消え去った郷土歴史・閨閥の歴史

2017年5月14日 (日)

上野三碑(ユネスコ世界遺産登録をめざす)について考える。

Tago1



平成29年5月9日の地方紙に「三碑が語るもの-朝鮮半島に源流」という記事があった。



記事では、上野三碑と朝鮮半島とのことについては詳しく載っていない。

とはいえ歴史上絶対に無視できない「朝鮮半島には有名な広開土王碑(推定414年)」について言及している。

しかし、広開土王碑は、朝鮮半島ではなく中国吉林省で旧満州である。

その前段で見過ごせないのは以下のくだりである。

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「律令制や仏教--この頃の東アジアは中国大陸の唐が主導、朝鮮半島には唐と外交関係にあった新羅があった。日本は唐や新羅に使節を派遣し、律令制や漢字、仏教など『最先端』の政治体制や文化を積極的に取り入れた。」

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確かに660年百済が滅亡しその復興のために、663年「百済の都、州柔(つぬ)城」の陸戦や、663年に白村江で唐軍によって朝鮮半島から完全に撤退することになった。
それで新羅が唐王朝を背景に朝鮮半島を統一はした。


しかし、「日本は唐や新羅に使節を派遣し、律令制や漢字、仏教など『最先端』の政治体制や文化を積極的に取り入れた。」という文章はいかにも「律令制や漢字、仏教」が新羅を通して入ってきたように読めるしその意味だろう。
なぜなら続く文章で
「新羅の石碑は、山上碑や金沢碑のように自然石をそのまま使ったものが多い」次に「新羅の影響」の題字がある。


 

Ginza201715



これは日本の文化は、新羅などの「朝鮮半島の人民から、稲作をはじめとする様々な先進文化」(「日韓がタブーにする半島の歴史」室田克美著)を教えて貰ったという話に基づくのだろう。

稲作は、DNAから朝鮮半島経由ではないことが証明されているし、古事記、日本書紀、随書、三国史記(朝鮮半島の歴史書)にもそのようなことは書いていない。

先の広開土王碑に、書かれていることをわざと無視している。

「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民

〈そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説などもある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉」
(ウィキペディアより)

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年表を見てみると
*****************************

362年 新羅征討とあって、新羅が降伏している。

369年 南加羅、安羅、多羅、加羅、卓淳など7か国と周辺諸国を平定。

370年 百済が朝貢

438年 使持使 都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称すも詔して安東将軍・倭国王に除す。

451年 使持使 都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王に除す。

462年 安東将軍・倭国王に除す。

478年 使持使 都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に除す。 

479年 加羅国王荷知、南斉へ朝貢し高帝より輔国将軍・本国王の号をうける。

この様に見てみると4-5世紀の倭軍というのは強力な軍隊で、随書に見られるように「倭国に優れて品々が多いため、新羅も百済も倭国を敬仰し、常に使節が往来している。(前出)」とある。

新羅から先進文化がもたらせられているわけではない。
軍隊というのも文化が高い方が強いと言うのも常識である。
(日本書紀・任那には、10国・加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、卒麻国、古瑳国、子他国、散半下国、乞湌国、稔礼国)

512年任那4県を百済に割譲

513年任那 全羅南道4県に加え2県を百済に割譲したことに端を発して、任那の加羅諸国は倭国に反発

522年加羅諸国、新羅へ傾斜

527年~529年倭国の内政問題と失政のため任那劣勢となる。

列島国家というのは、英国の例を見ても分かるように大陸から駆逐されると言うのが常である。
任那の政策では、百済にかなり優遇して加羅諸国の要望を無視した結果で任那を失うことになる。
任那滅亡562年(日本書紀)

ここで確認しておくのは、新羅が唐に朝貢したのは
621,622、625、626、627、629、631、633年・・・と任那滅亡の後である。

又、572年敏達3年から「任那の調」が始まっている。

 

すなわち新羅が倭国に「任那の調」として朝貢して646年頃まで続いている。

 

これは、倭国が再三にわたって新羅討伐軍を派遣して任那復興を画策していた結果といえる。

この「調」とは「租庸調」の調であって、配下が納めなくてはならない税金である。
(知っていますか 任那日本府・大平裕著)

********************************
さて、ここで長々と書いてきたのだが、新聞に書かれている

「律令制や仏教--この頃の東アジアは中国大陸の唐が主導、朝鮮半島には唐と外交関係にあった新羅があった。日本は唐や新羅に使節を派遣し、律令制や漢字、仏教など『最先端』の政治体制や文化を積極的に取り入れた。」

とは大幅に違うことが分かる。

倭国は、370年に中国に朝貢し438年に「安東将軍・倭国王」の称号を得ている。

さらに、
451年には、都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王に。除す。

478年には、都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王の称号をえている。

百済は、487年南斉へ朝貢して「王候号」に除せられることを願うが避けられている。

607年遣唐使(小野妹子)

新羅は、649年に「唐の衣冠」を着ることになるが称号は与えられていない。

倭国は、607年に遣唐使を派遣しているのだが、新羅は621年に唐に朝貢しているのである。

そもそも倭国は、370年には朝貢をして称号を得ているから新羅から『最先端』の政治体制や文化が入るはずはない。

 

*****************************


なぜこんな風に歴史を書いてきたかというと、「上野三碑」は朝鮮半島との縁が深いと言われているからで、これを新羅との関係で語られると辻褄が合わなくなる。

そもそも古代新羅と現代韓国とは全く関係なく、韓国自体新羅を継承している訳でもない。
事実としては、古代から6世紀中版までは朝鮮半島の南半分は倭国又は倭国の勢力範囲だったということである。

