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2014年1月22日 (水)

<アーカイブ>忍城の南、持田口に位置する小宮家の謎

「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦の秘密を探る

1590年・小説「水の城」「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦4

忍城の南、持田口に位置する小宮家の謎
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●小宮家の初代は小宮忠昌(源左衛門)と小宮家に伝わる家系図にある。
ここで寛文12年壬子9月3日卒というメモをもらったのだが、寛文12年とは1672年でこれではあまりにも長生き過ぎる。忠昌の妻は慶安2年(1649)の卒と記されているので、寛文ではなく寛永の間違いではないかと思っている。
その一方で二代目の義明(勘右衛門)が寛永元年(1624)卒で、こちらが寛文の間違いでこの二つを入れ替えると整合性がとれる。
そこで初代は小宮忠昌(源左衛門)の卒を寛永12年(1635年)として考える。
いずれにせよ小宮忠昌(源左衛門)、元の名、小宮山忠昌(源左衛門)は家系図から忍城城主成田氏長を主君とする成田氏の家中の人物であることが分かる。

●この小宮山忠昌の父親は誰かというと家系図から小宮山忠孝(弾正介)である。
この小宮山忠孝(弾正介)とは、行田市史・上巻・成田家分限帳にあるとおり、武州足利郡戸塚の戸塚城(小宮山城ともいう・川口市東戸塚)主である。
この小宮山忠孝(弾正介)は元和元年丁巳8月8日卒(法号・宝持院金峯道剛大弾門)と言うことで大阪夏の陣以後に亡くなっている。

この小宮山忠孝(弾正介)は、武州足利郡箕田郷に居住し、忍城主成田氏の旗下として200貫の知行(石高500石)として足立郡戸塚を領地としたとある。

●この小宮山氏によって築城された戸塚城は、小田原城攻めのときは全て忍城へ引き上げ空城になっていたという。
そうであるとすると、小宮山忠孝(弾正介)は旗本として城主成田氏長について行かない限り忍城攻防戦に参加したはずである。
現実問題として、戸塚城の守備隊が豊臣軍との開戦前に城主成田氏長について小田原城籠城戦に参加する可能性は無い。
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●そして小宮山忠孝(弾正介)は、戸塚城を築造するにあたりかなりの軍勢を持っていたはずであり、持っていなければ城を築ける分けは無い。
又、なぜ武州へ来たのかと言えば、この小宮山忠孝(弾正介)の父親は、小宮山友晴(内膳正)であるからである。
小宮山友晴(内膳正)は、武田勝頼の「使番十二人衆の一人」の侍大将で武田一門である。
即ち、天正10年に甲州天目山へ永蟄居の身ながら単騎で武田勝頼にはせ参じ、討ち死にした事が知られている。

その際に、内膳正以外の一門をいち早く甲州街道から(織田の勢力範囲以外の)関東へ落ち延びさせ、元々厚誼のあった成田氏を頼ったと言うことである。
この小宮山氏というのは後の武田武士狩りを思えばかなり慧眼であったと言わざる終えない。
武田氏が滅んだあとに甲州では武田系の武士や一門の武田狩りが厳しく行われて根絶やしにされたというのは有名な話。
事実元々新田源氏の系譜のSyuunの一族も、蜘蛛の子を散らすように遠い昔に甲州街道を通って、織田の勢力範囲から逃れ今の埼玉県の山側に避難したことが名字の分布から分かる。
北へ逃げた方は、善光寺あたりで止まった人と富山まで逃げた人というのも同じく氏名分布から分かる。(既に書いたことがある。)

従って、元の甲州に代々住んでいると称する武田一門、武田武士というのは事実上あり得ないと言うのが真相である。
根絶やしにされた武田武士の文物を受け継いだとか、ということが真相であろう。

●「忍城の南、持田口に位置する小宮家の謎」
この小宮家が位置するのは、行田市の「忍城今昔地図」にも載っていない忍城の城外である。正確には忍城のほぼ南に位置し「忍城今昔地図」に丁度書かれていない部分に当たる。
そして、それは持田口の外あたりである。
この小宮家から戦後まもなくまで関東一円を見渡すことが出来たというし、外へ通じる道は小宮家の前しかなかったらしい。
記憶を辿れば、その道幅は東京オリンピック以前までは小型タクシーがやっと通れるような道幅しかなかった。

