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2014年8月29日 (金)

日本の歴史の闇を解く・古代・近世戦国時代を中心にして・序

Rekishi1

 

日本の歴史の内でよく分からない、つじつまの合わない歴史というのは数多く存在している。古代という分野で見ると672年の壬申の乱という大海人皇子(天武天皇)の政変がよく分からない。
そして、この天武天皇系は、48代称徳天皇(女帝)で断絶し、天智天皇系のかなり遠い縁者である光仁天皇(49代)で、元の天智天皇系に戻るという不思議なことが行われている。
そのほかに聖徳太子がなぜ天皇になれなかったのかということ。
これも諸説あって一概に断定できないが、多分「天皇になれない理由」というのがあるのではないかと考える。
実を言えば、推古天皇、聖徳太子の時代は563年(欽明23)に朝鮮半島の任那が滅んで・・・(日本書紀・任那には、10国・加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、卒麻国、古瑳国、子他国、散半下国、乞湌国、稔礼国を含む・「知っていますか・任那日本府」を参照)、・・・その復興とそれに絡む戦乱が絶えなかった時代である。
新羅による「任那の調」という朝貢が大和朝廷(倭国)に対して行われる(日本書紀)ものの、旧任那10カ国との間に新羅との戦乱が663年の「白村江の戦い」まで続くことになる。
そして、その時代は天智天皇の時代になり壬申の乱に繋がるというわけである。

 

こういう風に任那日本府との絡みを見てみると、出雲大社で見るとおり、倭国は東進して出雲を攻略し大和朝廷になったとき元の九州に倭国の政権をそのまま残したと考えざる終えない。
要するに九州政権説である。
この九州政権というのは、主に朝鮮半島政策が中心で軍事政策を担当した物部氏などが活躍している。
ウィキペディアには、こんな記述がある。
「用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、用明2年4月乙巳朔癸丑(4月9日)(587年5月21日)に崩御した後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。」これで大和朝廷側の物部氏は衰退するのであろう。

 

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上野三碑との関わり
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しかし、726年に建てられた上野三碑の一つである「金井沢碑」には、物部君牛足という人物が刻まれていていわゆる「九州政権」との繋がりを濃くしている。

 

この問題は、以前に多胡碑のところで多少書いているのだが、金井沢碑も任那との関わりを持っていることが想定される。
※多胡碑は、任那の軍事組織であった鍛冶屋の「羊」こと羌族(別名を羊族)の代表が、多胡郡を貰った記念碑である。
元々、石碑という文化は、日本にはなく任那などの朝鮮半島に由来すると思われる。
しかしながら、島国国家というのは英国がフランス、オランダ当たりのヨーロッパ大陸から追い出されたのと同じように、古代大和政権も半島から撤退している。

 

そこで、その任那日本府に関わる人達が、蝦夷討伐で荒れる関東という地に配置されたというのはおおよそ想像がつく。
その蝦夷討伐軍の中心人物が上毛野君氏である。
この上毛野君稚子は白村江の戦いの陸戦で、主力軍の前軍の司令官として従軍している。

 

ここで気がつくのは、○○君という「君」の名称で、皇族又は皇族に準じる物部氏などの大豪族に付けられるものでいわゆる「九州政権」に絡む呼称ではないかと想像している。

 

このことは、「金井沢碑」というのが三家氏という豪族が自分の家系を記したもので、三家氏の元に「他田君(おさだのきみ)目頬刀自(めづらとじ)」とあることである。
刀自とは、正妻で一族を束ねる立場であって、「大和政権」の中にも出てくる。
ものの本によれば、蝦夷討伐に臆した上毛野君氏を正妻である刀自が奮い立たせたという話もある。

 

ここでやはり、他田君とあって三家君でないことに注目したい。

 

三家氏は、皇族又は皇族に準じる他田君から正妻を貰ってこの地を支配したということである。

 

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日本の歴史の闇を解く戦国時代
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日本の歴史の闇を解く戦国時代に関しては、関ヶ原の戦いの直前に武田の遺臣に人気が出て多くの武将が召し抱えたという理由。
特に井伊直政は、武田の遺臣を多く召し抱えて武田の「赤備え」に似せた「井伊の赤備え」を創設したことはよく知られている。
このことが実は、豊臣秀吉の小田原城攻めの一環である忍城攻防戦(現・埼玉県行田市・大将・石田三成)の結果であったというのとは、以前に述べた。
要するにその武田の遺臣とは、小宮山弾正介麾下の小宮山軍(成田氏・戸塚城)である。
(小説・のぼうの城 など)
このときに持田口攻防戦で、真田幸村が小宮源左衛門忠昌(弾正介の嫡子)の「持田丸」守備隊によって大惨敗する。
これが大坂冬の陣の武田式用兵の真田丸に繋がる。

 


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