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2023年5月 3日 (水)

1970年とヒトナミの青春時代

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1970年とヒトナミの青春時代

 自身の「青春時代」とは何だったのかと前橋高校時代を振り返ってみた。

 最近はテレビを見ていないけれど、その昔は「青春ドラマ」を放映していたことがある。

 しかし今の高校生はなにがしらの形で全員進学という時代になって、昔の青春ドラマは成立しなくなったような気がする。

 昭和42年・1967年当時女子のほとんどは高卒で就職し、当時の前橋高校のように全員進学というのは逆に今の高校に繋がっているように感じる。

 キラキラした高校1年生から虚ろな目になった高校三年生になり、1970年春に浪人生活を始めるとして東京へ出た。


 この浪人生活を始めるにあたり、親戚が知っていた昔ながらの下宿屋に住むことになった。

ここは3畳一間で、朝・夕食の2食が付いて10,000円でお釣りが来た。

 戦前からある下宿屋は3畳の部屋が4、6畳の部屋が1で、先に東大農学部があり少し歩くと郁文館高校の校庭が見えたような気がする。

 夏目漱石の「吾輩は猫である」の世界であった。



 母に連れられてこの下宿屋に行くのに高崎線特急「あかぎ号」を赤羽で下り京浜東北線「王子」で下車。

王子駅南口から飛鳥山公園へ登って本郷通りへ降り、当時まだあった都電(19番?)に乗った。(20円)

 東大が近くなるなと思っているときに下車して、坂道を上り向丘へ。

 よくこんな道で行くのかと思ったら娘時代に通った道だと母は、嬉々として言った。


 この下宿の住民はほとんど東大生で、夜中にならないとほとんど帰ってこないのであまり話をしたことがない。

 一応挨拶に行ったときに、多少雑談した。

 その時、「代々木」と「早稲田」には近づくなと何度も警告された。

「代々木」とは民青(日本民主青年同盟)、早稲田とは全共闘だという。

 予備校は研数学館(既に廃校)で水道橋駅からすぐのところで、向かい側に日大経済学部、その西側裏に法学部があった。

 予備校には巣鴨からくる都バス(都電が廃止されたばかり)で水道橋駅まで。

 70年安保で水道橋駅ではマイクを持ったヘルメットの人物の声が春先はうるさかった。




 令和5年3月28日に坂本龍一氏が亡くなって、多数の経歴が書かれた新聞記事が出た。

「龍」という文字があるので辰年だと思っていたら、誕生日が幾日も違わなかった。

 1970年坂本氏とは東京で同じ空気を吸っていたと思うものの大きな違いがある。

 代々木公園に集まっていたという坂本氏は東京生まれの藝大生、小生は群馬の田舎から出てきて翌年4月にはどうなっているのか分からない予備校生。

 今は全国どこでも東京とあまり違わない言葉を話す。

しかし、夏に通信のスクーリングに来た九州の人とは言葉が通じなかったという時代でもある。

 そもそも坂本氏は高校生時代から学生運動に関わっていたと新聞記事にあって別世界の人物である。

東大安田講堂事件の後、70年安保は高校にも波及して1968年に東京都立竹早高等学校は生徒によるロックアウトが起こり機動隊が導入された。


 しかし、公開模試で行った大学は静かなもので、銀座も新宿も全く学生運動などみじんの痕跡もなかった。

 学生運動が盛んな大学が近い駅には、学生運動家が大音量のマイクで何やら叫んでいた。

 浪人生としては巻き込まれないようにそういう駅には近づかなかった。

 しかし、代々木ゼミナールの講習へ行くときは代々木駅で大音量の学生運動家のマイクが耳障りだった。

 当時代々木(駅)学生の数は非常に多かったとはいえ、予備校と専門学校くらいしかなかった駅周辺、何を表現したかったのだろうか。

 浪人生にとっては、「学生としての身分」がある運動家を多少うらやましく思ったくらいである。


 正直言って浪人生ほどつらい身分はない。

 特に秋になると学力が上がらなくて絶望感が強くなる。

 そして決定的だったのは志望していた東北大学の入試が中止になったことである。

(大学のロックアウトにより。全員留年)

 これで進学を希望していた大学がなくなった。


 前高同期の研数学館生の1人は、予備校の授業が役に立たないと夏休み前に宅浪に切り替えて群馬へ帰って行った。

 事実、研数学館の講義は日本史以外全く役に立たなかった。

 代ゼミも研数学館も今から思えば私立大学受験を中心にしていて、国立大学を目指すなら他の予備校(駿台予備学校)などに行く必要があった。


 一浪すれば大学に入れるというのは全く嘘で、そもそもすれすれで落ちたような大学にしか受からない。

 大学に入って同じ学生アパートの住人が、1点(情報公開開示)足らなくて京大に落ちたといっていた。

 そしてまだ難問奇問が入試ではまかり通っていた時代、当時の偏差値62以上の国立大学に入るには難関国立大学専用の数学問題集「赤チャート」を完全マスターしても無理だと分かった。

 もう一つ上の何かが必要であった。

 そしてそれを2月になって偶然手に入れて大学に受かったのは運命かもしれない。 

※進学した静岡大学工学部は、難問(数学)奇問(日本史)でも有名だった。

但し、入学してから分かったことである。

 

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