その中心は九州にあり、任那滅亡によって居場所がなくなった人たちが群馬に住み着いたと言うのが本来であろう。

ここでは、直接上野三碑には触れないが、

726年に建てられた上野三碑の一つである「金井沢碑」には、物部牛足という人物が刻まれている。
物部氏とは、本来軍事と物流兵站を司る氏族でいかにも任那に関わったようにみえる。



多胡碑は、「羊」こと羌族(別名を羊族)の代表が、多胡郡を貰った記念碑と見て取ればこれも任那の軍事組織に関わる。
鍛冶屋という羌族の専門の組織で、当時のハイテク集団。
はっきり言えば、武器製造者である。



一つだけ違うのが「金井沢碑」、
三家氏という豪族が自分の家系を記したもので、三家氏の元に「他田君(おさだのきみ)目頬刀自(めづらとじ)」とあることである。
刀自とは、正妻で一族を束ねる立場であって、「大和政権」の中にも出てくる。

しかしよく見ると「他田君」の「君」という九州の政権特有も貴族の称号をもつ。

*******************************

以前に高崎で行われた上野三碑に関する講演会なとでは、この朝鮮半島のことに関して奥歯なものが挟まった様なもどかしいことが多く核心に迫っていない。

 

又、この「上野三碑」の碑文を中心としての論証は「日本語誕生の時代」熊倉浩靖著に詳しい。

ここで「日本語誕生の時代」にも「なぜ日本と新羅は統一国家になりえたのか」という不思議な章があって、言語の立場から論説している。

 

この著書で、多少前後で論理矛盾があるのは無視して、「新羅は統一国家になりえたのか」とい章があるものの歴史を見ると違和感がある。

 

この「日本語誕生の時代」では、広開土王碑、日本書紀、三国史記なども引き合いに出しているとは言え、広開土王碑の倭(日本)に関する部分は「議論が分かれる」として無視している。

議論?・・・それは韓国による異説でしかない。

上野三碑を見てゆく上で、4-5世紀の任那を考えないと無意味であると同時に「律令制や漢字、仏教など『最先端』の政治体制や文化」は新羅から伝わったという虚構を廃しないとさっぱり分からないものである

朝鮮半島南部には、日本特有の墓制である前方後円墳が14基発見されている。
その中の副葬品から倭人と思われる品々が出土していたという新聞記事を見たことがある。
文献だけでなく、実際の事実としての物証が出ていることを無視することは出来ない。


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2017_5_13




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2017年5月13日 (土)

壬申の乱の虚構性を検討する序章

Ginza201713


日本書紀に書かれている「壬申の乱」。

日本書紀というのは、天武天皇の正当性を中国の史書になぞらえて漢文で書かれたものである。

この天武天皇こと大海人皇子は、もともと皇位継承権がなかったという説がありその諡(おくりな)を見ても天智天皇とは雲泥の差がある。

「壬申の乱」については、その大海人皇子軍の行軍の記述が地図に照らすと全く合わないという著書を紹介したことがある。

それで「壬申の乱」について、詳細な時系列で検証している「日本書紀の虚構と史実」という著書を読んでみるとどう考えてもやはり辻褄が合わないところが多い。

単純な疑問は

●671年10月19日、天智天皇に背いて、大海人皇子が突然出家して吉野に向かったときに
「蘇我赤兄や中臣金といった重臣たちが宇治橋まで大海人を見送りにきた。彼らは機会を窺って大海人皇子を亡き者にしようと計画していたが、ついに果たせなかった。」

この部分はおかしい。
確かに重臣が途中まで送りにくるというのはある。
その場合当然のことながら護衛の軍勢がいるわけで、その後の歴史を見れば追っ手を差し向けて殺害している例は多い。
要するになぜ大海人皇子に手が出なかったのか、単純には大海人皇子を迎えに来た護衛がいたとしか思えない。

そうでなくとも吉野なら大友皇子側から吉野宮に軍勢を差し向けても不思議はない。


●672年5月、大海人皇子は吉野で戦争準備をするわけだが、本来少人数で吉野宮に行ったはずなのに多数の舎人を動かしている。
都から近い吉野では無理である。

●672年6月24日、吉野を40人程度の従者女官とともに出発。

6月26-7日、美濃において3,000の軍勢の動員に成功。

 

尾張の国司 小子部氏が20,000の軍勢を率いて大海人皇子に帰属。

これも不思議なことである。

この時点で大友皇子は、天智天皇崩御と供に動員令を出して数万の精鋭軍を招集し、将軍に山部王、蘇我果安などが指揮をする。
圧倒的な軍勢、軍団の前に国司が反逆すると言うのも不自然である。

しかも、大海人皇子は東国の蝦夷討伐軍である最強と言われた上野の軍まで投入している。

663年「百済の都、州柔(つぬ)城」の陸戦での敗戦によって、前将軍・上毛野君稚子(かみつけのきみ わかこ)が唐軍の捕虜(?)になっていたとは言え余力はあったであろう。

●大友軍の将軍、蘇我果安が山部王を内通の疑いで惨殺。

その後、蘇我果安も自害。
これも変な話。

●大友軍は、軍隊を増員出来ないのに大海人皇子軍は、東国の軍隊までも続々と動員して圧倒的な精鋭をもって完全に殲滅してしまうこれも解さない話。

その他、663年に白村江で唐軍(新羅軍はその武将)に完敗して、九州に都督府が置かれ約2,000の唐軍が駐屯していた(日本書紀)。

この「壬申の乱」以降になって、唐の捕虜になっていた主要な人物が返される。

その他多くの疑問があるのだが、いま読み込んでいるの最中で上野三碑の話が出てきてしまったのでもう少し整理して考えてみる。


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2017_5_13




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2017年1月 1日 (日)

