卒業風景が毎日、新聞掲載される3月
土曜日24日の地方紙の一面に小学校の卒業式風景が載っていた。
随分前から小学校の卒業式だけ着る「晴れ着」のような制服が売られていて、うちの娘も10年近く前にはスーパーで一日限りの服を買った。
中学からは制服だから本当に着る機会はない。
子供の卒業式というのは、今保護者として両親が出てくることも多い。
既に取り壊してしまってない講堂兼体育館で、一人一人呼ばれて卒業証書が渡されるわけだが、これは一学年50人程度しかいないから出来ることである。
それで終わって記念写真だなんてやっている。
うちの子は何となくその輪には入れないというか、浮かぬ顔をしているのかと心配したことがある。
実はもう一人そういう仲間に入らないような子がいて、これは中等教育学校にただ一人受かった子だった。
母親と並んで何となく嬉しそうなのは目に残った。
しかし、その後の噂は聞いたことがないし知らないとも言う。
うちの子が浮かぬ顔していたのは、その後の大学入試の時にその中から現役で東大2人、国立大学医学部1人進学したのだという。
それで何となく不安を覚えていたのかもしれないが、「誰も知っている人がいない」ところへ行きたいとは漏らしていた。
実際、6年後の大学入試では文字通り「誰も知っている人がいない」大学に進学した。
そう群馬県人は他にほとんどいない東京の大学だった。
「言霊」は迷信とは言うけれど、何となく「言霊」通りにことが進んでしまうというのは不思議なものである。
それで昔は卒業写真があり、その下に住所が書いてあった。
しかし、今は卒業名簿すら作られないから子供は小中高の同窓会も開かれない。
それでそんなものがあったからと言って、参加するかどうかは分からないものの、小生と同じで小中高と学校は嫌いだったようである。
振り返って自分の小学校の卒業式はどんなものだったのか。
実のところ大昔で覚えていない。
卒業生は、220人くらいだから卒業式では名前を呼ばれただけだろう。
そもそも団体が集まれる体育館もなかったので、各教室に待機してそれこそ校内放送での卒業式だったかもしれない。
とにかく呆気なく終わって、これで自由になった風で学校を直ぐに飛び出したような気がする。
それほど余り好きになれなかった小学校生活である。
ところが、自分あとから誰も出で来ない。
それで、「早すぎたか」と思って、もう一度校門まで戻った。
戻ってみれば、校門当たりで沢山の卒業生がたむろして別れを惜しんでいる。
どうせ半分は同じ第一中学校で、校舎が焼けで仮住まいになっている第三中学校は少ない。
群大付属中学校に進学する卒業生は、さっさと帰ったようで余り見当たらなかった。
ただ一人だけ大泣きしていたFという子がいて、こんなに感情をあらわにするのと驚いたのを今でも覚えている。
それで中学の卒業式の時はどうだったのかというと、今はない体育館で名前を呼ばれて立った覚えがある。
その時の校長が言った言葉は「運、鈍、根」だった。
そんなことを覚えているのは、PTAの役員だった母が「中学生に言う言葉か」と言っていたからである。
3月中旬以降なかなか席を長く空けていられない。
それで色々なことが思い浮かぶというものである。
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