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2014年12月 1日 (月)

小説・syuun の不思議な少年時代 その32(2012-01-10 23:15:58)

Ken1



syuun の不思議な少年時代 その32(2012-01-10 23:15:58)

映画「ALWAYS三丁目の夕日'64」という映画が公開される。
1964年と言うのは、東京オリンピックの年で種々記憶に残る。
その始めは札幌から手紙で「東京オリンピックの入場券を買って!!」いう話しが母のところに届いていた。札幌からと言うのは北大に進学していた兄からで、なぜ札幌で買えないのか不思議な手紙でもあった。
それで3月の末か4月に売り出された東京オリンピックのチケット。
日本が参加する様なバレーボールなどはとても買えるものではなく、買って来たのが「ホッケー」と「ラグビー」だった様な気がする。
バレーボールは買えなかったというと「それならけっこう(要らない)」ということらしかった。
1964年と言うのは、厭な年の幕開けというものだが特に熱い一年だった。

【昭和39年、1964年春 その2】

当時の典型的な学校建築である第一中学校。
今見れば耐震設計なども出来る余地がないほどの老朽建物である。
入学式、事前に購入した今でも学校で使っている上靴。この年の新入生は黄色だった。
ここで入学式があったはずなのだが、入学式の記憶というのがさっぱりない。
それもそのはず、この時の体育館(旧々体育館)は小さくてあまり人数が多いので入学式の代わりに放送で校長先生が挨拶して入学式の変わりをしたのである。
翌年には新体育館が出来てそんなことはなかった。
その上、クラス分けされたクラスの席についてもどう言うものだったのかも全く覚えていない。
多分、勝手に好きなところに座れと言うものだったのかも知れない。

担任は、M先生と言って理科の教師で天然パーマと「弥五郎」という特徴のある名前であった。
この「弥五郎」という名前は「祖父の名前」なのだそうで、その名前を引き継いだと自ら説明していた。
このM先生は学年主任でもあって、伯父と同じ年齢くらいだったらしい。
今でもこの名前でググルと「昭和47年度の教育研究の記録」に出てくる。
後年校長にもなったという噂だが、確認出来ていない。

一年生に入るとまずは部活の選択をするのだが、先生は異口同音に
「部活をしていると進学出来ないぞ!!」という時代なのである。
運動部、文化部‥‥という選択枝では事実上運動部しかなかった。
兄は、「電気部」というところに入っていて部長をしていたこともあった。それもカリスマ電気部長で部員が50人以上だったと言うから凄いものであった。
その電気部というのは何をしていたのかと言えば、ラジオなどを作っていたのであった。今で言えばパソコン部と言うようなところである。
そして、その電気部というのは部員がいないためにこの年に廃部になった。

最初のホームルームだったか、理科の授業だったかの話。
天然パーマのM弥五郎先生は、先生の記憶に残っている「先輩のOBと同じ名字」があると「◯◯という卒業生がいたが、◯◯は親戚か?」と聞くのが通例であった。
そして「◯◯と関係が明らかになると」
「◯◯は凄く勉強が出来たヤツだ」と言うのである。
小生から見れば「それが何だ」と思うのだが、3年生の時に再びM弥五郎先生が理科担当になった時も同じことを聞いた記憶がある。
そしてこのM弥五郎先生の悪い癖は、生徒がうるさくしていると後ろの黒板におもいっきりチョークを投げることであった。
「バシッ」と。
あるとき、黒板のチョークがないので「どうした」とM弥五郎先生が聞く。
すると生徒
「先生がみんな投げてしまったではないですか!!」
それでは、職員室からチョークを取ってこいと週番の生徒を職員室に取りに行かせるのであった。

Syuun の不思議な少年時代 その33

【昭和39年、1964年春 その3】

中学生生活が始まる。学校には生徒があふれかえって雑然としている。
1年生は1階、2年生は2階、3年生は3階と言うことになっていて、鉄筋校舎とはいうものの1年10組は北側の西隅(3クラス)だった。
1組から8組までは少し離れた木造二階建ての西校舎で日当たりは良かったが、非常にレトロの雰囲気が強かった。
実はその木造校舎が使われたのは、この年が最後である。

