消え去った郷土歴史・閨閥の歴史

2018年8月16日 (木)

お盆明け・でもうちは15日に送った

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8月16日はお盆明けで、普通は16日の夕方にお寺に行く。

しかし、以前書いたように我が家は15日に送る習わしになっている。

それで何か特別のことがあるのかというと何もないから16日でもよいと思うもののそういう習慣である。

16日は、昼過ぎから猛烈な雷雨があったので実は15日で今年は良かったという感じもある。



母が埼玉県からお嫁に来て、どうなのかと思ったら実家と同じだったという。

実は、親戚もそういうところが多くて何かの風習なのかもしれない。

その理由を大昔に母に聞いたことがある。

しかし、個人的な考えとして実例を挙げたのみだった。



昔のことと言えば、自分が生まれる前のことで母の昔話に登場する人物に不明なことがある。

その時には当然亡くなっているけれど。

その人物の存在が突然消えていて、整合性がとれないことがあった。



その話が50年以上経った法事で従姉妹から昔話として聞かされて納得がいった。

母の昔話に出てきていた人物は、戦争中に母の実家に疎開していてというか親戚中がその家に住んでいた。

終戦間際に従兄弟2人が危ないから駄目だという家の前の堀で泳いでいたという。

その中に兄がいたかと考えていたら、昭和20年生まれだからまだ1歳にもなっていないし、母の実家にいたかどうかも分からない。

実家とは、周りに堀を巡らし西北には迷路となっている竹林がある3,000坪もある一種の野城のようなもの。

結果として赤痢になったのだそうだ。

そこで、体力の劣っていた年寄りが亡くなり従兄弟などの子供は何ともなかったという。

だからそこで亡くなってしまったから突然消えたわけである。




その他、妙なことは自分が生まれる直前ことで親戚から言われたことがあった。

それはたわいのないことで、母のお腹に小生がいたときに母は悪阻が相当酷かったと言う話。
そんなことは、生まれて母から一度も聞いたことがない。

「生まれたときは、苦労せずに簡単に生まれたよ」という話だけ。


ほんと 何だそれは・・・である。



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2018年8月15日 (水)

平成30年度・前橋市戦没者追悼式・戦後73年

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8月15日は終戦記念日で例年のとおり「前橋市戦没者追悼式」があった。

戦没者の遺族一員になっているから一般には父親か兄弟かである。


しかし、戦没者の兄弟だとそろそろ鬼籍に入っている人も多く、父親だったら戦後生まれの小生は生まれていない。

その戦没者とは、父親の双子の兄(大正3年生)である。


それも日華事変か日支事変の頃の戦死だったと聞いていて、詳しくは調べていない。

伯父は、旧制前橋中学(県立前橋高校)を卒業して、早くに招集された。


その一方、父は旧制前橋商業(県立前橋商業)を卒業して、高等学校として旧制明治学院(明治学院大学)。


そして立教大学を卒業した。

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父になぜ旧制前橋中学に進学しなかったのかと聞くと、小さい頃から「双子」「双子」と散々いじめられたので中学に行ってまでいじめられるのが嫌だったからという。

二卵性双生児で、余り伯父とは顔が似ていないが双子には相違ない。

それで父は明治学院(現在・明治学院大学)の頃か不明だが肋膜炎(胸膜炎)になった。



正確には「結核菌による胸膜炎」らしいのだが詳しくは知らない。

それでその頃の手術は、肋骨を切り取って肺の患部を押しつぶすと言うようなものだったらしい。


胸に大きな傷跡が残っていた。

この胸膜炎の痕は、延々と健康診断にかかって精密検査を晩年余儀なくされたようだが、問題はなかった。

伯父の方は、なぜ大学進学しなかったのかは全く情報がないので分からない。



当時の常識で、旧制中学から旧制高校を経て大学などに行く人は希だったことは間違いない。

しかし、その結果は戦後まで生き残るか戦死してしまうかの境目だったかもしれない。



それでも父は、昭和19年2月高崎15連隊に召集されて、パラオのペリリュー島守備隊に配属される予定だった。

このペリリュー島守備隊とは、玉砕したところで父共に召集された召集兵で生き残ったのは3人だと言っていた。

生き残ったのは、「胸に大きな傷跡」があったのと同時にレントゲンで陰があったからで、ペリリュー島守備隊に配属されなかった。

その後にそれでも輸送船に乗って、東京湾を出るところで「サイパン陥落」の報で輸送船が引き返したり、英語ができたので終戦に備えて、広島の原爆投下1週間前に横浜に転勤になったりして生き延びた。