ニューイヤー駅伝2017inぐんまを撮影

2017newy1


例年元旦の朝を彩る「ニューイヤー駅伝」事、「全日本実業団対抗駅伝競走大会」が群馬県前橋市の群馬県庁を起点として開催された。
これがいつから群馬で開催されたのかと調べてみたら「第32回1988年1月1日」と29年前。
以前は随分西の方で開催されていたようだ。
しかし、東京から近く関越高速だと前橋インターから直ぐに中心部に入れるから交通の便は良い。
しかし、毎年9時15分スタートとはいえ風が強くて結構冷えるのがいつもの通りである。
とはいえ、今年は多少暖かかった。
動画と写真の両方を取っている。

2017newy2


カメラメーカー: SONY
カメラモデル: ILCE-6000
レンズ: E PZ 18-105mm F4 G OSS
撮影日時: 2017-01-01 09:17:06 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 40mm (35mm 換算焦点距離: 60mm)
絞り値: ƒ/4.5
露出時間: 0.0031 秒 (1/320)
ISO 感度: 100
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)

昨年までは何のカメラを使ったのか思い出せないが、動画はSONY NEX-6だったかもしれない。静止画の方はなにだったかな??
この駅伝が群馬県庁に戻ってくるのが14時くらい。
このときの写真は、Nikon1J5を使っていたが今年はX30で中速度連写した。
こういうコンデジで連写が出来るようになったとは、時代も変わったものである。


2017newy3


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カメラメーカー: FUJIFILM
カメラモデル: X30
撮影日時: 2017-01-01 14:12:00 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 28.4mm
絞り値: ƒ/4.0
露出時間: 0.0025 秒 (1/400)
ISO 感度: 200
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)


ここ毎年こういう喧噪に包まれて元旦の朝を迎え、神様に初詣、お昼を食べてお寺へ御札をもらいに行くという例年の行事である。
前橋というのは寂れて行くと言われている景気の良くないところである。
そもそも為政者の戦後の市長が20年以上も続けこの辺から停滞が始まった。
その後に助役をしていた人が2代続き、その後合併した郡部出身の市長が市街地の空洞化をさらに進めた。
こういう何十年にも渉り、なにもしなかったので出遅れてしまった。
また今は観光地でもないのに、屋外広告の規制なども始めて前橋市内に金が落ちないのを推進している。
特に年明けに街を廻ってみると、建物があったところが空き地になっている。
これは年寄りが亡くなって跡継ぎは東京などに出ているから住む人もいない。
それで、相続も絡んで売却してしまうか場所が良いところだと駐車場になったりする。
今役所は、公共機関を使うことになっているから市役所周辺の駐車場はパートさんが利用していることが多い。
しかし、給料が安いから高いところは借りる人がいなくて、料金がダンピングされる。
こんなことで、前橋市の景気は良くならないわけだ。

2017newy7

カメラメーカー: FUJIFILM
カメラモデル: X30
撮影日時: 2017-01-01 14:21:48 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 7.1mm
絞り値: ƒ/4.0
露出時間: 0.0033 秒 (1/300)
ISO 感度: 200
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)

しかし、このニューイヤー駅伝なとがあると選手は宿泊するから多少お金が落ちる。
それがこちらに廻ってくれば良いが、そんなことはない。

そんなわけで前橋や群馬で商売が出来れば、全国どこへ行っても成り立つというものである。
思えばヤマダ電機は前橋、ビックカメラは高崎、J!NSも発祥は前橋だったよなと思う。
この年末年始、レビュー機が送られてきてまともに休めないというのは辛いところである。


詳しくはこちらを参照 icon

2016_12_29_2



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2016年11月20日 (日)

1か月早い忘年会・あの「高畑」ホテルで開催

Fujifilm_food100


平成28年11月19日(土)小学校時代の同窓会が開催された。
幹事のある先生(学校の先生ではない)が「ピーチの会」と名付けた小さな集まりは、クラス横断的な地域の集まりになっている。
だからその昔は、学校の周囲2-300mに住んでいた同窓生になる。
時は変わり元の場所には住んでいないというのは殆どで、東京から実家に一時立ち寄る口実になっていたりする。
同窓生の中には、小中高と同じクラスになっていない人もいるし、幼稚園と小中学だったりと様々。
それで二つに分かれた二次会では、小学校時代の裏話や思い出などを繰り出してゆく。
こういうときになると不思議なことに、記憶の箱に収まっていた蓋が開いて妙なことを思い出したりする。
小学校時代のアルバムを開いてみると、3つの中学に分かれたこともあってその後の痕跡が全く思い当たらない人も多い。

Fujifilm_food101


カメラメーカー: FUJIFILM
カメラモデル: X30
撮影日時: 2016-11-19  PM09:13:24
焦点距離: 7.1mm
絞り値: ƒ/2.0
露出時間: 0.067 秒 (1/15)
ISO 感度: 800
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: はい (オート, 赤目軽減, リターン検出)
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)

戦後のベビーブーマー直下の世代なので、上級生が卒業して55人クラスが45人クラスに編成替えとなった。
その4クラスから5クラスに編成替えになるときに、どの児童が元の組に残るかと言うことがあった。
そこで内々にクラス替えを申し出た人は、他のクラスに6年から移った児童もいた。
そんな昔のことがあっという間に浮かんでくるのだが、「やはりあの人は先生のお気に入りだったか」と思い出したりする。
今の時期になると、人生のある意味での成功者とそうでない人とはっきりと分かれる。
成功者が良い大学を出て、有名企業に就職してという意味ではないと言うところがミソである。
そしてその時の嫌われ者の先生に気に入られたその時優秀だった児童が、その成功者の内に余り入っていないと言うのもご愛敬である。

