« 表彰式・祝賀会・第65回記念群馬県書道展・感想 | トップページ | HP 15-g000レビュー »

2014年12月14日 (日)

小説Syuun の不思議な少年時代 その35【昭和39年、1964年夏 その1】

Ken35



*****************
夏休みまで
**********************************

期末試験が終わり、夏休みが近くなると技術家庭の椅子作りも完成に近づく。

中学校の1年生の科目の一つである実技の技術家庭は、
「男子」は木製の椅子を作る。
「女子」はワンピースを作る。
と言うものである。
これは二クラス合同で行うもので、その授業になると休み時間、早々に実習教室に出かけて行く。
この椅子は、柔らかい赤ラワン材の一枚板から背もたれのない簡単な椅子を作ることだった。
こんなときは、ちょいと勉強ができるという「ヤツ」も形無しで、いかに要領よく間違えないかと、先に作っている生徒の後を追うことになる。
・・・と言うより授業の成績の良さそうなヤツは不器用なヤツが多いことがある。
とにかく、先に製作して失敗した例を見ながら上手く作ろうというのが本心だから製作は遅々として進まない。

この頃は、木製の模型キットから完全にプラモデルに移行する時期である。しかし、小学生の頃は模型と言えば木材から削り出す木製の模型が中心だった。
だからこの頃の子供は、木工という部分では多少たけていた。

この椅子作りは、1学期の中盤から始まっているのになかなか完成しないもう一つの理由は、失敗したものを直しながらということである。

それは、先に組み立てた生徒も二枚の横板の寸法が合わない。
それを見た先生が、
「胴つき鋸を使わないと寸法が狂う。」
とあとから言うくらいだから結構いい加減な授業だった。

「もう組み上がったのか!」
と既に椅子の形をしているものを持っている北島君にいう
「いや、寸法を合わせているだけだ」
と、それは単に椅子の脚をビスで仮止めしていただけだった。
だから、
「なにか、あわねぇなあ」と分解してまた何やら始める。

ここで失敗だったのは、面白がって鉋(かんな)で削りすぎたことであった。
そんなわけである程度均一のラワンの板の厚みが違ってしまった。

こういう中で通常の授業で目立った寺田君の様子を見ると作業速度は著しく遅い。
「寺田、何やってんだ~!」
といまだ椅子の部材も切り出していないのを見て言った。

「いやべつにしっかりやってるじゃないか!!!!!」
と言うが、授業終了時になっても作業は遅々として進まず。

そうとは言え、こちらも寸法の合わなくなったものはそれに合わせてあとの部材を切り出す、厚みが合わなくなったものはその分削るという面倒なことに追われた。

その中で、完成する生徒もぼちぼち出てくる中であと少しで、椅子の完成は夏休みの宿題になった。
********************************

担任の梅沢先生は理科教師なのだが、あるときこちらを向いて「おい達川と呼んだ」
呼ばれたのに自分の名前ではないから無視していると、名簿を目を落として・・

「あ、荒木か、達川と感じがよくにているんだよ」
「みんな、まちがえねぇか?」
するとクラス全員が「うん、うん」と頷く仕草が見える。

そう言われれば、小学校の頃にどういうわけか全く共通点もないのに達川君と比べられたことがあった。
ただし、大きく違うのは達川君はいつもクラストップで、こちらは劣等生だったことである。
・・とはいえ、自分ではまだ自分の実力を出していないと思うものの、どういうふうに発揮して良いか分からないのが実態だった。

そして、7月になると授業が半日で終わったり、授業が2時間だけだったりという日が続いた。

そんな何となく夏休みムードを感じるところとはいえ、まだ梅雨は上がっていない。
梅雨明け前の中休みである。

**********************
兄ちゃん 帰る
**********************

暑い夏は、クーラーがあるわけではないので玄関も全て開放して風の通りをよくしている。
特に東側からの風がよく入る場所に玄関がある。
その明るい日差しの中一人の人が現れて、いきなり玄関の上がり框(かまち)に腰をかけて靴を脱いでいる。

誰だろう、白ワイシャツに手提げバック程度しか持っていない。
それは兄が帰ってきたのである。

普通なら「かえってきたぞー」とか、何か挨拶でもして良さそうなのだが、
「おぅ」と言う程度。

荷物をほとんど持っていないと言うことに何か違和感があり、言葉が少ないと言うことにも妙な雰囲気がある。

その靴を脱いでる横顔を見ていると、ワイシャツの襟に銀色にひかる小さなバッチをしていた。
何も言わず、むっつりとして、
「お母さんは・・・?」というくらい。
*****
札幌からだと前橋まで帰ってくるのにまるまる1日かかるという。
札幌から特急で函館まで。
青函連絡船で青森。
青森から上野(大宮)まで寝台特急のはずだったが詳しいことは知らない。
寝台特急は、上野に朝着くはずだから時間的には多少ズレがある。東京へでも寄ってきたのかは分からない。

