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2014年12月 6日 (土)

小説Syuun の不思議な少年時代 その34【昭和39年、1964年春 その4】

Ken34


 

その34【昭和39年、1964年春 その4】

1964年東京オリンピックの年。
東京ではオリンピックムードだったかもしれないが地方都市では全く蚊帳の外だった。
この年の春はとにかく暑い、それは春らしいカラッとした天気でもあった。

4月の混沌とした日々は、今で言う花粉症の時期であった。風邪を引いたのかと思って風邪薬を飲んでも一向に直らない。
花粉症だから当たり前というのは、今の話である。

前橋市立第1中学校の新一年生。

入学式の日にクラス分けが貼り出された。
何カ所かに巻紙の様なものを伸ばして行くが、なかなか名前が出てこない。
何クラスあるのかと漸く10組で見つけた。
全クラスで11組。
こういうのは何やら嫌な感じであって、この中のたった一人、ここで埋没するという印象さえ持った。
それは何かと言えば、この前橋市立第1中学校というのは公立中学とはいえ前橋市内ではトップ校という有名な進学校だったからである。
進学した生徒は、桃井小の一部、中央小、城南小の一部の各小学校からと越境入学していた生徒もいたのでほとんど知らない人達ばかり。
その越境入学とは、沼田や渋川、中之条あたりからも寄留という形で優秀な生徒が通っていたことである。
この寄留の生徒は、徐々に増えて行くことになるがそれは後の話。

小学校の頃は、学籍簿は「生まれ年順」で一番あとの方だった。
「中学に言えばアイウエオ順だから・・・」
と母や兄がいっていた通りでのアイウエオ順。
1番かと思ったら2番だった。
クラス全員で48人。
入学式後に教室も生徒で満杯で誰が誰なのかもさっぱり分からない。
同じ小学校からの生徒も桃井小からは学区の関係から約半分しか進学しない少数派。
またその桃井の中でも小学校3年まで養護学級(全県一区・後に保健学級と改名・定員17名)だったからますます知らない。

**************
梅沢先生
**************

そんな中で最初のホームルームが始まる。

新担任の梅沢先生はかなり濃い顔をしていて、何となく近づきたくない雰囲気がぷんぷんしていた。
小学校の先生と違って、これが中学校の先生かと思わせる何となく人間臭さの多い感じである。
全員の出席を取ったあとに・・始まる儀式というのは・・

「高橋、今年卒業した生徒に高橋という生徒がいた。これは高橋の知り合いか?」
高橋、「はい、僕の兄です。」
「あれは凄く優秀だったなぁ!!!」

「それから佐藤、佐藤という生徒がいたが、親戚か?」
佐藤、「関係ありません!」
「あっ、そうか」
「佐藤は、優秀で前高から東大へ進学したんだ」

このホームルームでは、クラス委員の選出というのがあった。

「クラス委員に立候補する人はいないか」と梅沢先生が叫ぶ。

このときのクラス委員は学級委員長、副委員長、生活、体育、放送、保健、図書委員・・・という7-8人である。
当たり前だがこんな時に手を上げるリスクを背負う生徒もいない。
それで決まり切ったようにこういった。

「それではこちらで選んでおいたから」と梅沢先生。

要するに小学校の内申の順というヤツであった。

「達川君、足立君、矢島君、寺田君・・・木内さん・・・」
と呼んで取りあえず委員を決め、学級委員長と各委員は委員の互選でと言うことだった。

こういう成績第一主義というのがこの頃で、ベビーブーム世代が中学3年に残っていたからかなり殺気だった雰囲気だった。
いや~な雰囲気というのは、こういう生存競争という現実を見ると今なら吐き気を催すのではないかと思われるものである。

そういう生存競争の落第生、その他大勢の一員だったSyuunは委員に当然選ばれるはずもない。

座る席は、名簿順だったから北側の前から二番目。
斜め後ろに学級委員長になった桃井小の秀才、達川君。
Syuunが付けたあだ名は夏目漱石の「坊ちゃん」を真似して「馬」である。
前の席は城南小からきた生活委員の足立君という具合だった。

この足立君というのは後ろ前だから何かと話すことが多くて閉口した。
しかも、数学はいつも満点だったりした自信家で、財布に入っている札はいつも新札。
今で言えば何か脂ぎった嫌な感じの銀行員と言うところか。
事実この足立君の父親は銀行員だったらしい。

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この1964年の春と言えば「ツタンカーメン展」である。
以前のエントリーで紹介したとおり、空前絶後の動員数だったという展覧会。
当時の天皇誕生日だった4月29日に、このときどういうわけか母が熊谷高女時代の軟式テニスのペアだった友人と連絡を取ってツタンカーメン展に行くことになった。
(母は熊谷高女(現県立熊谷女子校)時代に軟式テニスで神宮(今で言う国体)に出場した。通称神宮の選手)

待ち合わせは、上野の博物館に8時。
この上野の博物館に8時に着くために未だ暗いうちに家族3人で家を出て、朝一番の上野行き列車に乗った。
列車に乗っているうちに夜明けを迎えたというのは子供としてはよく印象に残っているものであった。
新幹線は、この年のオリンピックに合わせて東海道のみだったし、準急(後に新特急)と呼ばれた「あかぎ号」は、朝7時54分(後に8時発)前橋発だった。

あの時の両親は幾つだったのかと思えば、50歳だった。今から思えばまだ若かった時代だった。

この「ツタンカーメン展」。
博物館の近くに行ったら8時にもならないのに博物館の周りを半周以上していた。
今は田舎暮らしとはいえ、父も母も若い頃、大学、就職と東京暮らしが長かった人達だからこんな時は不思議と水を得た魚のようであった。