ベビーブーマーの世代直下というのは、何やら重苦しい雰囲気に包まれた世代であった。
考えてみれば今でも「ぞっとする」不安な毎日なのである。
それは中学に入った途端に高校進学という文字が片時も頭から離れたことがない。
その重圧を常に感じる毎日というのは今では想像もつかない。
今の親は、中学生の子どもに勉強を教えるということは程度の差こそあれさほど難しくは無い。しかし、当時の親は大正生まれの親である。
父親や母親は戦前の教育を受けた人たちで、小学校低学年なら兎も角中学の勉強を教えられるはずもない時代でもあった。
しかも当時は勉強のための参考書というのは少なく、その上に今のように進学塾が氾濫してもいない。
だから高校教師がアルバイトで塾をやっていることが多かった。

そんなスタートの中学生生活の4月は、平穏無事と言うより嵐の前の静けさというのが正しかった。
東京オリンピックと言うのもまだ視野に入っていない。
そういえば秋には東京オリンピックがあるという程度のものである。

この頃、4人家族の我が家は4人家族として成り立って以来最高に充実した時であった。充実したというよりもう一つの未来が開けたということである。
その一つは兄が北海道大学に進学したこと。もう一つは父が病気から立ち直ったことであった。
この二年前には父は、胃の痛みが激しく吐血もしていたのだが胃潰瘍らしいことが分かり手術した。今なら胃潰瘍などは早期に発見されて大したことにはならないことが多い。しかし、その昔は今では毎年の検診で胃カメラを飲むと言うことも普通に行われた分けではない。
実を言えば小生だけが何やら蚊帳の外にいた。

新中学生となった身では前述のように何とかして普通高校に紛れ込めないかと思案していたのが真実である。

新中学生の最初のスタートダッシュ。
今の子供達も全く同じで、この時期から如何にスタートダッシュを切れるかで中学3年間の大半が決まる。
転換期があるとすれば、二年になるときのクラス替えのチャンスの1回しかないというのも何となく分かっていた。しかし、何をして良いのかが分からないというのが本当である。

中学を卒業して高校の教科書を買ったとき、多少予習でもするかと思って英語の教科書を見て驚いた。
教科書の最初の一行からして全く刃が立たない。
夏休みにはヘミングウェイのFor Whom the Bell Tolls原書(誰がために鐘は鳴る)が課題だったり、トルストイの「人は何で生きるか」What Men Live Byの英語版だったりする。
小説は何とかなるが、英語の教科書は大学に入ってから読んだ専門書の何倍も難しいというのは今で思えば無意味な教科書だった気がする。

小学生から中学1年になる時は、高校に進学する時ほど急に難しくはないもののその変化に慣れるのには時間がかかるものである。

今は東大生が使う勉強ノートというようなものが売りに出されたり、「東大合格生のノートはかならず美しい」という本まである。

その昔もサブノートを作ると良いとして、ほとんど書かれているサブノートが売りに出されていた。しかし、そういうノートは中学校のレベルのことしか書かれていないから無駄の一言に尽きた。

そのスタートダッシュの4月というものは、何となく過ぎてしまった。
その昔は、部活は何でも良かったから「卓球部」に入った。
入ったと言っても顧問の英語の先生に入りたいと言っただけで何の案内もなかった。
その後に◯年◯組の教室が練習部屋になっていると言うのを知って、そこに行く事になった。1年生はラケットのフォームと基礎体力練習。ほとんど卓球台に向かう事もなく何か止めてしまった。
テニス部も大量に入るが、1年生は延々と球拾いでほとんど止めるのだそうな。
生徒が多かった時代の面白い現象であった。

そんなわけで早々と卓球部は幽霊部員になりその後止めてしまった。
それで何か咎められるという時代でもなく、内申書が悪くなると言うこともなかった。
そもそも高校受験に内申書は一切関係がない一発勝負だった。