宴会は、先生の設定で「高畑」事件があったホテルでやったのだが、昔はしゃぶしゃぶなどをやっていたところであった。
今は居酒屋で、量が少ない、不味い高いと三拍子揃った二度と行かないような店だった。

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2016年10月10日 (月)

お祭りで忙しいときにSONYα6500が出た

20161


この3日間、7、8、9日とお祭りとその前夜祭でクタクタになってしまった。
山車を引くと言うこともやるのだが、最近はマンション住民が増えたから敢えてやる必要もなくなった。お祭りの寄付は5,000円、その昔の5,000円といまの5,000円とでは随分と感覚が違う。
しかし、5,000円の寄付をする人は班としては少なく子供がいる家庭と独居老人とでは全く違う。それでも5,000円を寄付しておけば祭りにはコソコソではなく、堂々(個人の気持ちで・・)と参加できるような気が起こるものである。
山車を引くと行っても、中心は小学生以下のお囃子である。所詮爺さんは、金さえ出せばどうでも良い存在というわけである。
実のところ自分としては、こういう山車でお囃子などをやったことがない。それは山車は戦争の空襲で焼けてしまっているから何もなかったと言う理由である。
前橋市も今や旧郡部も市になったから、ものすごい立派な山車が登場することもある。
歴史がなくなってしまったような都市というのは、哀れなものである。

20162

カメラメーカー: RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
カメラモデル: PENTAX K-3
撮影日時: 2016-10-09 14:28:32 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 85mm (35mm 換算焦点距離: 127mm)
絞り値: ƒ/5.6
露出時間: 0.0050 秒 (1/200)
ISO 感度: 200
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: 絞り優先 (セミオート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)

20165


20166


それで今年もいつもの通りマーチングパレードを2日間の午前と午後に4回撮影した。
8日は、晴れたので準備万端だったのは良かった。しかし、撮影場所に登場するまで15分~20分もかかるので待っているのが疲れてしまう。
9日の午前中は雨であった。なんでこういうときに雨が降るかなと思うところで、何とか曇りで開催されその分かなり遅れた。
午後は、少し遅れてしまい多少失敗。やはり予想通り早めに出発したようであった。
マーチングパレードの話は、動画編集の時にするとしていつも思うのは、この動画をマルチカムで撮影するのに画像の色合いなどが違ってしまうことが多い。
それでSONYかPanasonicのカメラに統一するかと考え、SONYα6300でも欲しいかなと思っていた。
とはいうものの10万円を越すカメラをおいそれと買うわけに行かない。
買ってみてもテレビに映してみるには良いとしても動画編集には向かないと言うこともある。
実際には、SONYα7 (α7 ILCE)を持っていて動画も撮っていた。ところが動画編集が重いのと、映像が圧縮されるためにあまり綺麗ではなかったので止めてしまっている。
それでSONYα6300はどうか、α6300というのはどうも妙なカメラではあった。
SONYα6000のプラボディがマグネシュウム合金になり、数々の細かい点が改善されたというものの値段が倍というのは頷けない。
それがSONYα6500になって、5軸ボディ内手振れ補正、タッチパネルなどが追加されて漸く他社のカメラ並になった。
価格コムでは、SONYα6500のブリッジ版がα6300だと言われている。
それにしても無理してSONYα6300などを買わなくて良かったと思った。
事実前橋のヤマダ電機では、展示品さえなかったのだから売れない商品だったのだろうと想像できる。

20163


20164

カメラメーカー: RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
カメラモデル: PENTAX K-3
撮影日時: 2016-10-09 15:01:35 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 75mm (35mm 換算焦点距離: 112mm)
絞り値: ƒ/5.6
露出時間: 0.0050 秒 (1/200)
ISO 感度: 200
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: 絞り優先 (セミオート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)


それで多分SONYα6500が発売されると大量のα6300が中古市場に流れると予想される。
現に富士フイルムのX-T1の中古品が今満載である。
60,000円前後で新同品と言うが77,000円程度で新品がまだ買える。
色々と考え物である。
しかし、こういうカメラなどを買うのは勢いというもので、迷っているうちはまず買うことは無理である。
それで新しいカメラと今持っているカメラと比べてみて、過剰な仕様になっていると思う。一台のカメラで何でもしようと思うから過剰になる。
そうかといって、中古で一世代前のカメラを買ってもいずれ何か飽き足らなくなるのではないかというのが恐ろしいことである。

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2016年5月 8日 (日)

「桃井小学校校舎お別れ見学会」に参加する

Mknoi6


昭和36年に改築された「前橋市立桃井小学校」の鉄筋校舎が、耐震性の問題や中央小学校(廃校)との統合に伴い解体されることになった。
前橋市立桃井小学校の名称が残るのは、群馬県で最初に出来た小学校でもあるからである。
廃校になった前橋市立中央小学校の方は、2-3月頃に「羽ばたき会」と称してお別れ会をしたらしい。

Mknoi2


Mknoi3


解体される校舎は、改築記念碑(昭和37年8月1日)によれば

**********************************
面積3785.90平方メートル
工事費 5,888万円
起工 昭和35年10月22日
完工 昭和36年9月15日
**********************************

Mknoi4

カメラメーカー: Panasonic
カメラモデル: DMC-LX100
撮影日時: 2016-05-07 14:31:06 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 18.6mm (35mm 換算焦点距離: 41mm)
絞り値: ƒ/3.2
露出時間: 0.0080 秒 (1/125)
ISO 感度: 200
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)


