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2022年11月 7日 (月)

04深夜放送の幕開け・パックインミュージック・小説Syuunの不思議な少年時代43・1967年(昭和42年)

19677200782
1968・前高高高定期戦・前橋高校校庭


04深夜放送の幕開け・パックインミュージック・小説Syuunの不思議な少年時代43・1967年(昭和42年)

修正 2022/11/08

第二校歌・復元

★パックインミュージック(1967年7月31日から1982年7月31日)事件。

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高崎高校では「山猿」と呼んだことによって、高崎高校の生徒が激怒したと言うのは第3回木曜深夜の投書によって明らかになる。
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第3回木曜深夜★★★★★★
1967年8月25日1時より・・・(24日深夜25時)

待ちに待った木曜日深夜(金曜日)24日深夜、パックインミュージック-(野沢那智と白石冬美) が始まった。

その第一声は当然「前橋高校と高崎高校」に関する前回の前高のリスナーの続きの投稿。

しかし簡単に紹介し、肩透かしであった。

その一方で高崎高校のリスナーからの投稿を紹介した。

その内容は2回の放送内容に対して一つ一つ反論したものだった。

しかし、書いてある内容は「伝聞」であるかのように不正確な上、文章の稚拙。

そして反論内容は単なる罵詈雑言に終始して全く説得力がないものだった。

最後には、前高・高高定期戦の話しに及び「首を洗って待っていろ」という捨て台詞で終わっていた。

しかし、このときの「山猿」は今(2022)では前橋高校の掲示板に「山猿高校」と書かれていることに驚くものでもある。

前橋高校のリスナー投稿の流れる様な文章は、元々放送作家が書いたものかと思ったくらいの名文で文章の質だけで勝負があったように思う。


パーソナリティの野沢那智も前高-高高を煽りすぎたかと思ったのであろう。

「これはここまでにしてと」・・・以後前橋高校や高崎高校の話題を取り上げたことはない。

前橋高校も一躍有名にはなった一方で、この3回の冒頭投稿によってパックインミュージック木曜日が軌道に乗って何年も続くことになった。

実を言えば「前橋高校の話題」以降目を引く投稿というのはほとんど見られなかった。




そうして高校の3年間には、話題がなくなり野沢那智自身が主宰する赤字続きの劇団「ばら座」の話などの身の上話が多くなったことがある。

それに関連して野沢那智自身の「奥さんが突然荷物を持って押しかけてきた」結婚とその破綻の原因など、何も知らない高校生の身では興味深かった。    
野沢那智自身が言う破綻の原因は、声優などをして漸(ようや)く食べられるようになると突然「劇団」にお金を使ってしまい奥さんが「質屋」に通う始末だったという。

その他、当時の人気番組「ナポレオン・ソロ」のイリヤ・ニコヴィッチ・クリヤキンの吹き替え。
このときオーディションでやけになって高い声を出したら採用されて困ったとの逸話(エピソード)。

収録の時には体調に気をつけて臨んだという。
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いずれにせよ夏休みが終わり新学期になる。

その夏休みが終わる直前に「新しい教科書」を購入した。

世界史の授業が終わり、地学、化学そして数学Iと英語のReaderの教科書が変わった。

英語の教科書はあのねつ造記事が載っていたReaderで、英語も数学Iの教科書も受験に合わなくなったらしい。

そして9月が始まる。

新学期が始まると数学と英語の実力試験。

そしてすぐに「前高・高高定期戦」のクラス対抗試合が始まった。

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ここで少し当時の前橋高校を取り巻く環境、風潮というものは令和の今とは全く違っていると説明しないと分からないことが多い。

今現在(2022)前橋高校の定員は280人、1967年の定員は441人(49人クラス9組・卒業440人) 。

統計で18歳人口を見てみると

1967年人口236万人
2022年人口112万人

18歳人口減少が始まる「18年問題」と言われた2018年は118万人である。

単純に比例計算での定員は約209人。

当時は、前橋市では他に男子が進学できる公立の普通高校はなく、私立高校の「特進」という進学クラスもなかった。

不合格なら「高校浪人」をして前橋高校に入学している。

しかも高校浪人をしたから前橋高校でも成績が悪いということもなく、大学は医学部に進学した例もある。

その他、群馬県内の地区で市役所以外の5支部同窓会がある。

「伊勢崎佐波 前中・前高同窓会」(伊勢崎)というのは当時の通学範囲である一方
○東毛 前高同窓会(桐生)
○西毛地区 前中・前高同窓会(高崎)
○前中・前高北毛同窓会(渋川)