それから、兄は帰ってくると、何やら「ぼーっと」している。
疲れているようにも、そうでないようにも見える。

やがて母が帰ってきた。

「兄ちゃん帰ってきたよ!」
「ええ、そうなの!」

「20日頃に帰ると書いてきたんじゃないの!」と母。

「合宿が終わったあとに集中講義があるはずなんだけど、出てもしょうがないから・・」
「それで早めに帰ってきたのさ!」と兄はいう。

ずいぶん夏休みが早いのだなと思って、後日「いつから」と聞いてみたら私立大学並みに7月から夏休みなのだそうだ。

それからバッチについて、
「なんだあれは?」と聞くと・・・
その銀色にひかる小さなバッチをかざした。

これが北大の校章だったが、この頃の大学生というのは校章を付けるのが普通だった。
群馬大学の校章など、今ではそうそう目にすることはない。
しかし、この頃の本屋に行くと女子学生でもこの六角形の大きめのバッチを付けているのをよく見かけたものである。
それだけ当時の国立大学というのはステータスがあった証拠でもあった。
*************

これで今日は家族揃って夕食かと思いきや、以前は父は役所から夜9時頃にならないと帰らない。官庁だから5時に終わるはずなのに、当直の官吏の同僚と毎日麻雀や囲碁をやっているらしかった。
父は、こういう麻雀などはめっぽう強かったらしいし、囲碁も有段者だったという。
歌を歌わせればグリークラブだったからこちらも相当なものだった。
こういう遊びに関しては、母は
「立教(立教大学)だからね」
・・・と一刀両断である。

しかし、昨年に胃潰瘍の手術をしてから夕方6時ころには帰ってきていた。
それで夕食の頃には兄から新しい情報が聞けるかと楽しみにしていたのである。
それが・・・
「兄ちゃんは?」と母に聞くと

「疲れたからと言って寝ちゃたよ!」
「そのまま寝かしておこうと思ってね」という。

その後に兄が夕食を食べたのかどうかは分からない。
翌日の昼過ぎに学校から帰ってきてもまだ寝ていた。
「起こしてこようか」と母に言うと
「疲れているようだから、そのままにしておきなさい」という。
それで起きてきたのは夕方だった。
何となくテレビを見ていたりして生気がない。
同じような毎日が続き、ほとんど話もすることはない。

******************
みっちゃん
************************************

兄が帰ってきた最初の日曜日。

「今日、みっちゃんが寄るかもしれないから」とはがきを母が見せた。
これは少し前から小耳に挟んでいたことで、また赤城山でも行けるかと考えていた。
「みっちゃん」とは、母の妹で埼玉で裁縫学校と幼稚園を経営しているという事業家である。
この妹がクルマで来るという。
このみっちゃんは「寄れたら寄るからね」というのがいつも口癖である。

このみっちゃんがお昼の12時頃についた。
「赤城山に行くから・・・」
「運転手と『かず』が乗っているからあと二人なら乗れる!」

ここで兄が眠りこけていたら「僕が」母と出かけていたはずだが、このとき不思議なことに兄は朝から起きてテレビを見ていた。
「兄ちゃん行こう!」と母が言うと
何かに憑かれたようにそのまま車上の人になった。
クルマは初代ブルーバード(310型系)の1200CC。
その前のクルマは1000CCで赤城山の砂利道の山道を登るのにオーバーヒートしてまともに登れなかった。
こんどは大丈夫と言うことだったが・・・

夕方、なんとなく埃まみれでの上に疲れた様子の母と兄が帰ってきた。

「途中でクルマがオーバーヒートして、しばらく休んでいたので時間が掛かった」という。

なんだクルマを代えたからと言っても、昔と変わらないじゃないかと思ったが何も言わず。

この日曜日も大して兄と言葉も交わさず、日が過ぎて行く。
*************
7月の上旬、父が朝日新聞朝刊のミノルタカメラの広告を見て驚いていた。
「抽選くじが当たってる」
見ると当選は3本で、その一つだった。
このくじというのは、3月に「ミノルタハイマチック7」というカメラを買ってその際にもらったもの。
当たったのはナショナルのミニテープレコーダー。
30分しか録(と)れないオープンリールのもので、当時のミニテープレコーダーとしては最小である。
価格は、定価で10,000円程度。今の価格に換算すると4-5万円というところだろうか。
それが新聞を見ている間にウソのように届いた。

父は、遊びの勝負事やクジ運というのはめっぽう強くて、こういうものが当たっても不思議をなかったが、全国3名というのは何か嫌な感じがした。

こんな30分しか録れないミニテープレコーダーと言うのも使いようがなく、そのままにしておいた。

夏休みが近くなるとともに、兄の滞在期間も長くなって、多少話す機会も増えてきた。
「合宿って、何やってたんだ??」

「・・・・」
「フェンシングだ」
そういえば、肩幅も広くなってボディビルダーの選手の様な体になっている。
「荷物が届いたら一緒に送ったから、剣を見せてやるよ」

・・・とは言ってもチッキで送ったという荷物はなかなか届かない。

「テープレコーダーがあるよ」というと
自室へ持っていって、テープを入れて録音してみた。
「これ音悪いなぁ~」と
元々おいたままになっていた、かなり大きめのテープレコーダーと比較した。
30分ものだし・・・
「使い物にならないから持って行け!」と突き返されて居間のテーブルの上に戻した。


サイバーリンク Media Suite


↓良ければ応援クリックよろしくお願いします。↓


人気ブログランキングへ


エディー・バウアー・ジャパン

|

« 表彰式・祝賀会・第65回記念群馬県書道展・感想 | トップページ | HP 15-g000レビュー »

syuun の不思議な少年時代」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 小説Syuun の不思議な少年時代 その35【昭和39年、1964年夏 その1】:

« 表彰式・祝賀会・第65回記念群馬県書道展・感想 | トップページ | HP 15-g000レビュー »