Mknoi5

実を言えば、小学校4年の秋に完成したこの校舎で2年半を過ごしている。
4-5年の時は、51人程度のクラスでもあり、しかもできたばかりなのでワックス掛けをさせられたり管理が非常にうるさかった。
団塊の世代というベビーブーマーが卒業して、教室が余ったので6年は5クラス編成になった。
クラスの人数が減ったので4-5年の時の圧迫感から解放されたものの、新たな第一歩を感じる小学校時代。
最後1年は、はみ出しの「嫌われ者のクラス????」の5組だった。
そんなことで、余り良い思いでは残っていない。
それどころか、嫌な思い出や、今で思えば多くの失敗の思い出ばかりが残る。

Mknoi1

カメラメーカー: Panasonic
カメラモデル: DMC-LX100
撮影日時: 2016-05-07 14:24:38 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 12.5mm (35mm 換算焦点距離: 28mm)
絞り値: ƒ/4.5
露出時間: 0.0080 秒 (1/125)
ISO 感度: 200
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)

広い校庭に突き出した職員室からは、今と違って校庭が全て見渡せた。
それこそ何か悪いことでもしていれば一目瞭然だった。
それが、その後の少子化で校庭の西に保育園が移ってきてしまったり、テニスコートだったところに体育館ができていたりする。
だから、卒業写真に残っている他の校舎は既になく、西に広がっていた校庭も校舎があった東に広がる別の風景になっている。
要するに小学校を卒業した時の面影は余り残っていない。

Mknoi8

カメラメーカー: FUJIFILM
カメラモデル: X-A1
レンズ: XC16-50mmF3.5-5.6 OIS
撮影日時: 2016-05-07 15:53:04 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 16mm (35mm 換算焦点距離: 24mm)
絞り値: ƒ/5.6
露出時間: 0.0024 秒 (1/420)
ISO 感度: 200
露出補正値: +0.33 EV
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)

この見学会には、他の年代グーループとして20-30人集まっているところもあるようだ。
しかし、一番高齢なのが我々か?
・・・・・・と言うことで、この機会を利用して簡単な同窓会をしようという話があり、見学会、ホテルでの宴会と合わせて延べ13人が参加した。
当時の学年全体では200人以上の卒業生がいたのだが、今と違って学区や進学した中学も違うと言うこともあった。
それで集まったのは、東京から駆けつけた数人を含み皆同じ中学に進学した第一中学校の同窓生で、第三中学校や附属中学に進学した同窓生はいなかった。
第一中学校の方はここ何年かで全体同窓会をしているので、ある意味顔見知りで集まりやすかったと言う理由もある。
それで色々昔の話になると中学校時代の話も混じったりするのだが、今ここにいないのは中央小学校だったり、城南小学校出身者だったりする。
出身小学校によって、当時は多少地域差というものがあり現在でも多少その影響はあるように思える。
それで小学校時代の卒業アルバムを見てみると、思いの外消息も分からない人が多い。
自分の歴史もそろそろ忘却の彼方へ去って行くのかといろいろと考えさせるものである。


Mknoi9

カメラメーカー: FUJIFILM
カメラモデル: X-A1
レンズ: XC16-50mmF3.5-5.6 OIS
撮影日時: 2016-05-07 15:53:11 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 50mm (35mm 換算焦点距離: 75mm)
絞り値: ƒ/6.4
露出時間: 0.0025 秒 (1/400)
ISO 感度: 200
露出補正値: +0.33 EV
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)

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2015年10月12日 (月)

第67回前橋まつり・開催される・天候不良

20151


平成27年10月10日~11日、前橋まつり(群馬県前橋市)が開催された。
前橋まつりは、前橋市の三大祭りの一つである秋祭りである。

しかし、地方紙の上毛新聞ではほとんど取り上げられていないというのはこの時期イベントが多いからなのかもしれない。
今年は、余り天候に恵まれず10日の夕刻から曇り11日の午前11時頃まで雨が降った。しかし、鼓笛吹奏楽パレード(小学生マーチングバンド)の時は、雨が止んで普通に開催された。

20154

カメラメーカー: SONY
カメラモデル: NEX-6
レンズ: E PZ 18-105mm F4 G OSS
撮影日時: 2015-10-10 11:13:22 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 77mm (35mm 換算焦点距離: 115mm)
絞り値: ƒ/4.0
露出時間: 0.0080 秒 (1/125)
ISO 感度: 100
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7 (Windows)

・・・この鼓笛吹奏楽パレードの全映像は、編集してYouTubeにアップロードする予定。11日の夕方からは晴れてきて、本日12日は晴天である。
それなので動画が何となくくすんでしまっている。
しかし、ほぼ無風状態だったので音は何とか採れた感じはある。

こういう山車を引くと言うことも今は様変わりしている。
前橋は、前橋大空襲で街の中心部が焼けてしまっているので古い由緒ある山車は旧郡部にしかない。(但し県庁周辺などは、ほとんど焼け残っている。)
だから高崎市の山車の方が何倍も立派なものが多い。

20158


20157

カメラメーカー: RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
カメラモデル: PENTAX K-3
撮影日時: 2015-10-11 15:10:11 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 29mm (35mm 換算焦点距離: 43mm)
絞り値: ƒ/4.0
露出時間: 0.0016 秒 (1/640)
ISO 感度: 200
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: 絞り優先 (セミオート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7 (Windows)

とはいうものの町内の祭りに参加するとハッキリ言って、若い人達で名前を知っている人がほとんどいない。

山車は小学生以下の子どもが太鼓をたたいたりする。
街の中心部は空洞化して、うちの子どもが小学生の時は「育成会(子供会)」という町内組織が消滅していた。
その後マンションができて増えそうだったが、子供がいる世代が入居しなかったりして増えなかった。
それが数年前に新しいマンションができてあっと言うのに大人数に。
だから、こういうお祭りに行っても知らない人ばかりだったりするのである。
もともと小学生以下の子どもがいない家庭からは、町内の役員か組長にでもなっていない限り出で来ることはない。
だから世代交代と言うわけだ。