これも立教大学を卒業していた数少ない兵隊だったという理由である。

今から思えば、当時の大学を出たか出ないかで生死を分けたのではないかと思っている。

それで除隊時には、上等兵(ポツダム)になっていた。



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2018年4月 2日 (月)

春夏秋冬・四季を感じなくなった寂しい日々

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4月になった。

4月1日のエイプリルフールなどというのは、午後になって気がついたぐらいで、もうそう言う事柄を気にしなくなった。

そして3月31日までの喧噪から一転して静かになったし夕方、道もそれほど混まなくなった。

実を言うと「あれ4月になっちゃった」と言う印象が強いのだが、4月になったからと言ってYahoo!の期間限定5ポイントが消失するくらいである。

楽天ポイントならガソリンを31日入れに行って、期間限定ポイントも全て使えたから無駄はなかった。
こんな細かいことをやっているのも不景気のせいである。

お笑い芸人 鉄拳のパラパラ漫画ではないが、自分は変わらないつもりでも周りが勝手に動いてゆく。
それで鏡をよく見てみれば年相応に頭が白くなり、歳をとっている。

他人もそんなふうに見ているのかは分からないが、書道界だけはいつも変わらないしいつものメンバーがそろう。
不思議なことに書道をやっている先生というのは余り歳をとらない。

それは10年も会っていなくて、突然会えば年齢を感じることもあるものの実はそうとも言えないこともある。
この辺のところがいろいろと難しい。

いずれにせよ、見た目とは関係なく歳をとれば疲れやすくなるし頑張りも聞かなくなる。

医者からの脅しもあって、ウカウカしていられないというのが今である。

その昔、母が自分の年老いた母(祖母)の手をみていたことを思い出して、自分も同じような「よぼよぼ」の手になるのだな、と考え深く言ったことを思い出す。

その母を送ってもう19年目、兄を送って54年目。
何か随分と遠くの未知の世界へ来てしまった感が強い。

ライトノベルの異世界ものではあるまいし、そんな仮想現実というものでもない。

とにかく季節を感じなくなってきたというのも慣れ親しんだ自然が徐々になくなってしまったと言うことに尽きる。

小さいときから走り回った庭には、春には花(桃の花)が咲き、松葉ボタンという小さな草花を楽しんだり、4~5月はサツキが満開で大昔には新聞社が写真を撮りに来たこともあった。

それからあじさいと花菖蒲の時期になり、夏には枯山水みたいなものがあった庭にトカゲが湧いていた。

蝉の声、それが蜩(ひぐらし)となってトンボが飛び、秋が来る。

その秋には柿、びわなどがなった。

紅葉、そして冬。
1年か終わる。

しかし、今はその全てがない。

多少子供の頃の面影を残していた近くの木々も伐採されて周囲に何もない。

これでは四季を感じなくなるわけである。




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2018年3月25日 (日)

卒業風景が毎日、新聞掲載される3月

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土曜日24日の地方紙の一面に小学校の卒業式風景が載っていた。
随分前から小学校の卒業式だけ着る「晴れ着」のような制服が売られていて、うちの娘も10年近く前にはスーパーで一日限りの服を買った。
中学からは制服だから本当に着る機会はない。


子供の卒業式というのは、今保護者として両親が出てくることも多い。
既に取り壊してしまってない講堂兼体育館で、一人一人呼ばれて卒業証書が渡されるわけだが、これは一学年50人程度しかいないから出来ることである。

