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2017年5月14日 (日)

上野三碑(ユネスコ世界遺産登録をめざす)について考える。

Tago1



平成29年5月9日の地方紙に「三碑が語るもの-朝鮮半島に源流」という記事があった。



記事では、上野三碑と朝鮮半島とのことについては詳しく載っていない。

とはいえ歴史上絶対に無視できない「朝鮮半島には有名な広開土王碑(推定414年)」について言及している。

しかし、広開土王碑は、朝鮮半島ではなく中国吉林省で旧満州である。

その前段で見過ごせないのは以下のくだりである。

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「律令制や仏教--この頃の東アジアは中国大陸の唐が主導、朝鮮半島には唐と外交関係にあった新羅があった。日本は唐や新羅に使節を派遣し、律令制や漢字、仏教など『最先端』の政治体制や文化を積極的に取り入れた。」

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確かに660年百済が滅亡しその復興のために、663年「百済の都、州柔(つぬ)城」の陸戦や、663年に白村江で唐軍によって朝鮮半島から完全に撤退することになった。
それで新羅が唐王朝を背景に朝鮮半島を統一はした。


しかし、「日本は唐や新羅に使節を派遣し、律令制や漢字、仏教など『最先端』の政治体制や文化を積極的に取り入れた。」という文章はいかにも「律令制や漢字、仏教」が新羅を通して入ってきたように読めるしその意味だろう。
なぜなら続く文章で
「新羅の石碑は、山上碑や金沢碑のように自然石をそのまま使ったものが多い」次に「新羅の影響」の題字がある。


 

Ginza201715



これは日本の文化は、新羅などの「朝鮮半島の人民から、稲作をはじめとする様々な先進文化」(「日韓がタブーにする半島の歴史」室田克美著)を教えて貰ったという話に基づくのだろう。

稲作は、DNAから朝鮮半島経由ではないことが証明されているし、古事記、日本書紀、随書、三国史記(朝鮮半島の歴史書)にもそのようなことは書いていない。

先の広開土王碑に、書かれていることをわざと無視している。

「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民

〈そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説などもある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉」
(ウィキペディアより)

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年表を見てみると
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362年 新羅征討とあって、新羅が降伏している。

369年 南加羅、安羅、多羅、加羅、卓淳など7か国と周辺諸国を平定。

370年 百済が朝貢

438年 使持使 都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称すも詔して安東将軍・倭国王に除す。

451年 使持使 都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王に除す。

462年 安東将軍・倭国王に除す。

478年 使持使 都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に除す。 

479年 加羅国王荷知、南斉へ朝貢し高帝より輔国将軍・本国王の号をうける。

この様に見てみると4-5世紀の倭軍というのは強力な軍隊で、随書に見られるように「倭国に優れて品々が多いため、新羅も百済も倭国を敬仰し、常に使節が往来している。(前出)」とある。

新羅から先進文化がもたらせられているわけではない。
軍隊というのも文化が高い方が強いと言うのも常識である。
(日本書紀・任那には、10国・加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、卒麻国、古瑳国、子他国、散半下国、乞湌国、稔礼国)

512年任那4県を百済に割譲

513年任那 全羅南道4県に加え2県を百済に割譲したことに端を発して、任那の加羅諸国は倭国に反発

522年加羅諸国、新羅へ傾斜

527年~529年倭国の内政問題と失政のため任那劣勢となる。

列島国家というのは、英国の例を見ても分かるように大陸から駆逐されると言うのが常である。
任那の政策では、百済にかなり優遇して加羅諸国の要望を無視した結果で任那を失うことになる。
任那滅亡562年(日本書紀)

ここで確認しておくのは、新羅が唐に朝貢したのは
621,622、625、626、627、629、631、633年・・・と任那滅亡の後である。

又、572年敏達3年から「任那の調」が始まっている。

 

すなわち新羅が倭国に「任那の調」として朝貢して646年頃まで続いている。

 

これは、倭国が再三にわたって新羅討伐軍を派遣して任那復興を画策していた結果といえる。

この「調」とは「租庸調」の調であって、配下が納めなくてはならない税金である。
(知っていますか 任那日本府・大平裕著)

