44-小説Syuunの不思議な少年時代第44回・1967年(昭和42年)
44-小説Syuunの不思議な少年時代第44回・1967年(昭和42年)
深夜放送の幕開け・パックインミュージックのその後
前橋高校の二学期が始まると「深夜放送・パックインミュージック」の投稿者は誰だという噂で一杯になった。
そのうちに「俺だ」と密(ひそ)かに漏らす生徒がいた。
特別に目立つ生徒ではなかったので「だれ??」という感じだったのと、同時に同じクラスにいるとは思わなかった。
それは席の左後ろにいた小田君という生徒で、すぐに「名前が知られるとマズイ」といわれて否定することになったもののあっという間に名前は広まってしまった。
(小田君とは、後に北海道大学薬学部を卒業して今は北海道在住で「北海道医療大学薬学部・名誉教授」の小田和明先生である。※小田和明先生に確認了承済)
9月の実力試験が終わると新しい授業として「地学」が始まった。
大学入試とは関係のない新しい授業は、ピリピリしない何となく緩やかな雰囲気であった。
そういう中でいつの間にか「地層について調べて研究成果のレポートを出す」という課題が出た。
それも「幾人かでグループを作って調査」という課題で、前の席の「阿部君」その隣・左斜め前の「岩崎君」(群大附属中出身)と3人で組を作ることにした。
課題の調査は次の日曜日、前橋公園に朝6時集合と言うことになった。
前橋公園は、土手の上の公園部分と土手下の「さちの池」周辺という広いところで、利根川によって浸食された地層がこのころではあちこちに残っていた。
その9月の天気のよい日曜日、朝目覚めると6時だった。
まだ夏の余韻を多く残す気持ちの良い朝で・・・すぐに前橋公園まで自転車を飛ばして6時15分頃についたものの、人っ子1人見当たらず見つからない。
6時30分頃まで探して集合場所の岩崎君の家に向かうことにした。
岩崎君の家は前橋駅前の細い路地の東側にあって、以前下校のとき「ここだ」と教えてもらったはず。
しかし、同じような大きさの家が連なって多少分かりにくいところであった。
戦前からある前橋駅前のケヤキ並木大通りの西側路地には、小さな住宅が密集して建っていた一方、東側は倉庫と工場など雑然としていてたところである。
今では住宅はほとんどなくなって、マンション、ビジネスホテルと駐車場と殺風景な雰囲気が広がる。
少し空き地があったくらいのこの頃、夏のこの時間では日差しが差し込まず日陰で少し薄暗い。
同じ規模の家が連なる中、岩崎君の家が見つかるかと心配していたところ、阿部君と岩崎君の姿が見えた。
「ああここか」とほっとした。
なぜか家に入らず立ち話をしていて「家の前にいるのか ??」
駐車場のマツダ・ファミリアの横まで行って・・・
「どうしたの?」と尋ねると
「うちは日曜日は遅いから・・」という。
それから30分くらい時間を潰して、7時20分近くなると「もう良いだろう」と静かに玄関を開けて応接間に入った。
※玄関を入ると当時の住宅の主流の設計で、玄関ホール横に2階に上がる木製階段がある。
その向かいの玄関横が応接間になっていた。
「音を立てるなよ」と岩崎君がいうものの、入り口の木製の扉の音くらいはする。
いわゆる昔ながらの玄関横の「応接間」に入ると、エンサイクロペディア(英語版)が本棚にこれ見よがしに並べられていた。
「あ~社長さんの家だ」と理解した。
昭和40年代に百科事典を買うというブームがあった。
それは会社の社長さんというクラスの家に、米国の百科事典をセールスしていた時代である。
(英語の文学全集が附属)
又その頃は、日本文学全集とか世界文学全集とかを買っていた時代でもある。
家では平凡社かどこかのカラー百科事典を買っていた。
2-3か月か半年に1冊ずつの配刊で全巻揃(そろ)うのに何年もかかった。
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7時頃になると階段を下りる足音などがして、部屋の扉が突然開いた。
ノーメイクの非常に綺麗なお姉さんが顔を出して・・・「お友達がいるのね!」
「誰?・お姉さんがいた?」と聞くと岩崎君が母親だという。
<情報通・阿部君情報>によると「岩崎君は20歳くらいで生まれた子だと言う」
・・・そうするとお母さんは30歳台後半?
そうであれば「お姉さんと間違っても全く不思議はない」。
8時頃になって、紅茶とお菓子を持って再びあらわれたときは「老けメイク」で40歳前半のような感じであった。
「かまわなくて良いから」と岩崎君が言う。
<阿部君情報>
それほど親しくない連中が来たので、多大な接待は不要との意味を背後に感じたものでした。
<解説>
※阿部君と小生は、前橋市立第1中学校出身で岩崎君は、群馬大学教育(学芸)学部附属中学校出身。
(昭和42年当時)
附属中出身者は小学校入学組と中学からと大きく分かれる。
附属中学のトップクラスを構成する中学からの生徒では、郡部(当時)の子や転勤族も多くハイソ(High society)を目指すような雰囲気は全くない。
(小学校の時の抽選で落ちた生徒の受験組も多い。)
その一方、小学校から入学した生徒は旧市街地の少しハイソを目指す家庭出身者が多い。
しかし、その約3割は前高、前女に進学できていない。(中学全体では約18%)
以前に清心幼稚園時代の記事で、卒業式に附属小学校の制服を着ていた10人程度の級友の内1人も前高に進学していない。
(制服を着ていなかった友人は、前高~東大に進学。)
要するに阿部君と小生は、のんびりとしたハイソな雰囲気は全く持っていなかったということになる。
そして、何となく感覚が違う附属中出身者(在校生の約14%)との交流は非常に少なかった。
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地学のレポートは、集合時間に間に遅れたことから全部小生が書くことになった。
それなので打合せは短時間で終わり8時半過ぎには終了。
そのレポートはどう書いたのかは全く覚えていないものの、書き上がったものを提出前に見せて了解を得たことを覚えている。
そして提出レポートは、クラスで一番の評価を得て授業で小生が発表した。
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<阿部君情報>
当日、荒井先生不在での地層探検は、がけの上の方まで登ったりで、結構なアドベンチャー気分を味わったもの。
確かクロスラミナを発見したことを報告したので、クラストップの評価になったと記憶。
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その岩崎君の家もその後10年少したった頃には、どこにあったのか全く分からない景色で消えていた。
こんなことで9月も無事に終わり10月になった。
10月と言えば初めての「前高高高定期戦」の時期になる。
そして同時期にコンサートがあった。
バイオリンの「江藤俊哉」のコンサートである。
何となく慌ただしさの中で、午後に行われたコンサートは、1年生なので体育館の割合と前の方の席だった。
このコンサートが始まる前のお昼頃、体育館の前で結構強面(こわもて)のオジさんがバイオリンを弾いていた。
この演奏会、演奏が終わるとあっと言うのに帰ってしまった。
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