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2014年1月21日 (火)

<アーカイブ>前橋市県庁所在地秘話・敷島公園の沿革秘話と荒井甚次郎

前橋市・敷島公園の沿革秘話

県庁所在地秘話


2009/06/01地方紙の上毛新聞に敷島公園の事が書いてあった。
敷島公園とは、前橋市にある広大な公園である。
公式HPによると「敷島公園は、利根川と広瀬川に挟まれた場所に約37haの広大な面積を有しています。」とある。

しかし、その沿革は単に「前橋市街地の北側、利根川の左岸に位置する敷島公園は、大正11年に官有地の払い下げをうけて公園となりました。」とあるだけでその実態は書かれていない。
元々の敷島公園というのは、今現在ある姿になるまで結構紆余曲折がある。
なぜなら、「園内は、約2,700本の松林があり、平地の松林としては全国有数の規模です。」(前橋まるこどガイド・HP)とあるのだが、小生が子供時代はボート乗り場からずく先には、ロープで仕切りがあって松林の過半は私有地だった。
そのうちに、そのロープの位置が北に移動して行き、最後に木の冊で出来た松林の一画まてになった。その頃とは、昭和30年代半ばだったと思う。
最終的には前橋市が周囲を買収し、区画整理と一貫して整備して今の状態になった。
それは、まだ戦後のことで大正時代はどうだったのだろうか。

そのヒントは「大正11年に官有地の払い下げ」と言うところにある。
実際、前橋市はまだ原型だった敷島公園を市有の公園にする意義を感じてていたものの実は資金がなかった、「金」が無かった。
そこで、頼みにしたのは前橋市の中の有志。特に、県庁所在地を前橋市に持ってくる時に中心的な資金集めをした人物に依頼した。

県庁を持ってくるのに当時の金で100,000円必要と聞いて、10,000円を用立てるからと言い出したのは、もちろん初代前橋市長下村善太郎氏。
「当 時、生糸の輸出で財を成していた前橋では、生糸商人と後の初代市長・下村善太郎により、県庁を前橋城跡に誘致する事を明治政府に提案し、各部署が分散配置 されていることに不便を感じた明治政府はこの案を了承し、県庁は前橋に移転した。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)」(明治 14年)

当時の10,000円とは、今で言えば2億とも3億円とも言える額であったのだか、そこで資金集めを相談したのが荒井甚次郎氏だったという。
荒井甚次郎翁は、埼玉・川越藩の出で明治維新の時に、時の城主(松平氏)に付き従って前橋(厩橋)に入橋した。
甚次郎翁は、廃藩置県と共に県庁職員となり地方行政を担当したが、その後民間に移り事業を興した。
そして、その事業が順調になると番頭に譲って、新しい事業、運送、土木、建設業を興し続けた。
それだけでなく、その事業で得た大金を利用して当時流行した生糸、米などの相場に進出してその資産を莫大なものにした。
子供には、「楽になったから」らく。
「千金の金を持てるようになったから」泉太郎と名付けたぐらいである。
その居宅‥‥前橋市の中心部にあった1,500坪の大邸宅には、お客が引きも切らなかったという。
そんな風に前橋でも指折りの大金持ちがこの荒井甚次郎翁であり、慈善事業にも精を出した人物でもあった。
だから、下村善太郎氏が頼みとするのは当たり前で、当然甚次郎翁は、自らは5,000円出すからと応諾した。
そして、当時の前橋の有志に勝手に請求書を送りつけたという。
ランクは5,000円、3,000円、2,000円というものだったという。
最高ランクの5,000円を請求された数人も快諾し、50,000円前後までは集まったが100,000円まではほど遠い。
中には、2,000円を請求されながら、説得にもかかわらず最後まで支払いを拒否した人物もいたという。
それで仕方なく下村善太郎氏は、集まった金の金額を以て交渉した結果、政府から快諾を得たというのが本当の話なのだという。

そう言う経緯であったので、またも資金繰りと言うところでは甚次郎翁のところに話が舞い込んだ。
多少病魔に冒されて具合が悪かった甚次郎翁ではあったが、依頼を受けて払い下げの資金を出し、即刻前橋市に寄付をするという手筈をとった。
その後、甚次郎翁が前橋市の求めに応じて交渉の上買い増しを続けたものの、甚次郎翁の病状が悪化してその後の買い増しは頓挫した。
ただそれは、今で言うなら敷島公園のほんの一部であって、今の松林はほとんど含まれていない。
実は、その後も実際は同じく有志を募っての買い増しを続け、戦後まで続いた。
しかし、終戦後農地には「農地解放」があったと同じように、宅地には「財産税」と言うものがあった。
その税率90%という高額のために当時の高額納税者、土地持ちと言われた人達は、物納によるしか納付できず、いわゆる前橋市の有志という人達はほとんど破産した。

不思議なことに、「支払いを拒否した人物」は戦後大地主として残ったはずだが、今は良く分からない。
こんな話は、歴史の中に消えてしまって残っていない。
当時郷土を発展させようとした人達は、名前を残そうとはしなかった。
理由は、郷土に尽くすのは当たり前であったのと、石碑などに名前を残さずとも当時は誰でも知っていたことだからである。

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