47-小説Syuunの不思議な少年時代 第47回・1967年(昭和42年)
47-小説Syuunの不思議な少年時代 第47回・1967年(昭和42年)
★前高・高高定期戦3
--深夜放送の幕開け・パックインミュージックの後始末--
騎馬戦のあと--定期戦終了
その他の一般参加の試合は、玉入れと綱引き。
★玉入れは、1年、2年、3年と続いて行われる。
どうということはない。前高の負け。
1年生で参加する前高・高高定期戦は、いわゆる親善試合という認識だった。
しかし、高高はそうではなかった雰囲気があった。
★綱引きも、1年、2年、3年。
□1年生の綱引きだと呼ばれて見てみると高高側は既に定位置について準備している。
なぜか高高側の馴れた感じが嫌な雰囲気を醸し出す。
それで言われて白い体育着の前高1年生がとってつけたように綱に取りついた。
開始と同時に前高の負け。
交代の時に2年生と交代しない高高のメンバーを見たら綱引き用にスパイクなどを履いていた。
□2年生の部になると前高は全員綱から離れて全員2年生と交代した。
その一方高高を見れば半分程度しか交代していなくて、最後尾は綱引き用に準備万端の体勢。
2年生の部はお約束なのか高高側が手を抜いたらしく、多少高高側に引かれたものの前高の「出来レース」のように前高の勝ち。
□3年生の部
前高は全員綱から離れて全員3年生と交代した。
その一方高高のひ弱そうな生徒が綱から離れ、1年の部に参加していたスパイクを履いているような人たちが戻ってきてガッチリと組む。
3年生は結構頑張ったものの最終的に高高に負け全体として2対1で高高の勝ち。
高高のお膳立ての上で何となく出来レースのようで終了。
この定期戦の結果は、部活の部分では前高が勝っていたものの、他の試合で完敗して全体としては高高の勝利。
前高高高定期戦が終わった時間、「秋の日はつるべ落とし」と言うように鬱蒼とした森からのぞく夕日がかなり傾いていた。
高高の校門前の未舗装路はたまにトラックが通る程度で閑散としていたところ、高高の生徒が校門を出て続々とバス停のある大通り方へ向かって帰って行く。
それに釣られて前高の生徒も道路にかなり出てきている。
この時どこからともなく小田君が現れ、校門近くの送迎バス待ちの前高集団の一員になった。
2台ぐらいバスが来ると「1年生からクラスに関係なくどれでもよいからバスに乗れ」という実行委員の指示が出た。
砂利道で砂ぼこりが舞うような高高前の車道に出て待っていた生徒が真っ先に1台目のバスに乗りすぐに出発した。
2台目のバスに我先に乗ろうとするとき、何となく嫌な感じになったことがあった。
それは校門から続々と高高生が帰って行く中で、校門近くで数人の高高の生徒がなぜかたむろしている。
その中の1人、高高の小柄な生徒が石の上に乗って何かを見ている。
単純にはバスを見ている風だが目つきが悪い。
校門の人混みの中から車道を渡ってバスに乗るところが勝負と考え、小田君に「帽子を被るか?」と誰かが帽子(前高の制帽)を渡した。
その帽子を深々と被って小田君が早歩きで道を渡り、あと数歩でバスの入り口にたどり着くこれで終わりだと思われた。
このとき目つきの悪い高高の生徒が全力で走ってきて、小田君に飛びついて帽子を引ったくった。
それを振り切って小田君はバスの中に逃れた。
その高高の生徒は、あっという間に高高の生徒の群れに紛れ込んでどこかへ行ってしまった。
たいした被害には逢わなかったものの、毛が数本抜けたと小田君は言っていた。
こんなことがあるなら友人達でガードすればよかったと今なら思う。
しかし、1年生でまだクラスのまとまりは全くない。
クラス全員の名前も覚えていないどころか顔もしっかり分からないこともあった。
その一方、高高の生徒は、本当に執念深く執拗であった。
バスは満員になったところで高高前のでこぼこした道をUターンして舗装の大通り(和田橋通り)に出た。
和田橋通りに出たバス停に高高の生徒が少し群がっている。
その時定期バスが来て、乗車するも行く方向が違うのかあまり乗っていない。
そのまま和田橋方面へバスが進むと高高生の黒い長蛇の列が続く。
何か異様な雰囲気だと思った。
和田橋を渡り始めるとそれははっきりして、高高生のほぼ全員が裸足で「セッタ」(ゴム草履)を履いていたことであった。
それはペタペタと音がするような雰囲気すら感じさせる。
そして、和田橋を渡りきったところのバス停に集まっていた。(現在バス停はナシ)
和田橋を過ぎるとバスは左折して当時新しくできた17号バイパスへ。
まだ交通量が少なく、日没になった道をバスのエンジン音が大きく響く。
みんな疲れて眠っているうちに前高についた。
******************
10月後半は2年生が「奈良京都の修学旅行」に行ったために教師も少なく、すぐに11月になった。
11月の最初の土日が前女(前橋女子高)の文化祭だった。
土曜日の下校時に自転車で小中学校同期の萩原君と一緒になった。
それで、帰り道に文化祭に寄っていこうと言うことになった。
前女の校門には「文化祭」の看板があるものの始まってすぐのためか案内はない。
本当に文化祭なとやっているのかという雰囲気の中、よく分からないので入れる昇降口から入った。
それでも何かあるのかと校舎内を見ていると、高女(高崎女子高)の生徒(実行委員?)が翌年開催する文化祭の参考にするための視察に来ていたらしい。
このとき、初めて高女の生徒を見た。
前女に行って、正面とは違う入り口から校舎に入ってしまったために結局迷った。
案内は正面にあるようなので聞いてみることにした。
そして、よく見ると前女の生徒はみんな帰り支度をして帰って行くところ。
この少なくなって行く生徒の中で、丁度来た女生徒に(一見どこかの御曹司のような風体の)萩原君が道を聞いた。
そのついでに萩原君が(よく見たら可愛かったので)「1年生?出身はどこ?」と聞いた。
「1年です、伊勢崎」
「え・伊勢崎???」
萩原君も絶句。
はっきり言って「範疇外」の女生徒であった。
前高もそうだが、前女約430人のうち200人前後が伊勢崎方面の出身。
200人弱が群馬大学附属中(附属)と1中、3中で大方占める。
前橋地域でも前女の生徒は、附属出身とその他というのは何となく分かる。
(正確には2年になってからで、この頃は出身中学の女子生徒の印象が強かった。
但し、ほとんどすれ違いでも逢ったことはない。)
特に「伊勢崎」出身というのは前橋地域と全く顔かたちが違う。
そして、「伊勢崎」というのは電車通学(現在JR)。
このときは全く「電車通学」の意味が分からなかった。
2年になって、伊勢崎の同級生に子細を教えてもらい愕然とした。
(この話は2年になったから)
単純に言えば、前女の「電車通学(伊勢崎方面)」の生徒は、同じく伊勢崎の前高生なら素性をよく知っていることだった。
この時代、進学校という前女でも四年制大学に進学する女子生徒は少数派だったと後に気がついている。
確かにこの当時、前女で国立大学に進学するには学年での成績で50番以内の順位が必要と言われていた。
前高では学年で100~150番以内。
今で思えば当時の1期校に進学した中学時代の2人クラスメイトの女子生徒は優秀すぎた。
ちなみにこの(一見どこかの御曹司のような風体で)長身の萩原君は、
中央大学法学部を卒業して、後年本当に「どこかの御曹司のような」立場になってしまった。
だから、最高級のレクサスを車検ごとに買うという身分になった。
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