古墳時代の多胡郡域」
右島 和夫氏(群馬県文化財保護審議会委員)



この講演会を丸一日聞いて納得したと言う人はいただろうか。
要は渡来人と日本の歴史に絡むことで、奥歯に物が挟まった様な言い方であったり、古代古墳時代の文物という関係ないことばかり述べている。
外周まで迫るというのは、平川先生の話であった。
「多胡郡の名は、多勢の胡人から成る郡に由来されている。『胡人』とは、中国では、北方または西域の異民族を指していう。」
この話だけで実は大凡多胡碑の由来と意味というものが、多少古代史に理解があれば直ぐに氷解するところである。
ところが、この古代史の部分於いて誰も言及しない。それは敢えて言及しないのではないかと思えてならないほど不思議な事実である。

それでは多胡碑というのは、碑文にあるとおり「羊に給う」と言うもので、「‥‥右大臣・正二位藤原尊」で終わる。
ここで、平川先生は正二位藤原尊とは藤原不比等であって、尊(みこと)と尊称するのは目下の者が目上の人に大して使う言葉だと解析されている。
即ち、多胡碑は多胡郡を賜れた「羊」という人物がその記念のために碑を作ったと言うものである。
それがどういう意味なのか、この先生方は誰も説明していないのでこれを検証してみよう。
ではなぜこれほど感激して碑を造ったのかというと、日本人は余り良く理解していないかも知れない。
しかし、世界的な視野即ち、欧州、ロシア、中国などの慣習では「土地(荘園)を給う」というのは、貴族に封じられたという意味がある。
日本の貴族というのは非常に狭い意味合いがあって、世界の貴族の水準から言えば王族に相当する。
そして、荘園をもらった人物は日本人的な感覚ではない世界観を持つ渡来人であると言うことが鮮明である。
その渡来人は、平川先生の説明通り「胡人」である。胡人とはチベット高原の先住民であることに異論はないだろう。
このチベット高原の遊牧民は、紀元前12世紀頃から中国の歴史に顔を出している。
殷と言われた「商」王朝は、宗教国家として有名であって、その神器には羊文様を用いたことで知られている。
東京・南青山の根津美術館に「双羊尊・殷時代 前13〜11世紀(重要文化財)」という神器がそれを示している
その時に胡人であった遊牧民「羌族」を捕らえて生け贄にするという人間狩りが行われたことは史実である。ところが紀元前1046年に易姓革命によって周が成立し商王朝は滅亡する。
この話は「傾城」として有名な天下の美女、殷の紂王の寵姫・妲己と周の太公望による物語として有名だろう。
この太公望こそ「羌族」(南羌族)であり、封じられて「斉」の国になる。
斉の国から、例の孫子の兵法の孫武、孫臏が生まれ、孫臏と同世代人が孟嘗君・田文と言う事になる。(紀元前3世紀)
その後斉は「漢」に吸収され(弾圧される)、後漢、以後元朝(1227年)によって滅ぼされるまで中国民族の中枢をなす種族である。
さて、この「羌」とは実は「ひつじ」とも読み、呼称文字としては「羊」を使う。
これで「羊」の謎が解けたと言うものだろう。
要するに多胡郡は、胡人である羌族(羊)に与えられたと言うことである。
そして、その給羊はかねてからの念願が叶えられたことを現す。しかし、それだけでなぜ羌族に当然褒美としての荘園かが与えられたのかが解明出来ていない。
しかも、群馬の上野地区というのは7-8世紀に於いては重要な場所を占め、多胡郡には「俘囚郷」という蝦夷(俘囚) の郷も含まれていたことから見て、並大抵のことではないことが分かる。
結論を言えば、羌族というのは鍛冶屋である。鉄の製造技術を持った当時のハイテク集団と言う事になる。

しかしこの説明だと、たとえば群馬県教育委員会文化財保護課F氏などが説明する「群馬に来た朝鮮人から鉄の技術を学び、木製農具から鉄製に変わったことで開墾が進んだ。」と言う説明が成り立たない。(上毛新聞・2010・12・1掲載・「日韓の歴史を教育者ら語る」)
こういう妙な部分は次回解説するとして、この様に大和朝廷から長年の功績を認められて念願の土地・荘園が持てたと言うのが多胡碑の由来である。
中国的な意味合いであれば、冊封されたと言うことでどうしても碑にして記念しなければという顕彰碑である。
その顕彰碑というものは、実は多賀城碑もそうである。

多賀城碑は、多賀城が神亀元年(724)大野朝臣東人(おおのあそんあずまひと)によって建てられ、藤原恵美朝臣朝獦によって修復されたことを記念して建てられたと言うことが書かれている。
何のことはない、藤原恵美朝臣朝獦が陸奥国按察使(あぜち)兼守鎮守府(ちんじゅふ)将軍大養徳守(やまとのかみ)従四位上勲四等となり参議になった顕彰碑というもの。
この点、多胡碑と非常によく似ているところである。

この奥羽は、結構難しいところで多少書いてみると(syuunWebサイトから多少引用)


 大野朝臣東人「按察使(あぜち)兼鎮守(ちんしゅ)将軍従四位上勲四等大野朝臣東人」。
 養老4年(720)9月に蝦夷が反乱を起こし按察使(陸奥国守を兼ねる)の上毛野広人(かみつけのひろひと)が殺され、この反乱は征夷将軍多治比県守(たじひのあがたもり)以下の大軍派遣により鎮圧される。
 この後大野朝臣東人は、神亀元年(724)2月に従五位下から従五位上に昇叙される。
 その位階は陸奥国守の官職に相当するためこの年陸奥国守に任命されたと思われる。
 その翌年3月又蝦夷が反乱を起こし大判官を殺したため、朝廷は大将軍藤原馬合(うまかい)・副将軍高橋安麻呂(やすまろ)を派遣して平定する。
(陸奥国守や鎮守府将軍は遥任として介(次官)や副将軍 に委ね赴任しない)
 この功により、大野朝臣東人は従四位下勲四等に三階級特進する。
 その後、天平9年(737)大野朝臣東人は陸奥国から出羽柵への道路を通すため男勝村征圧に乗り出す。
 朝廷はこれを許可し兵部卿藤原麻呂を持節大使(天皇の名代の将軍)に任じ騎兵1,000人を向かわせ、東人はその一部を加え騎兵459人を含めた奥羽兵6,000人を動員した。

又、朝鮮との絡みに関しては、次回検証してみたい。

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