●この小宮家の母屋が作られる前には敷石から城郭があったらしいと言うことを書いた。
ここでもし、この小宮家が忍城を守るための出城としての役目をしていたら忍城の持田口というのは非常に強固な防衛戦を敷いていたことになる。
石田三成は、持田口を封鎖しないで三方を囲んだ。
この意味は、持田口の防備が特に堅いとみたのではないかと考えられなくもない。
そうであるから、真田軍の突撃隊が攻めてきても跳ね返されたと言うのが真実ではないか。

そしてそういうことが良く分かっていた石田三成というのは、決して城攻めが下手な武将ではないと考えられるものである。


小宮姓の元になった忍城攻防戦の真実

「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦の秘密を探る

1590年・小説「水の城」「のぼうの城」の舞台・忍城攻防戦5


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中央の女性二人のうち左が母、右が祖母。(撮影は、Syuun RICOHオートハーフ)


●忍城攻防戦というのは後世の伝えられる事柄には非常に秘密が多く、明らかに嘘とわかる分かるデタラメなども散逸される。
そのいい加減な話というのも、当時の人たちにしては当然あり得ないことであったから「与太話」として笑って済ませられたものも、時が経ってあたかも真実のようになる。

●この小宮家に関して書いている小生(Syuun)との関係は、母がこの小宮家の出と言うことである。
そして小さい頃に、祖母や伯父などに種々のことを聞いて見たりまたは、子どもだと思って無視されて聞きかじったことが沢山あるからである。
それだけでなく、時代は移り母も含めて伯父叔母の全ては鬼籍に入り、小宮家の話を知る人もほとんどいなくなってしまっている。
それで、多少は残しておこうと言うのがこの「忍城攻防戦の真実」である。

その中には「おまじない」という小生には良く分からない何百年も伝承されてきた病気を治す術があって、このことも多分親族では誰も知る人はいない。

祖母の晩年にこの「おまじない」の術を母に伝えようとしたのだが、「教えても良いというお告げ」が一回だけあり、それを当時迷信嫌いの母が拒否した。
それでその「おまじない」の術は(小宮家では)絶えてしまった。

●この忍城攻防戦において、今まで述べてきたように忍城の事実上総大将は、戸塚(別名・小宮山城)城々主、小宮山弾正介・忠孝。
実行部隊の指揮官は、小宮山(小宮)源左衛門・忠昌である。
この後の小宮源左衛門に似た人物が小説にも現れるというのは偶然ではないだろう。

●この忍城攻防戦の結果というのは、関ヶ原の戦いの直前において種々の影響をもたらし、その影響だけが現在に伝えられているという妙なことである。
そして、この忍城攻防戦では主力としては小宮山弾正介・忠孝旗下の戸塚城兵という元武田武士団であることは間違いない。
そして当時の農民というのは兵農分離されているわけではなく、槍や鉄砲なども持っている人達である。この武器などが国民から取り上げられた本当の刀狩りは、時々「拳銃などが倉から見つかったと言うように」実は戦後になってからである。

こういうふうに、農民というのを単に畑仕事をしている人たちだと考えると言うのは平和ボケしてしまった今の日本人なのかも知れない。
実を言えば江戸時代の農民や農村というものを学校の教科書でさえまともに教えられていない。
教えられているのは搾取される「かわいそうな農民」という共産主義思想でしかない。
だから江戸時代の「士農工商」という言葉の意味も歪曲して教えられているような気がする。
ここで断っておくと、「士農工商」の農とは「名主・庄屋・郷士・地侍」と呼ばれる元々の豪族のことである。
そして、そのほとんどが江戸初期のではどこかの大名に仕えた侍でもあった。