そして、上京すると都電に乗って必ず日本橋の三越百貨店へ行くのが慣わしで、・・・と言っても買い物をするのではなく上階のレストランで昼食を食べたあとバーゲン会場を見て回るだけである。
そんなわけで日本橋の先の銀座に家族で行ったことはなかった。
もっとも、家族で上京したのは東京タワーが出来て3年目にタワーを見にでかけたときである。
これで午後がまるまる余ってしまったので、神田佐久間町の叔母の家によって叔母、大学生になっていた従兄弟とまた東京タワーを見に行った。
この頃は竣工当時と違って、大して混んでいなかったし展望台から階段で下りると言うこともしなかった。

父も母も何かと上京することが多かったとはいえ、今までほとんど家族旅行などしたことがなかったのに、何でこんな小旅行を家族でしたのかは分からない。

いずれにせよ、何となく楽しかった東京見物も終わり5月の連休の家庭訪問になった。

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この脂ぎった揉み上げの長い梅沢先生が家に来ると言うのもあまりぞっとしたものではない。
車が発達した時代ではなかったし、市街地も裏通りは未舗装。
ところがこの梅沢先生は、クルマできたようだ。
なんと言っても名簿順に回っていると言うのだ。

その梅沢先生の家庭訪問では、いきなり進学の話になった。

「それで・・どこの高校を狙っているの?」と梅沢先生は、そのぎょろりとした目をして言う。
「前高(まえたか)です。」というと
何やらノートに目にちらりと目を移したあとで言う
「どうして前高(前橋高校)なの?」
「・・・・・・・・・・・・・」
そこで母が
「兄も前高なのでそう思っているのですよ・・」
「兄の方は今年北海道大学へ進学しました・・・」というと
何やらホウ・・という印象をしながら
「前高は、結構入るのに難しいんだよ!」

「今、クラスで5-6番でも入れるそうではないですか?」と母。
何やら難しそうな顔をしながらまたノートをちらりと見て

「今まで5-6番でも合格している例はあるけど、今後どうなるか!」
「相当頑張らないとね!」

こんな押し問答で時間が過ぎ、家庭訪問が終わった。

その後に足立君の話を聞いたら、おんなじようなことを聞いたそうだ。
そしてノートの中身は小学校からの内申書だろうということだった。

こんな落ち着かない日々が過ぎ、中間試験となった。

学校の授業はと言えば・・・新しい科目の英語は、既に小学校6年から塾に行っていたからまるまる1年近く進んでいた。
だからよほど失敗しない限り満点というのは当たり前で、これは自分だけではなかった。主立った生徒は、みんな小学校から英語をやっていたから英語の授業の進み方は早い。
今から思えばかなりのハード授業だった。

この時点で高校の受験科目は9科目。
中学校もその受験科目に合わせて試験と順位が付けられる。
学年順位は、2年になってからだと言うことで男女別でクラス順位がついた。
だから試験は900点満点という今からでは考えられない広範囲なものであった。
広範囲というのは「音楽、美術、保健体育、技術家庭」の4科目もそれぞれ100点で、英語や数学などと同一点。
順位の上位に位置するためには、この4科目を制覇しないと意味がなかった。
ところが、この4科目の試験はどんなものなのかと言うことすら分からなかった時代であった。
だから、ほぼ満点を取らなければならなかった、この4科目で大きく点数のロスをした。

英語は100点だったが、あとの4科目がアラウンド80点そこそこたまに70点中盤。
単純に言えば5教科で手一杯であとの4教科の手が回らない。

前橋高校に合格するには入試の全問正解以外合格するすべはないから、かなり深刻な問題であった。
結果は、総得点は600点代で700点には及ばず、やはり4科目が大きく足を引っ張っていた。
それでもクラスでは5-6番(男)と言うところだった。
この状況は1学期中続いて、多少前高進学という話も夢となりそうな雰囲気で1学期が終わった。

この頃、今で言う補習校や予備校、学習塾というものは少なく、昔ながらの勉強法ばかりで特に良質な塾というものは存在しなかった。
しかも、公立の中学や高校の先生が学習塾をやっているというのも当然普通で、担任の梅沢先生もその一人だったらしい。

ところで小学校から行っていた英語塾は、高校の英語の先生が副業でやっていた私塾でだんだんと生徒が集まりすぎていた。
ここにいたのは、小塚、小池、岡野、坂本君・・・と中央小からの生徒を中心に、栗林、荻野、倉林さんなどの女子学生併せて10人くらいであった。
その後主要なメンバーは替わらず中学3年の頃には14-15人まで増えた。

学業での課題は、「音楽、美術、保健体育、技術家庭」の試験だった。
しかし、夏休みが近づくにつれて夏休みの宿題をどうするかが問題になった。
特に夏休みの課題の製作発表会をするということだった。

こういう発表会は兄の頃からあったもので、兄の作ったインチキ「無線機」などを見たことがあった。
そのインチキとは、無線機を作る予定が出来なくて、無線機風に見せかけたものだった。
本当のところは、真空管時代のアマチュア無線機を作る予定が部品がなくて、できなかったということだった。
後から考えれば、そんな小型の無線機(ハンディトランシーバー)ができるはずもなく同様の無線機が市販されたのは15~20年後である。

******************************

1964年7月9日の木曜日の暑い日に、突然北海道から兄が帰ってきた。

開襟シャツに灰色のズボンをはき、小さな手荷物だけを持っている。
その兄が突然玄関で靴を脱いでいた。
このとき
「やあ~」みたいなことを言うがイントネーションが違う。

「荷物は『チッキ』であとから駅に取りに行くから・・・」
チッキとは、国鉄の手荷物輸送で今で言えば宅配便で送ったと言うものである。
「お母さんは?」
「いないよ、買い物に行った!」
「ああ、そう」

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