20155

カメラメーカー: RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
カメラモデル: PENTAX K-3
撮影日時: 2015-10-10 17:25:23 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 18mm (35mm 換算焦点距離: 27mm)
絞り値: ƒ/4.5
露出時間: 0.077 秒 (1/13)
ISO 感度: 1600
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: 絞り優先 (セミオート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7 (Windows)

20156


カメラメーカー: RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
カメラモデル: PENTAX K-3
撮影日時: 2015-10-10 17:36:24 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 20mm (35mm 換算焦点距離: 30mm)
絞り値: ƒ/5.0
露出時間: 0.800 秒
ISO 感度: 1600
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: 絞り優先 (セミオート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7 (Windows)


これから後10数年もすると、この子ども世代が中高生以上になって、また子供がいなくなってしまう。
こういうことの繰り返しというのは、昔ながらの団地のようである。


20152

カメラメーカー: SONY
カメラモデル: ILCE-7
レンズ: FE 28-70mm F3.5-5.6 OSS
撮影日時: 2015-10-11 14:51:20 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 28mm (35mm 換算焦点距離: 28mm)
絞り値: ƒ/8.0
露出時間: 0.0080 秒 (1/125)
ISO 感度: 200
露出補正値: +0.70 EV
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7 (Windows)


20153

カメラメーカー: SONY
カメラモデル: ILCE-7
レンズ: FE 28-70mm F3.5-5.6 OSS
撮影日時: 2015-10-11 15:43:15 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 67mm (35mm 換算焦点距離: 67mm)
絞り値: ƒ/8.0
露出時間: 0.0080 秒 (1/125)
ISO 感度: 200
露出補正値: +0.70 EV
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: はい (オート, リターン検出)
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7 (Windows)

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2015年8月 9日 (日)

神風特攻隊記事・空母バンカーヒルを大破させた戦果

Book1


8月になると未だに70年前の記事が出て来たりする。
2015/08/08の読売新聞地方版には、特攻隊で戦死した高崎(旧碓氷郡、八幡村)出身の小川清少尉(特進で大尉)の記事が載っていた。
端的に言うと遺品が米国から戻ってきたという記事なのだが、実は2001年の話である。
この小川清少尉と昭和隊第3小隊長の安則盛三(中尉?)は、1945年5月11日「菊水6号作戦」で沖縄侵攻中の米国の最新正式空母バンカーヒルを大破させた戦果。
これは、特攻末期の戦果としては最大級のものであった。
その戦闘状況がかなり良く分かっているので、ある意味有名なことで、実際「特攻」という700ページくらいある著書に詳しい。
この遺品は、バンカーヒル乗員の一人ロバート・ショックによって保管されたらしいことも著書にある。(日本語版p395・第23章敵空母 見ユ、その他)
実は詳細な記事も後半に掲載されている。

この新聞記事を見ると後半妙な記述がある。
この部分はあとで述べることにして概略を説明しよう。

Pc0051


時は米軍が沖縄戦でこの空母バンカーヒル、エンタープライズから攻撃隊を出撃させていた。
沖縄周辺では「海上レーダーサイト」と言ってレーダーを搭載した駆逐艦を、ぐるりと配置して日本軍機を警戒していた。
従って、米海軍を攻撃するためにはこのレーダーを持った駆逐艦を破壊しないと全く近づけない状態であった。
夜間攻撃でもレーダー搭載の夜間戦闘機が存在したために偵察機さえ近づけない状況であった。
その間この空母バンカーヒルからは、地上部隊支援のためにアベンジャー(TBF雷撃機・小型爆弾・ロケット弾・ナパーム弾を翼下に搭載)が常時発艦していた。
戦艦「大和」(1945年4月7日沈没)、「武蔵」や空母「瑞鶴」を撃沈するなどの日本艦隊に甚大な損害を与えた疫病神の雷撃機であった。
実際に戦艦「大和」への攻撃には、この空母バンカーヒルからのアベンジャー雷撃機が大挙参加している。

この戦艦「大和」への攻撃では、大和他軽巡洋艦一隻、駆逐艦四隻が撃沈され、米国側は、航空機10機、搭乗員12名だけだったという。
その後日本の「菊水1号作戦」が発令され、空母バンカーヒルに殺到するのだが40機の特攻機が撃墜されている。

***************************************
「菊水6号作戦」昭和隊第3小隊
***************************************

1945年5月11日午前6時45分頃鹿屋基地を発進。(全9小隊)
昭和隊第3小隊・指揮官・安則盛三
一番機(101)安則盛三(師範学校・満州)
三番機(33)小川清(早稲田)
二、四番機・石崎健三(立教)、篠原惟則(立教)

琉球諸島沿いを飛行し、午前8時過ぎに沖永良部島上空。
レーダーピケット駆逐艦を探して、進路を南へ。
その一方、沖縄南方の空母バンカーヒルでは、攻撃機の収納と次の沖縄攻撃準備に余念がない。
バンカーヒルの飛行甲板には、整備済みの攻撃機が所狭しと並べられていた。
その艦載機には、30口径、50口径の銃弾や爆弾、ナパーム弾が搭載され、燃料は満載。

上空には、空母群護衛の戦闘空中哨戒(CAP)の艦載機が飛行していて、特攻機と見ると撃墜したりしていた。実際沖縄付近上空で一式陸攻とそれに積まれた桜花をその日に撃墜していた。

これら攻撃機は、燃料不足のために空母バンカーヒルに帰還。
バンカーヒルでは、次の攻撃機の発艦準備中で着艦の余地が出るまで、その他の偵察機などもバンカーヒルへ着艦するために上空で旋回しながら待つと言う状況であった。

