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2014年1月29日 (水)

<アーカイブ>「読む年表 中国の歴史」・岡田英弘著を読む

1338834349 ●この本は、あとがきにあるとおり岡田英弘の著書(「中国文明の歴史」など)を参考に、その中から歴史的事実と推考を年表としてワック出版が編集したものである。
この大きな命題は、本の帯にあるとおり「『中国5千年』のウソ」である。
その冒頭で「『中国』という『国家』も、20世紀にいたるまで存在しなかった。」と書かれている。
●この本の中では、日本との関わりも多く書かれていて
57「倭奴国王が後漢に朝貢」
107「倭国王帥升の朝貢」
239「倭の女王卑弥呼の使節団が来訪」
608「倭王多利思比狐が隋の煬帝に朝貢」
663「白村江の戦い」
その他である。
この本は、基本的に中国の歴史書を読み解き解説してくれる。実のところこの著書を読んでしまえば膨大な著述を読まなくて済むというものである。
しかし、その詳細というのがもっと知りたくなりもっと読んでしまうというのは出版社の罠かも知れない。


その中国の歴史書を読み解き解説とは、歴史書が常に中国皇帝の正統性を記録する王朝の「公式の史書」と言うことである。そういう文脈で見ることによってたとえば日本(倭国)と古代中国というものの関係が分かり、又あまたの謎と言うものが分かってくる。
なんと言っても当時辺境のまだ統一国家でもなかった倭国が「倭奴国王」や「親魏倭王」という辺境国として最高位の勲爵を得ている疑問というのも氷解する。
又、日本との関わり合いのことから日本書紀の疑問点を導き出している。
608年「倭王多利思比狐が隋の煬帝に朝貢」の倭王・多利思比狐(たらしひひこ)、姓は、阿毎(あま)、字(あざな)は多利思比狐、号は阿輩雞弥(おほきみ)、王の妻の号を雞弥(きみ)、太子は、利歌弥多弗利(りかみたふつり)であるという。

この部分から「推古天皇と聖徳太子が実在したかどうかは、極めて疑わしい」という結論になっている。
この部分は、「日本史の誕生」という岡田氏の多くの論文を集めた本に詳しい。
実のところ日本書紀も史記に見習って、天武天皇がその正統性と日本国の建国事業の一環として書かれているわけである。
事実としては、天皇家の王朝としては「王系の切れ目」断絶がある。
1 23代 顕宗天皇
2  26代 継体天皇
3 34代 舒明天皇(629年)
この舒明天皇の子が天智、天武天皇と言うことになる。

1338911254

●中国の歴史で「漢民族」という言葉がある。
しかし、この漢民族というのは事実上後漢後期に消滅したという事実を史書から調べ上げている。
*「漢書・地理志」より、前漢の平帝の元始2年(紀元2年)、帝国の総人口は約6,000万人。
*王莽の末年の内乱後は、20%(約1,200万人)に減少したという。
*後漢の光武帝が崩御したときの人口は約2,100万人(日本史の誕生・より)
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*後漢の中国の総人口は140年の統計で、約5,000万人
三国時代の魏の人口は、約250万人、呉は約150万人、蜀は約100万人と言われ合計で500万人という。
これで、黄巾の乱(後漢末期)から三国鼎立の時代には、中国の人口は10分の一に減少して漢族の事実上の絶滅と述べられている。
●それでこの本を読んでそうだったかとあらためて確認したのは、隋王朝、唐王朝の成立過程である。
十八史略を読んでいて、この三国鼎立の時代までは割合とその成立過程というものが分かりやすい。しかし、隋王朝、唐王朝となると突然登場するのが中々理解出来ないところであった。
実を言えば、この三国鼎立から晋の時代、南北朝の時代に書道の著名人がでている。
*有名人で東晋     王羲之、王献之、 北魏 鄭道昭など多数。

隋と唐の帝室は、元々遊牧民の鮮卑人・西魏の宇文泰の「八柱国」とその下の「大将軍」からなっている。
八柱国の一人、隴西郡開国公李虎--李虎の孫が李淵(唐・高祖)
大将軍の一人、陳留郡開国公楊忠--楊忠の息子が楊堅(隋・高祖)
そして、この時期に秦、漢時代の中国人が絶滅した証拠に漢字の読み方が「アルタイ語族」の訛りで発音することになったと鮮卑人の陸法言が編纂した字典「切韻」から証明している。
*楊貴妃の姉と従者が馬に乗っている唐代の絵では、皆馬にまたがっている。(遊牧民である証拠)


●中国文化は、その後の漢人の王朝であった南宋の滅亡をで終わったと思っている、
なぜならモンゴル帝国の元王朝というのは、中国文化を徹底的に破壊し、殺戮したからである。
元王朝の実態が書かれた書物を見ると、とても従来からの中国感とは相容れない。
そもそも元王朝は、有力部族の集合体であって直轄領は散在していた。

●その他、儒教というのが中国の歴代皇帝に嫌われて、儒教で統治した政治というのがほとんど破綻した事実がある。
漢の宣帝は法家を重用し、厳格主義を持って統治した。それを批難して儒教を推進しようとした皇太子(元帝)は叱責され、事実として元帝の時代になって衰えた。
王莽は儒教を持って政治をしたが失敗したのは有名。

いずれにせよ、中国の歴史というのは中国が喧伝するような連綿としたものではなく、その孔子や孟子、その他の思想家が排出した漢族自体が消滅してしまっている。
そして、王朝が代わってもいずれ漢人の文化に洗脳されるというのはウソであることも分かる。
そもそもチャイナドレスが満州族の衣装で、特権階級の満州人でしか着ることは出来ず(漢人は二級市民)、
第一公用語は、満州語
第二公用語は、モンゴル語
第三公用語は、漢文
で公式文書はこの三つのことばで書くとあって清朝は満州人の国であったことがよく分かるものであった。

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