連休に家庭訪問がある。
小学校の時代には、家庭訪問の時にはわざと家にいないようにしていた。
しかし、中学では家にいる必要があるのだとかで待っていた。



Syuun の不思議な少年時代 その34 Episode 3

中学に入学したのが1964年という忘れようとも忘れられない年。
映画「ALWAYS三丁目の夕日'64」の舞台になってしまった年として、今では再確認されているのかも知れない。
中学1年の時は、11クラス52人学級だった。
これだけ人数が多いと1年のうちに話もしない級友も数多い。当然名前も覚えていなかったクラスメイトもいて現在でも名前と顔が浮かぶのは十指に満たない。
なぜなのかと言えば、中学に進学してくる小学校は桃井小から約100名。中央小の全部約250名、城南小の過半数約200名と言う具合に桃井出身者のSyuunが見知っている学生が圧倒的に少ない。
しかも街の中心部を網羅する中央小からの進学者が一番成績優秀と来ているからなお更である。
その内の女子学生はと言うと中央小学校からの1人しか記憶にない。
なぜ名前と顔を記憶に留めたのかというと、その女学生「木戸まりこ」はその1年生の時に何度かクラスで1番の成績を取ったという噂だったからである。
しかも記憶は高校の時に前橋女子校(2年5組)とのクラス交換の時に同じグループになったという経緯で補強された。
そして、何十年かして名だたる事業家だった彼女の実家の仕事をさせてもらったということぐらい。
それもどういうわけか父がその家をよく知っていて、仕事をもらったという妙な縁でもあった。
その女子学生木戸まりこは当時はひょろひょろとして、首が長く細面の背が高い女性だった。
話をしたこともないし、同じ女子学生とも余り親しげにしていない木戸まりこの話し声さえ聞いたことはない。またその背が高いと言っても当時Syuunは身長160㎝程度。
成長が早い女性は、中学の時点で成長が止まっていることが多い。
それで中学に在籍しているうちに身長では楽々追い越すのだが1年の時は彼女の方が背が高かった。
容姿かたちと言っても、中学1年生のレベルでは女性を感じさせるものはなく、将来的には美形の女性になるのではないかという片鱗を見たくらいであった。
そして2年になってクラス編成替えとともに、忽然と消えてしまって以後見かけたことはなかった。
しかし、17歳の女子高生になった木戸まりこは、ひょろひょろとしてアンバランスな姿態は姿を消して美形の女子高生になってはいたが、それまで。
結果、単にすれ違ったというくらいの印象であった。

この中学生になる直前の春休み、母の実家へ遊びに行って女性としては将来的に係わり合いを持つ年代というのはこの頃かと気が付いたことがあった。
ただし、その年代とはその時まだ小学校にも上がっていない。

この頃の女性との係わり合い、「袖振り合うも多生の縁」というものはより少ない人数が集う英語塾というところでしかなかった。

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syuun の不思議な少年時代 その19

第二部 希望を持って

新聞によると「ALWAYS 三丁目の夕日」の続編が作られそうだ。
「ALWAYS 三丁目の夕日」は、昭和33年(1958)年で、続編は34年だという。昭和33、34年と言えばノスタルジーを感じさせるかもしれないが、決して便利でも住みやすい世界でもになかった。
何としてもおかしいと思ったのは、33年にしてテレビがあったことだろう。
普通の家にはテレビなどほとんどなかった。そして、多分放送していたのはNHKと日本テレビくらいなもの。
力道山の試合は、8時か9時、「月光仮面」(TBS系)は7時くらいだった。
この頃は、夜更かしなどしなかった。
今で言う夜7時というのは当時は結構遅かった。
そして、他の民放が出来るのは34年頃だった。
そしてテレビが倍増したのが、34年の今の天皇のご成婚の時だ。それでも10軒に一軒もテレビはなかった。よく見たのは34年からのフジテレビ系の「少年ジェット」。
なぜ「少年ジェット」なのかと言えば、学校から帰って夕方友達の家に行って見たのがそうだったからだ。
TBS系の昭和33年から始まった「月光仮面」はほとんど見ることはなかった。
なぜか、それはまだどこにもテレビがなかったからだ。

そして、我が家にテレビが来たのが昭和38年の夏過ぎだった。確かNEC製。ナショナル製(松下)のテレビは高かったからかも知れないが以後NECばかりだった。
そして、その頃のテレビは「目に悪い」と言うので、青色の紫外線除けのフィルターをかぶせていた。実際、そんなフィルターを被せなければ白っぽくて見づらかった。