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さて、ここで長々と書いてきたのだが、新聞に書かれている

「律令制や仏教--この頃の東アジアは中国大陸の唐が主導、朝鮮半島には唐と外交関係にあった新羅があった。日本は唐や新羅に使節を派遣し、律令制や漢字、仏教など『最先端』の政治体制や文化を積極的に取り入れた。」

とは大幅に違うことが分かる。

倭国は、370年に中国に朝貢し438年に「安東将軍・倭国王」の称号を得ている。

さらに、
451年には、都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王に。除す。

478年には、都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王の称号をえている。

百済は、487年南斉へ朝貢して「王候号」に除せられることを願うが避けられている。

607年遣唐使(小野妹子)

新羅は、649年に「唐の衣冠」を着ることになるが称号は与えられていない。

倭国は、607年に遣唐使を派遣しているのだが、新羅は621年に唐に朝貢しているのである。

そもそも倭国は、370年には朝貢をして称号を得ているから新羅から『最先端』の政治体制や文化が入るはずはない。

 

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なぜこんな風に歴史を書いてきたかというと、「上野三碑」は朝鮮半島との縁が深いと言われているからで、これを新羅との関係で語られると辻褄が合わなくなる。

そもそも古代新羅と現代韓国とは全く関係なく、韓国自体新羅を継承している訳でもない。
事実としては、古代から6世紀中版までは朝鮮半島の南半分は倭国又は倭国の勢力範囲だったということである。

その中心は九州にあり、任那滅亡によって居場所がなくなった人たちが群馬に住み着いたと言うのが本来であろう。

ここでは、直接上野三碑には触れないが、

726年に建てられた上野三碑の一つである「金井沢碑」には、物部牛足という人物が刻まれている。
物部氏とは、本来軍事と物流兵站を司る氏族でいかにも任那に関わったようにみえる。



多胡碑は、「羊」こと羌族(別名を羊族)の代表が、多胡郡を貰った記念碑と見て取ればこれも任那の軍事組織に関わる。
鍛冶屋という羌族の専門の組織で、当時のハイテク集団。
はっきり言えば、武器製造者である。



一つだけ違うのが「金井沢碑」、
三家氏という豪族が自分の家系を記したもので、三家氏の元に「他田君(おさだのきみ)目頬刀自(めづらとじ)」とあることである。
刀自とは、正妻で一族を束ねる立場であって、「大和政権」の中にも出てくる。

しかしよく見ると「他田君」の「君」という九州の政権特有も貴族の称号をもつ。

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以前に高崎で行われた上野三碑に関する講演会なとでは、この朝鮮半島のことに関して奥歯なものが挟まった様なもどかしいことが多く核心に迫っていない。

 

又、この「上野三碑」の碑文を中心としての論証は「日本語誕生の時代」熊倉浩靖著に詳しい。

ここで「日本語誕生の時代」にも「なぜ日本と新羅は統一国家になりえたのか」という不思議な章があって、言語の立場から論説している。

 

この著書で、多少前後で論理矛盾があるのは無視して、「新羅は統一国家になりえたのか」とい章があるものの歴史を見ると違和感がある。

 

この「日本語誕生の時代」では、広開土王碑、日本書紀、三国史記なども引き合いに出しているとは言え、広開土王碑の倭(日本)に関する部分は「議論が分かれる」として無視している。

議論?・・・それは韓国による異説でしかない。

上野三碑を見てゆく上で、4-5世紀の任那を考えないと無意味であると同時に「律令制や漢字、仏教など『最先端』の政治体制や文化」は新羅から伝わったという虚構を廃しないとさっぱり分からないものである

朝鮮半島南部には、日本特有の墓制である前方後円墳が14基発見されている。
その中の副葬品から倭人と思われる品々が出土していたという新聞記事を見たことがある。
文献だけでなく、実際の事実としての物証が出ていることを無視することは出来ない。


詳しくはこちらを参照 icon


2017_5_13




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