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2014年1月 2日 (木)

<アーカイブ>小宮山忠孝(弾正介)・小説「のぼうの城」、「水の城」の舞台・忍城攻防戦の謎の人物の真実

●小説「のぼうの城」、「水の城」は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めに端を発し、関東の北条方の城を豊臣方が攻略するという舞台での出来事である。
その中の武州の忍城(埼玉県行田市)は、城主成田氏長。この成田氏長は約500の手勢を連れて小田原城攻防戦に参加して小田原城に籠城中で留守にしている。
時の情勢は、既に太閤秀吉に帰して関東の北条方の城は瞬く間に落ち、残るは小田原城と忍城と言うことになった。
この忍城は、豊臣秀吉が石田三成に北関東の上州・館林城、武州・忍城を攻略するように命じられた。
この中で石田三成は、大谷吉継、長束正家の軍勢を加えて約20,000の軍勢で上州・館林城(軍勢約5,000)を2日で落城。
残すは武州・忍城という小さな城を落とすだけになった攻防戦である。
この忍城というのは、周囲を沼などの湖沼で取り囲まれた「浮き城」の異名を持つ難攻不落の名城である。
ここで石田三成は、忍城の籠城戦にたいして「水攻め」を行うように指示されてその水攻めを実行する。
この攻防戦で城主成田氏長とその旗本の主力部隊は小田原へ出かけて不在、忍城城代の成田長親はボンクラで役立たずというのが「のぼうの城」の「のぼう」‥でくのぼうの城である。
ところが実際の忍城攻防戦では、少人数の戦闘部隊しかいないはずの忍城に農民軍が入り約2,600の戦闘部隊を結成し統制の取れた強力な戦闘を繰り返す。
水攻めは、この忍城守備隊によって破られ湖沼地帯の戦闘では大部隊の展開ができない。
最後には、八王子城攻防戦に参加していた真田軍が投入され、約50,000の大軍で力攻めにする。それでも忍城は落ちず、強力な真田軍の持田口の戦闘では互いに大損害を出すも攻撃軍は攻めきれない。

こう言う状況で忍城よりも先に小田原城が落ちてしまうと言う事態になった。
その小田原城落城によって忍城が開城して攻防戦が終わる。

●この二つの小説もそうだが、忍城攻防戦に関しての郷土史にもなぜ忍城に強力な守備隊が存在したのか?
そして、「水の城」でも石田三成の言葉として書かれている様に
「あの城には誰がおるのだ。城兵たちが頼りにし、その人の顔を見るだけで心強くなる男は誰なのだ。‥‥」
小説「水の城」では、短期間に農民を訓練して実戦部隊にしたと言うことにしている。しかし、ほんの僅かな期間に、常備軍である豊臣軍のプロ軍団に対抗しうる農民軍を作ることは不可能である。
何と言っても、弓矢、鉄砲、槍その他が使えなくてはならないし、集団行動を行うのにはやはり実戦経験を積んだプロ集団の農民軍である必要がある。
そして、その農民軍には有力な指導者と参謀、実戦指揮官がいる。

ところが、小説で出てくる様に成田一族は実戦ではほとんど無能。そして当然留守部隊の重臣にもそんな力がない。

●要するに歴史から意図的に消された人物がいると言うことである。
実のところ、その人物というのはこの忍城の持田口と小説「水の城」に出てくる吹上(JR吹上駅がある)の清右衛門という百姓と偶然に重なる部分がある。
小説では、清右衛門は百姓を訓練して短期間に実戦部隊にして、その侍大将となって一軍を指揮する。そして、持田口での真田軍との戦いで戦死することになっている。

しかし、実際の指導者が戦死したら忍城は総崩れになって即刻開城になったはず。
ところが、その意図的に名前を消された人物は当然戦死もしていない。
その後の、関ヶ原、大阪冬の陣、夏の陣にも参戦している。

その人物は誰かというのは、今の行田市の古民家を調べその菩提寺の墓の戒名を見てみれば明らかだというのに誰も言いだしていない。
その理由というのも次回検討することにして、その重要人物の家の見取り図(明治時代)や古民家の写真などを偶然?持っていたので次回公開してあきらかにしたい。