●この忍城攻防戦の結果としてどう言う事が起こったのかというと、この戦いに参加した元の武田武士団の仕官が決まったと言うことである。
この関ヶ原の戦い前の於いて、武田武士に人気が出で多くの家中に召し抱えられたという史実は有名である。
小説「水の城」にも
「徳川家康は、攻め手側にいた家臣からもその話を聞き、強く望み、実際、多くの忍城の武将たちは一族郎党、足軽らとともに徳川家に雇われるようになった。」
と書いてある。
*成田氏長も福井城1万石(会津若松)、そして野州烏山3万7千石の城主になっている。
そして「甲斐姫」はその武勇伝によって秀吉の側室になったのではなく、当然その「忍城攻防戦」の勇姿にあやかったと言うものである。

こう言う話というのは、あの忠臣蔵の直ぐ後の「仕官の話しが多くあった」話とよく似ているように、「武勇」と言うのが一つのステータスである。
武士というのは、常に心は戦場にあるという心構えを持つというのは、江戸時代をも通じて幕末でもそうであった。
NHKの「龍馬伝」で主演した福山雅治氏の坂本龍馬の様には「へらへら」と笑うというのは「常に心は戦場にあり」という心構えからは正にあり得ない。

そして、この成田氏家中ではあまりに当主成田氏長が不在の時に勝ちすぎてしまったからその内部でも粛正が密かに行われた節がある。
だからその後当時の城代、成田長親はいらない嫌疑をかけられて放逐され、小宮山源左衛門・忠昌は、「山を捨て」小宮になったと言われる。
即ち、成田氏家中には「小宮山」という人物はいなかったと言うことになったのである。

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又、持田口を守った出城が後の小宮家の屋敷になるのだが、当時の大戦(いくさ)名人と謳われた真田昌幸がここを攻めた。
この先攻隊が真田幸村であった。
ここで真田幸村はかなりの苦戦をすることになるのは事実の通り。
そしてこれが大阪冬の陣の「真田丸」に繋がるとは誰も予想はしていないのだが真実である。
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そして、小宮源左衛門・忠昌が帰農する事になり、その元の出城を屋敷とする。
その縁者は、その武勇を羨望して「小宮姓」を名乗ったと言うのが、関東での小宮姓の元である。

そして、この小宮氏に対して代々敬意を払うと言うのが暗黙の了解であった実例がある。それは小宮家の菩提寺「真言宗 智山派 医王山 遍照院」と言うのが鍵である。
この遍照院「慶長9年(1604年)徳川家康により薬師堂領として25石の御朱印を賜」とあり徳川家康も敬意を払っているだけではない。

この遍照院の隣の「臨済宗 妙心寺派 鷲峰山 大蔵寺」は、「文政6年(1823年)子孫の松平忠堯(タダタカ)は忍(行田)に移封された際、駒形の遍照院の南隅に寺を移し、現在に至る。」とある様にわざわざ隣に移している。

これはなぜかと以前小宮家の当主に尋ねたところ「小宮家に敬意を払って」という答えが返ってきた。

ちなみに、成田氏は水上公園北の「曹洞宗 平田山 清善寺」であって、遍照院に対して城の反対側である。

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消え去った郷土歴史・閨閥の歴史」カテゴリの記事

コメント

 初めまして。突然のコメントをお許しください。荒井様の記事を極めて興味深く拝読いたしました。私は、荒井様が載せている小宮家系図の中で分家筋に繋がるものであり、私の祖父小宮義寿は消されている小宮義利の次男に当たります。本籍地も分家の住居である行田市城西5丁目にあります。私のはとこ小宮皓が3年前に亡くなってからは行田の分家とも付き合いがなくなりました。また、長屋門があった本家には40年前に父や弟とともに一度訪問し、小宮義璋様の奥様にお会いいたしましたが、現在は全くお付き合いはありません。小宮家のルーツについてはより詳しく知りたいこともございます。誠に不躾なお願いで恐縮ですが、もし宜しければ以後メールにて御連絡を取らせて頂ければ幸いです。 小宮義則 拝

投稿: 小宮 義則 | 2020年5月 2日 (土) 23時18分

追伸 40年前にお会いしたのは、小宮義璋様の奥様ではなく小宮美孝様の奥様だった気もします。記憶が曖昧で申し訳ございません。

投稿: 小宮 義則 | 2020年5月 2日 (土) 23時41分

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