午前10時の時点でも約20機が上空を旋回中である。
その直後3機の特攻機が雲間から現れ、3時の方角から150m間隔で連なってバンカーヒルへ向かってくる。


********************************
一番機(101)安則盛三
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10時2分、上空旋回中の米攻撃機(CAP)が2キロ先で急降下を続けている特攻機を発見。
米攻撃機がバンカーヒルへ警告をする間に安則盛三一番機が爆弾を投下。

投下された500Kg爆弾は、飛行甲板を貫き、第3エレベーターよりわずか後方の地点を貫通、格納庫の天井を突き破り左舷測壁に穴をあけ、バンカーヒルから6mほど離れた海上で爆発した。
爆弾の破片は、格納庫に飛散し格納庫内の航空機燃料タンクが誘発。

安則盛三の零戦52型機は、機銃掃射をしながら急降下から緩降下に移り、着艦するような体制で甲板上の航空機に激突。
混み合った飛行甲板は炎上し、安則機は飛行甲板を一掃すると共に炎上する1機のコルセア機と共に海中に落下。


******************************
三番機(33)小川清
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小川機は、バンカーヒルの後方で急旋回し約70度の角度でバンカーヒルの中央に突入した。
突入の途中、左翼先端に40mm機関砲の直撃を受けかなり吹き飛んだが翼はそのままだった。激突の直前炎に包まれたが、そのまま激突。
小川機自体の激突による被害はそれほど大きくなかった。
その零戦の突入に先駆けて500kg爆弾を投下。
バンカーヒルの甲板で最も脆弱な場所、アイランドと飛行甲板の交点に投下された。
小川の爆弾は、直径15m程度、深さで言えば三階層にも及ぶ部分を破壊した。飛行甲板には巨大な穴が空いた、


********************************
その他の特攻機
********************************

小川の突入があった30分後、右舷側を高速で低空飛行している。
零戦は、バンカーヒルの飛行甲板より低い位置に向かって突進。
全艦(約10隻程度の艦)がこの零戦に向かって一斉射撃。
曳光弾が命中を示す火花を散らし、20mm機銃による攻撃で搭載の爆弾が爆発。
これはバンカーヒルにダメージを与えることなく撃墜された。

*****************************
5月14日26機の特攻機が艦隊に接近。
その内19機がCAP機(Combat air patrol・戦闘空中哨戒)に撃墜。
6機が対空砲火で撃墜されたものの富安俊助中尉の1機だけ突入に成功。
空母エンタープライズの全部エレベーター付近に突入して、甲板をねじ曲げ空母の艦載機が全て破壊されて戦線離脱。

ドキュメンタリーの「特攻」に書かれている記述によると
特攻で17隻の艦船が沈み、198隻が損傷した。そして、空母エンタープライズ、イントレピット、バンカーヒルのように損傷を受けた艦船の多くは二度と戦場に戻らなかった。

米国の戦略爆撃調査報告書では、
1945年4月6日~6月22日の78日間に、日本軍の特攻によって艦船26隻が沈み、164隻が損傷したと記録されている。
全期間を通じた被害は、空母36隻(内正規空母16隻)を含む288隻に及び、34隻が沈没した。

Pc0061


********************************
新聞記事でおかしな点は、「清さんのゼロ戦に搭載された爆弾が不発弾だった可能性が考えられる。」という部分。

史実としては、「特攻」で述べられているとおり500kg爆弾は不発弾ではなく大穴を開けている。

どうも特攻機というのは、爆弾を積んだまま空母などに突撃するとでも思っているのだろうか。
信管の先端には風車が取り付けられていて、爆弾が投下されるとこの風車が風圧を受けて回転し、安全装置が解除される仕組み」と調べると書かれている。

従って、爆弾は投下されないと不発弾になる可能性が高い。

そもそも特攻機は撃墜される可能性がある、しかし投下された爆弾を撃墜すると言うことはあり得ない。
小川清機は、爆弾を投下後に突っ込んだのであって、激突死はしているもののバラバラに吹き飛んでいるわけではない。

記事を書く人も少しは、当時の武器の性能ぐらい知ってほしいものである。
そして、特攻は実はかなり戦果を上げていて海軍とすれは戦艦大和一隻の乗員より多い程度の犠牲者だった。
世の中で思われている「特攻攻撃は戦果があがらなかった」という常識とは随分と違うものである。


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2014年8月29日 (金)

日本の歴史の闇を解く・古代・近世戦国時代を中心にして・序

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日本の歴史の内でよく分からない、つじつまの合わない歴史というのは数多く存在している。古代という分野で見ると672年の壬申の乱という大海人皇子(天武天皇)の政変がよく分からない。
そして、この天武天皇系は、48代称徳天皇(女帝)で断絶し、天智天皇系のかなり遠い縁者である光仁天皇(49代)で、元の天智天皇系に戻るという不思議なことが行われている。
そのほかに聖徳太子がなぜ天皇になれなかったのかということ。
これも諸説あって一概に断定できないが、多分「天皇になれない理由」というのがあるのではないかと考える。
実を言えば、推古天皇、聖徳太子の時代は563年(欽明23)に朝鮮半島の任那が滅んで・・・(日本書紀・任那には、10国・加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、卒麻国、古瑳国、子他国、散半下国、乞湌国、稔礼国を含む・「知っていますか・任那日本府」を参照)、・・・その復興とそれに絡む戦乱が絶えなかった時代である。
新羅による「任那の調」という朝貢が大和朝廷(倭国)に対して行われる(日本書紀)ものの、旧任那10カ国との間に新羅との戦乱が663年の「白村江の戦い」まで続くことになる。
そして、その時代は天智天皇の時代になり壬申の乱に繋がるというわけである。

