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2017年5月13日 (土)

壬申の乱の虚構性を検討する序章

Ginza201713


日本書紀に書かれている「壬申の乱」。

日本書紀というのは、天武天皇の正当性を中国の史書になぞらえて漢文で書かれたものである。

この天武天皇こと大海人皇子は、もともと皇位継承権がなかったという説がありその諡(おくりな)を見ても天智天皇とは雲泥の差がある。

「壬申の乱」については、その大海人皇子軍の行軍の記述が地図に照らすと全く合わないという著書を紹介したことがある。

それで「壬申の乱」について、詳細な時系列で検証している「日本書紀の虚構と史実」という著書を読んでみるとどう考えてもやはり辻褄が合わないところが多い。

単純な疑問は

●671年10月19日、天智天皇に背いて、大海人皇子が突然出家して吉野に向かったときに
「蘇我赤兄や中臣金といった重臣たちが宇治橋まで大海人を見送りにきた。彼らは機会を窺って大海人皇子を亡き者にしようと計画していたが、ついに果たせなかった。」

この部分はおかしい。
確かに重臣が途中まで送りにくるというのはある。
その場合当然のことながら護衛の軍勢がいるわけで、その後の歴史を見れば追っ手を差し向けて殺害している例は多い。
要するになぜ大海人皇子に手が出なかったのか、単純には大海人皇子を迎えに来た護衛がいたとしか思えない。

そうでなくとも吉野なら大友皇子側から吉野宮に軍勢を差し向けても不思議はない。


●672年5月、大海人皇子は吉野で戦争準備をするわけだが、本来少人数で吉野宮に行ったはずなのに多数の舎人を動かしている。
都から近い吉野では無理である。

●672年6月24日、吉野を40人程度の従者女官とともに出発。

6月26-7日、美濃において3,000の軍勢の動員に成功。

 

尾張の国司 小子部氏が20,000の軍勢を率いて大海人皇子に帰属。

これも不思議なことである。

この時点で大友皇子は、天智天皇崩御と供に動員令を出して数万の精鋭軍を招集し、将軍に山部王、蘇我果安などが指揮をする。
圧倒的な軍勢、軍団の前に国司が反逆すると言うのも不自然である。

しかも、大海人皇子は東国の蝦夷討伐軍である最強と言われた上野の軍まで投入している。

663年「百済の都、州柔(つぬ)城」の陸戦での敗戦によって、前将軍・上毛野君稚子(かみつけのきみ わかこ)が唐軍の捕虜(?)になっていたとは言え余力はあったであろう。

●大友軍の将軍、蘇我果安が山部王を内通の疑いで惨殺。

その後、蘇我果安も自害。
これも変な話。

●大友軍は、軍隊を増員出来ないのに大海人皇子軍は、東国の軍隊までも続々と動員して圧倒的な精鋭をもって完全に殲滅してしまうこれも解さない話。

その他、663年に白村江で唐軍(新羅軍はその武将)に完敗して、九州に都督府が置かれ約2,000の唐軍が駐屯していた(日本書紀)。

この「壬申の乱」以降になって、唐の捕虜になっていた主要な人物が返される。

その他多くの疑問があるのだが、いま読み込んでいるの最中で上野三碑の話が出てきてしまったのでもう少し整理して考えてみる。


詳しくはこちらを参照 icon


2017_5_13




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