多賀城碑 残照
日本三大古碑 多賀城碑 **********2003年03月22日
多賀城が神亀元年(724)大野朝臣東人によって建てられ、藤原恵美朝臣朝カリによって修復されたことを記念して建てられたと言うことが書かれています。
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多賀城碑 残照
按察使(あぜち)兼鎮守(ちんしゅ)将軍従四位上勲四等大野朝臣東人
多賀城が神亀元年(724)大野朝臣東人(おおのあそんあずまひと)によって建てられ、藤原恵美朝臣朝カリによって修復されたことを記念して建てられたと言うことが書かれています。
さて、この大野朝臣東人「按察使(あぜち)兼鎮守(ちんしゅ)将軍従四位
上勲四等大野朝臣東人」とは何人であろうか。
養老4年(720)9月に蝦夷が反乱を起こし按察使(陸奥国守を兼ねる)の上毛野広人(かみつけののひろひと)が殺され、この反乱は征夷将軍多治比県守(たじひのあがたもり)以下の大軍派遣により鎮圧されます。
この後大野朝臣東人は、神亀元年(724)2月に従五位下から従五位上に昇叙されます。
その位階は陸奥国守の官職に相当するためこの年陸奥国守に任命されたと思われます。
その翌年3月又蝦夷が反乱を起こし大判官を殺したため、朝廷は大将軍藤原馬合(うまかい)・副将軍高橋安麻呂(やすまろ)を派遣して平定します。
この功により、大野朝臣東人は従四位下勲四等に三階級特進しました。
その後、天平9年(737)大野朝臣東人は陸奥国から出羽柵への道路を通すため男勝村征圧に乗り出します。朝廷はこれを許可し兵部卿藤原麻呂を持節大使(天皇の名代の将軍)
に任じ騎兵1000人を向かわせます。東人はその一部を加え騎兵459人を含めた奥羽兵6
000人を動員しました。
天平11年(739)4月大野朝臣東人は、陸奥国按察使(あぜち)兼守鎮守府(ちんじゅふ)将軍大養徳守(やまとのかみ)従四位上勲四等となり参議になります。
即ち、前年天平10年12月藤原広嗣(ひろつぐ)が大養徳守から太宰少弐に左遷された後これを東人 は引き継ぎました。
又参議にもなったため、陸奥国守や鎮守府将軍は遥任として介(次官)や副将軍 に委ね事実上奥羽から手を引きます。
Webページ「 書・淡墨の世界」閉鎖のため転記。
2025/09/26
2003年03月22日
ここへ行くのに東北線に乗っていった。
「国府多賀城」という発音がなかなか聞き取れなかった。
関東では駅名というのは比較的ゆっくりと言うところ割合と早口で、「タガジョウ」という発音のIntonationが違う。
2003年03月22日
多賀城跡
多賀城の周辺は湿地帯であったという。
今も道路を見ると雨の時は道は「川になります」の様な表示があった。
国府多賀城駅の周囲の家を見ると全て50㌢以上地盤をあげてある。
第一駅は2階が入り口であった。
方々に岡のような小山があり森林がありで関東にはあまり見られない雰囲気ではある。
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