平成30年度・前橋市戦没者追悼式・戦後73年
8月15日は終戦記念日で例年のとおり「前橋市戦没者追悼式」があった。
戦没者の遺族一員になっているから一般には父親か兄弟かである。
しかし、戦没者の兄弟だとそろそろ鬼籍に入っている人も多く、父親だったら戦後生まれの小生は生まれていない。
その戦没者とは、父親の双子の兄(大正3年生)である。
それも日華事変か日支事変の頃の戦死だったと聞いていて、詳しくは調べていない。
伯父は、旧制前橋中学(県立前橋高校)を卒業して、早くに招集された。
その一方、父は旧制前橋商業(県立前橋商業)を卒業して、高等学校として旧制明治学院(明治学院大学)。
そして立教大学を卒業した。
父になぜ旧制前橋中学に進学しなかったのかと聞くと、小さい頃から「双子」「双子」と散々いじめられたので中学に行ってまでいじめられるのが嫌だったからという。
二卵性双生児で、余り伯父とは顔が似ていないが双子には相違ない。
それで父は明治学院(現在・明治学院大学)の頃か不明だが肋膜炎(胸膜炎)になった。
正確には「結核菌による胸膜炎」らしいのだが詳しくは知らない。
それでその頃の手術は、肋骨を切り取って肺の患部を押しつぶすと言うようなものだったらしい。
胸に大きな傷跡が残っていた。
この胸膜炎の痕は、延々と健康診断にかかって精密検査を晩年余儀なくされたようだが、問題はなかった。
伯父の方は、なぜ大学進学しなかったのかは全く情報がないので分からない。
当時の常識で、旧制中学から旧制高校を経て大学などに行く人は希だったことは間違いない。
しかし、その結果は戦後まで生き残るか戦死してしまうかの境目だったかもしれない。
それでも父は、昭和19年2月高崎15連隊に召集されて、パラオのペリリュー島守備隊に配属される予定だった。
このペリリュー島守備隊とは、玉砕したところで父共に召集された召集兵で生き残ったのは3人だと言っていた。
生き残ったのは、「胸に大きな傷跡」があったのと同時にレントゲンで陰があったからで、ペリリュー島守備隊に配属されなかった。
その後にそれでも輸送船に乗って、東京湾を出るところで「サイパン陥落」の報で輸送船が引き返したり、英語ができたので終戦に備えて、広島の原爆投下1週間前に横浜に転勤になったりして生き延びた。
これも立教大学を卒業していた数少ない兵隊だったという理由である。
今から思えば、当時の大学を出たか出ないかで生死を分けたのではないかと思っている。
それで除隊時には、上等兵(ポツダム)になっていた。
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