それで終わって記念写真だなんてやっている。
うちの子は何となくその輪には入れないというか、浮かぬ顔をしているのかと心配したことがある。
実はもう一人そういう仲間に入らないような子がいて、これは中等教育学校にただ一人受かった子だった。
母親と並んで何となく嬉しそうなのは目に残った。
しかし、その後の噂は聞いたことがないし知らないとも言う。


うちの子が浮かぬ顔していたのは、その後の大学入試の時にその中から現役で東大2人、国立大学医学部1人進学したのだという。
それで何となく不安を覚えていたのかもしれないが、「誰も知っている人がいない」ところへ行きたいとは漏らしていた。
実際、6年後の大学入試では文字通り「誰も知っている人がいない」大学に進学した。
そう群馬県人は他にほとんどいない東京の大学だった。
「言霊」は迷信とは言うけれど、何となく「言霊」通りにことが進んでしまうというのは不思議なものである。



それで昔は卒業写真があり、その下に住所が書いてあった。
しかし、今は卒業名簿すら作られないから子供は小中高の同窓会も開かれない。
それでそんなものがあったからと言って、参加するかどうかは分からないものの、小生と同じで小中高と学校は嫌いだったようである。

振り返って自分の小学校の卒業式はどんなものだったのか。
実のところ大昔で覚えていない。
卒業生は、220人くらいだから卒業式では名前を呼ばれただけだろう。

そもそも団体が集まれる体育館もなかったので、各教室に待機してそれこそ校内放送での卒業式だったかもしれない。
とにかく呆気なく終わって、これで自由になった風で学校を直ぐに飛び出したような気がする。
それほど余り好きになれなかった小学校生活である。


ところが、自分あとから誰も出で来ない。
それで、「早すぎたか」と思って、もう一度校門まで戻った。
戻ってみれば、校門当たりで沢山の卒業生がたむろして別れを惜しんでいる。
どうせ半分は同じ第一中学校で、校舎が焼けで仮住まいになっている第三中学校は少ない。
群大付属中学校に進学する卒業生は、さっさと帰ったようで余り見当たらなかった。

ただ一人だけ大泣きしていたFという子がいて、こんなに感情をあらわにするのと驚いたのを今でも覚えている。

それで中学の卒業式の時はどうだったのかというと、今はない体育館で名前を呼ばれて立った覚えがある。


その時の校長が言った言葉は「運、鈍、根」だった。



そんなことを覚えているのは、PTAの役員だった母が「中学生に言う言葉か」と言っていたからである。

3月中旬以降なかなか席を長く空けていられない。
それで色々なことが思い浮かぶというものである。




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2018_03_22

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2017年12月26日 (火)

桃井小学校 新校舎等内覧会に見る疑問

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平成29年の年末押し迫っての24日、標記の「桃井小学校 新校舎等内覧会」が開催された。
一般参加は、13時30分~15時という間だった。
しかし、午前中からカメラを持った人がチラホラしていたのでどうしたものかと思った。午前中は、教育委員会などの来賓関係者、桃井小学校の通学者の関連の人たちが内覧したとあった。
この桃井小学校の新校舎は、コミュニティセンターや消防団施設、「児童クラブ」などを併設しているので結構威圧感がある建物になった。
鉄筋コンクリート(RC)造3階建ての豪華なものである。
それで威圧感があるというのは、北、東の建物の周囲に元々のあった100年以上の木々を全て伐採して白い無機質な建物が出来たからである。
しかも、敷地ギリギリまで建物がある。

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新聞にも出ている昇降口。
昔の学校建築では、ホールがあってそこに二階に上がる階段があった。
その様相を真似たのかホールはなく、いきなり巨大な階段である。
これはかなり威圧感がある。
実のところ登るときはさほどでもないとしても、下りるときは実のところ怖いくらいである。なぜなら、階段の踏み板の縁がよく分からない。
ここで転んだら、多分1階まで滑り落ちるだろうという怖さ。
この階段が実は3階まで続く。

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想像なのだが、この階段は危ないので実際は使わないのではないかと思ったりしている。