「ALWAYS 三丁目の夕日」でテレビを昭和33年に買ったと言うが、我が家ではラジオを買った。それも木製キャビネットの大きくて重いヤツ。当然真空管のもの。だから真空管が熱くなるまで音が出なかった。
何か短波放送も聴けるというのが自慢だったが、短波放送は株価ぐらいしかやっていなかった。
そして、地方ではNHKと東京放送が良く入感した。文化放送、日本放送になると深夜聞こえるかどうかだった。
そして、放送番組は夜9時で終わり、あと10時頃から文化放送で「戦争の話」をやっていた。戦争の話?、何だと思って夜更かしして聞いてみたが、いわゆる訳の分からない「反戦」放送だった。
だから、そんなものを聞くなと父が言ったのは間違いなかった。

オリンピックが近づいた1963年、実はまだ電話がなかった。電話は、この頃高い債権を買わされた上、抽選だった。局番は2局のみ。
だから、緊急の場合は電報を打った。

小学校の6年生。
新クラスになってよく見ると、ほとんど知らない人達ばかりだった。
1学年200人強で今では街場の小学校の全学年に相当する。しかし、実際は4年から普通クラスに入ったから知らないのも当然だった。
教師は、Y先生といった国語を専門とする教師だった。
それがどういう訳か、小学校6年生に中学と同じ国語の授業をした。今までの3-4年生の授業とは180度違った。
但し、音楽は、歌が中心で先生は、オルガンも上手に弾いたが、楽典は教われなかった。
ある時、昔のN先生が音楽の授業を代講したとき、楽典の簡単な質問をしたが誰も答えられず、あからさまに児童を馬鹿にした。
しかし、そのN先生が言った「楽典」の内容について中学に進学したときも習うこともなかったし、参考書にも書いてなかった。その時大方想像はついたが、全く無意味なことだった。
このY先生は、書道も熱心だった。書は授業の回数ごとに「級」をつけた。
そして、期末の「書道」成績は上の級から5が付けられた。
書道塾も10級から毎回競書を出すごとに級が上がったか、塾の競書の方が級の分類が多かったから、学校での級の方が上がりか早かった。
但し、小生はいつも二番手で「4」の口だった。6年の終わりは、確か2級が最高で終わり。
そして、最後の書道授業の時、墨が無くなって隣の席のA.M嬢(「5」の口)に墨をもらって書いた。
そうしたら、何やら上手く書けて級は2級で最上位に並んだ。まあしかし、「5」とするには一人多い。結局先生も迷ったあげく結果は「4」だった。
6年の終わりには、競書雑誌の「級」が追いついて1級(小学生)となったが、この手の競書雑誌では、まだまだ初心者の内だった。

子供ながら、学校での「書」の書き方を再確認するものではあった。
小学校の6年生というのは、実は良く覚えていない。各教科でつまずくこともなかったし、別に塾に行くこともなくても分からないことはなかった。
5年の時、分からなかった文章題の算数も、分からなかったのが不思議ぐらいに解けた。
夏には、プールで早々4級(50m)を取り、親戚に連れられて千葉の海に行った夏の終わりには3級(100m)を取った。但し、3級の黒線1本を付けることはなかった。

夏休みが過ぎ、実は何やらクラスでは妙な雰囲気が漂った。
それは、今で言う「お受験だ。」
ここの小学校からは、毎年国立の附属小学校へ編入試験を受ける児童がいたが、中学からは一クラスの募集があって、それを目指していた。
我がクラスからは、男1、女1の「お受験組」がいた。
だから、社会の授業などは歴史年表の暗唱など当たり前だった。
「鳴くよウグイス平安京」とは、附属中学校へ受かった、学年一の美少女で秀才だった「増田たまみ」が言った年号だった。‥‥794年平安遷都。
増田たまみとは、吉永小百合の小さい頃にそっくりだったと言えば、察しがつく。

一方、6年の夏休み後になって自分に現れた顕著だったのは、背が伸び始めた事だった。どちらかと言えば「ちび」だった4年生くらいから大部大きくなった。それにつれて、部分の力が出るようになった。
走る‥‥というのはこういう風に走るのか、とその時実感した。‥‥但しまだ実感が湧かなかった。


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