 

こういう風に任那日本府との絡みを見てみると、出雲大社で見るとおり、倭国は東進して出雲を攻略し大和朝廷になったとき元の九州に倭国の政権をそのまま残したと考えざる終えない。
要するに九州政権説である。
この九州政権というのは、主に朝鮮半島政策が中心で軍事政策を担当した物部氏などが活躍している。
ウィキペディアには、こんな記述がある。
「用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、用明2年4月乙巳朔癸丑(4月9日)(587年5月21日)に崩御した後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。」これで大和朝廷側の物部氏は衰退するのであろう。

 

********************
上野三碑との関わり
********************

 

しかし、726年に建てられた上野三碑の一つである「金井沢碑」には、物部君牛足という人物が刻まれていていわゆる「九州政権」との繋がりを濃くしている。

 

この問題は、以前に多胡碑のところで多少書いているのだが、金井沢碑も任那との関わりを持っていることが想定される。
※多胡碑は、任那の軍事組織であった鍛冶屋の「羊」こと羌族(別名を羊族)の代表が、多胡郡を貰った記念碑である。
元々、石碑という文化は、日本にはなく任那などの朝鮮半島に由来すると思われる。
しかしながら、島国国家というのは英国がフランス、オランダ当たりのヨーロッパ大陸から追い出されたのと同じように、古代大和政権も半島から撤退している。

 

そこで、その任那日本府に関わる人達が、蝦夷討伐で荒れる関東という地に配置されたというのはおおよそ想像がつく。
その蝦夷討伐軍の中心人物が上毛野君氏である。
この上毛野君稚子は白村江の戦いの陸戦で、主力軍の前軍の司令官として従軍している。

 

ここで気がつくのは、○○君という「君」の名称で、皇族又は皇族に準じる物部氏などの大豪族に付けられるものでいわゆる「九州政権」に絡む呼称ではないかと想像している。

 

このことは、「金井沢碑」というのが三家氏という豪族が自分の家系を記したもので、三家氏の元に「他田君(おさだのきみ)目頬刀自(めづらとじ)」とあることである。
刀自とは、正妻で一族を束ねる立場であって、「大和政権」の中にも出てくる。
ものの本によれば、蝦夷討伐に臆した上毛野君氏を正妻である刀自が奮い立たせたという話もある。

 

ここでやはり、他田君とあって三家君でないことに注目したい。

 

三家氏は、皇族又は皇族に準じる他田君から正妻を貰ってこの地を支配したということである。

 

******************************
日本の歴史の闇を解く戦国時代
******************************

日本の歴史の闇を解く戦国時代に関しては、関ヶ原の戦いの直前に武田の遺臣に人気が出て多くの武将が召し抱えたという理由。
特に井伊直政は、武田の遺臣を多く召し抱えて武田の「赤備え」に似せた「井伊の赤備え」を創設したことはよく知られている。
このことが実は、豊臣秀吉の小田原城攻めの一環である忍城攻防戦(現・埼玉県行田市・大将・石田三成)の結果であったというのとは、以前に述べた。
要するにその武田の遺臣とは、小宮山弾正介麾下の小宮山軍(成田氏・戸塚城)である。
(小説・のぼうの城 など)
このときに持田口攻防戦で、真田幸村が小宮源左衛門忠昌(弾正介の嫡子)の「持田丸」守備隊によって大惨敗する。
これが大坂冬の陣の武田式用兵の真田丸に繋がる。

 


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2014年7月11日 (金)

第64回前橋七夕まつり始まる

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前橋市の三大祭りの一つの七夕祭りが平成26年7月10日から始まった。
10日、11日は、台風のために飾り付けが中止されたり、イベントが中止されたりした。
しかし、11日は台風一過で風は強いものの晴天。
メインのイベントは、12-13日なので詳細は後日となる。
こんなことで今日11日は、七夕飾りは何となく簡素で、のために高校生が目立つ程度だった。

2014tanabata7

カメラメーカー: FUJIFILM
カメラモデル: X-A1
レンズ: XC16-50mmF3.5-5.6 OIS
撮影日時: 2014-07-11
焦点距離: 16mm (35mm 換算焦点距離: 24mm)
絞り値: f/5.6
露出時間: 0.0048 秒 (1/210)
ISO 感度: 400
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.5 (Windows)

2014tanabata8

2014tanabata9
カメラメーカー: FUJIFILM
カメラモデル: X-A1
レンズ: XC16-50mmF3.5-5.6 OIS
撮影日時: 2014-07-11
焦点距離: 16mm (35mm 換算焦点距離: 24mm)
絞り値: f/5.6
露出時間: 0.0024 秒 (1/420)
ISO 感度: 400
露出補正値: +0.33 EV
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.5 (Windows)

2014tanabata4

2014tanabata5

2014tanabata6

2014tanabata1

カメラメーカー: FUJIFILM
カメラモデル: X-A1
レンズ: XC16-50mmF3.5-5.6 OIS
撮影日時: 2014-07-11
焦点距離: 21.1mm (35mm 換算焦点距離: 32mm)
絞り値: f/5.6
露出時間: 0.0042 秒 (1/240)
ISO 感度: 400
露出補正値: +0.67 EV
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.5 (Windows)

2014tanabata2

カメラメーカー: FUJIFILM
カメラモデル: X-A1
レンズ: XC16-50mmF3.5-5.6 OIS
撮影日時: 2014-07-11
焦点距離: 21.1mm (35mm 換算焦点距離: 32mm)
絞り値: f/5.6
露出時間: 0.0063 秒 (1/160)
ISO 感度: 400
露出補正値: +0.33 EV
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.5 (Windows)


デル株式会社

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