●尚、この「のぼうの城」は映画化されてるが当然謎の人物は出ていない。


1590年・小説「水の城」「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦 2


小説「水の城」を読むと時代考証的におかしなところがいくつも出てくる。それは、分かり易く現代解釈をするということなのかも知れないが解ない部分が多い。
●先ず、「次の村長は、自然に清右衛門ということでみなが了解しているのだ。」という部分。
場所的に村長(むらおさ)という制度がないところに村長というのもおかしなものだし、後の江戸時代でも「村長」は存在しない。又、元々「清右衛門」という名前の百姓なども存在しない。
なぜなら例えばこの「清右衛門」とは、元々門構えの家を持つ人物が名乗る。
その門構えとは、今のうさぎ小屋の人が通れる門構えではない。鴨居と屋根が付いた門である。しかもその門を通るのは騎馬でそのまま通れるほどの門である。
簡単に言えば上士、それも馬に乗れるくらいの武士階級に許された名前である。江戸時代には、改易で浪人する武士も多かったからその辺に掃いて捨てるほど◯右衛門という人はいたかも知れない。しかし、安土桃山末期ではあまり考えられない事である。

●次ぎに城主成田氏政が「手勢三百五十騎とほぼ同数の足軽を率いて出陣する日であった。」という記述。

この時代に三百五十騎と言えば、単純に実兵力約1,500以上、総数では2,000以上の軍団を意味する。なぜなら、騎乗の武士には最低左右に徒の武士・足軽が付き同じく後ろにも1人又は2人の徒の武士が付く。
これは単純に見て、馬がやられれば騎乗の武士は簡単に落馬して討ち取られるからである。
そのほかに、直接の戦闘部隊でない武器や食料を運ぶ人たちその他が同行する。
実際の城主成田氏政の手勢というのは500と言われていて、この小説「水の城」でも500という表現がある。
これから見れば小説の十分の一、精々三十~四十騎程度であるはずである。
そしてこの手勢500というのは実のところ成田氏程度の城主としては、常時動員出来る最大限の兵力、事実上の旗本全軍であろうと思われる。
豊臣政権下とは違って、兵農分離していない地方のこの頃としては、事実上の全軍は農閑期でしか出すことが出来ない。
たとえば川中島の合戦、関ヶ原の戦い、大坂冬の陣も10月、長篠の戦いは今の歴では7月、大坂夏の陣は3月ということからしても大量動員をする時期というのが大方決まっている。
こんな風に見ると小説「水の城」というのはかなり突っ込みどころがある。

●その上前橋城と厩橋城を別の城としているところなどはどうしたものかである。実際は前橋城というものはなく「厩橋城」と呼んでいた。
その他、この辺の百姓の表現として「○○べ」とか「‥‥本当だべか」という「べえ、べえ」言葉を用いている。
しかし、この地域は元々江戸弁の元になった地域に近く「べえ」言葉は使わない。ここで「○○べ(伸ばさない)」は、前橋市だけの方言である。(最近は使わない人が多い)
実のところ、もう少し北の羽生くらいになると昔はかなり言葉が違った。

●以上のことから忍城攻防戦には、忍城城下の事実上の実践部隊全軍が参加したことが分かる。(小説でもそういうことになっている)
そしてその全軍とは武士が農民もしていた、兵農分離していないこの時期には、その軍団の長は農業を指導して成田氏の経済を支えていたはずである。
その軍団の長が事実上の「村長」であり、そのままの軍を構成していたと思われる。

● 多少蛇足になるが、忍城攻防戦などのような湖沼地帯での戦いは激戦になる例が多い。たとえば後年の1667年のフランス・ルイ14世下のネーデルラント継 承戦争。その後のオランダ戦争でもテュレンヌ子爵(元帥)というフランス史上名将の一人と言われた将軍でも苦戦を強いられている。
1914年の第一次大戦では、イーペルの戦い(第一次)という塹壕戦では「フランス軍は1914年、半年にも満たない期間に約120万人の戦傷・行方不明者と約50万人の戦死者を出した。」と言われている。
翌年の第二次イーペル戦では、湖沼地帯で戦車投入も制限されイギリス軍が大損害を被り、---このときに日本に増援部隊を要請したと思われる。
実際は、イギリス連邦軍(カナダ軍を中心とした)は50万人の犠牲者を出した。

このイーペル戦などによって、第一次大戦後の戦争観が違ったとも言われている。

第二次大戦では、1944年9月のマーケット・ガーデン作戦。映画「遠すぎた橋」A Bridge Too Far 1977年で描かれているとおり、失敗した作戦として有名である。

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