などは当時では通学区域外で事実上群馬県中から生徒(前高生)が集まっていた。

1年生の時、中之条(群馬北部)から2時間かけて通学していた生徒も数人いた。

このことから今に換算すると実質150人程度の定員の難易度に相当すると考えられる。

当時の前橋高校がいかに難関だったかわかるものである。


2019年の前橋高校資料によると現役進学は69%とある。

近年では2015年が70%を越え、その後65%前後に落ち込んでいたと記憶する。

その一方1967年当時では、教師は「高校は4年あると考えてくれ」と述べている。

一浪は「ひとなみ」と呼ばれ理系の生徒の約80%以上が浪人している。

当時は、大学進学予備校の全盛期を迎えようとしていた頃でもあった。

今のように私立大学が乱立している時代ではなく、また今ある有名私大も設立されたばかりだったりした。

戦後のベビーブーム世代直下というのはいつも一つのブームを作る。

そうして、高度成長時代が終わる「石油ショック」は、昭和48年(1973)で6年後である。
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クラス対抗試合は、卓球を選んだ。

しかし、クラス対抗で最初に当たった堀口君(1中出身)のカット攻撃にあっさりと敗れてしまった。

この堀口君とは不思議な縁で、どう言う訳かその後スキーによく行く仲間となり、高校3年の時には同じクラスに。

ひとなみで静岡大学(二期校)に進学しても夏休みに一緒に山に登ったり、日光へドライブをしたりと大学2年までは多少の交流があった。

その後逢うことはなかったものの、前高3年のクラス同窓会を含めて今でも合うことがある。

(堀口君は、当時一期校・新潟大学工学部に現役合格していたので学年が上で、その後は卒業研究や就職活動で忙しくなったので会えなくなったという理由。)

それで小生が参加する「前高・高高定期戦」では騎馬戦に出場することだけになった。


そして「前高・高高定期戦」が近づくと1-2年生を中心として、「騎馬戦」、「綱引き」、「玉入れ」などの練習が徐々に始まった。

このときの応援団はまだ3年生がやっていた。

この練習では、先ず「校歌」や「応援歌」、「凱旋歌」の斉唱から始まる。

終わりには、校歌や応援歌、凱旋歌が歌われることもあった中で、目を引いたのは「第二校歌」という数え歌であった。

この引退間際の応援団長の「第二校歌」での流れるような指揮は今でも目に浮かぶ。
***********************

正式な歌集に載っていない「第二校歌」は、廃れてしまった。

それをWeb上で再現したものを引用する。

但し、修学旅行用の歌集に掲載されていたものらしく1967年当時の第二校歌とは違っている。

前橋高校 第2校歌**********

一つとせー
ひーとつ田んぼの中にある
前橋高校良いところ
そいつは豪気だね そいつはねー

二つとせ~~
双子山から煙(けむ)が出て
今日もエンタで日が暮れる
そいつぁ豪気だね そいつぁね~~

三つとせ、それ三つとせ
見たか聞いたか前高の
揃いも揃ったバカ員教
そいつぁ豪気だね、そいつぁねぇ~

四っつとせ~え~え それ四っつとせ
横目で睨んだ女学生~
胸の辺りが気にかかる
そいつぁ豪気だね そいつぁえ~

五つとせ~~
粋な洋館伊達じゃない
硬派軟派の養成所
そいつぁ豪気だね そいつぁね~~

六っつとせ~え~え それ六っつとせ
昔なじみの女学生~
今じゃ愛しの花嫁さ
そいつぁ豪気だね そいつぁえ~

七つとせー
斜め道路で体当たり
彼女はエス校の落第生
そいつは豪気だね、そいつはねー

八つとせー
やっぱり気になる女子高生
腰のあたりが気に掛かる
そいつは豪気だね、そいつはねー

九つとせ~え~え それ九つとせ
腰の手拭い伊達じゃない~
魔除け虫除け女寄せ
そいつぁ豪気だね そいつぁえ~

十(とう)とせ~え~え それ十とせ
今日でとうとう卒業だ~
員教殴ってさようなら
そいつぁ豪気だね そいつぁえ~

おわりとせーそれおわりとせ
尾張名古屋は城で持つ
天下の前高俺で持つ
そいつは豪気だね、そいつはねー

**************

第二校歌が作られたのは、「五つとせ~~・粋な洋館伊達じゃない」とあるように、昭和29年11月第2期工事の鉄筋三階建て校舎が竣工した後であることがわかる。

(昭和27年12月22日(1952)、旧木造校舎は全焼している。)

多分新校舎誕生を記念して作られているとして、1955年頃からして10年少ししかたっていない計算になる。

しかし、この約10年間の環境は大きく変わり、1967年当時では「六っつとせ~え~え」のなどや「女学生」あたりなどが幾つか違っていたかもしれない。

記憶によれば「右と左の泣き別れ」という「電車通学」のフレーズがあったと思う。

「六っつとせ~え~え」の中の「今じゃ愛しの花嫁さ」は既に現実的ではなくなっていた。

なぜなら前高生の大部分は、大学進学によって青春時代は地元に残らない。

1960前後とではこんなところでも大きく違ってきていた。

 

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