その昔の桃井小学校の木造校舎、今の校舎の前の前、昭和34年ころまであった建物を思い出す。
そのロ型の二階建て木造校舎は、実のところほとんど踏み入れたことがない。
図書館があったり、保健室があったりしたがその後に出来たモルタル二階建ての校舎の方にいた。
その時その木造校舎の正面玄関と階段は使用禁止だった。
確かに、取り壊す直前には校舎が揺れたり、廊下に穴が空いたり階段も不安定だったかもしれない。
実のところそうでなくとも使用禁止だった。

だからそんなものかもしれない。

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体育館は、コミュニティセンターと共有なので結構大きなものになっている。
しかし、一緒に行った一級建築士の同窓生が「エアコン」ないのねと一言。
そして、コミュニティセンターから後から出来たのに近所の民家を見下ろすようになっていたりプライバシー無視。
そして、駐車場の上の屋根に設けられた意味不明の「音楽テラス」。
どうせなら屋根でもかけておけば使えるだろうにと思ったりして。

いずれにせよ、民間だったら作れないよなと思う豪華な新校舎だった。

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2017年5月14日 (日)

上野三碑(ユネスコ世界遺産登録をめざす)について考える。

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平成29年5月9日の地方紙に「三碑が語るもの-朝鮮半島に源流」という記事があった。



記事では、上野三碑と朝鮮半島とのことについては詳しく載っていない。

とはいえ歴史上絶対に無視できない「朝鮮半島には有名な広開土王碑(推定414年)」について言及している。

しかし、広開土王碑は、朝鮮半島ではなく中国吉林省で旧満州である。

その前段で見過ごせないのは以下のくだりである。

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「律令制や仏教--この頃の東アジアは中国大陸の唐が主導、朝鮮半島には唐と外交関係にあった新羅があった。日本は唐や新羅に使節を派遣し、律令制や漢字、仏教など『最先端』の政治体制や文化を積極的に取り入れた。」

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確かに660年百済が滅亡しその復興のために、663年「百済の都、州柔(つぬ)城」の陸戦や、663年に白村江で唐軍によって朝鮮半島から完全に撤退することになった。
それで新羅が唐王朝を背景に朝鮮半島を統一はした。


しかし、「日本は唐や新羅に使節を派遣し、律令制や漢字、仏教など『最先端』の政治体制や文化を積極的に取り入れた。」という文章はいかにも「律令制や漢字、仏教」が新羅を通して入ってきたように読めるしその意味だろう。
なぜなら続く文章で
「新羅の石碑は、山上碑や金沢碑のように自然石をそのまま使ったものが多い」次に「新羅の影響」の題字がある。


 

Ginza201715



これは日本の文化は、新羅などの「朝鮮半島の人民から、稲作をはじめとする様々な先進文化」(「日韓がタブーにする半島の歴史」室田克美著)を教えて貰ったという話に基づくのだろう。

稲作は、DNAから朝鮮半島経由ではないことが証明されているし、古事記、日本書紀、随書、三国史記(朝鮮半島の歴史書)にもそのようなことは書いていない。

先の広開土王碑に、書かれていることをわざと無視している。

「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■新羅以為臣民

〈そもそも新羅・百残(百済の蔑称)は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に[海]を渡り百残・■■(「百残を■■し」と訓む説や、「加羅」(任那)と読む説などもある)・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉」
(ウィキペディアより)

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年表を見てみると
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362年 新羅征討とあって、新羅が降伏している。

369年 南加羅、安羅、多羅、加羅、卓淳など7か国と周辺諸国を平定。

370年 百済が朝貢

438年 使持使 都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称すも詔して安東将軍・倭国王に除す。

451年 使持使 都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王に除す。

462年 安東将軍・倭国王に除す。

478年 使持使 都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に除す。 

479年 加羅国王荷知、南斉へ朝貢し高帝より輔国将軍・本国王の号をうける。

この様に見てみると4-5世紀の倭軍というのは強力な軍隊で、随書に見られるように「倭国に優れて品々が多いため、新羅も百済も倭国を敬仰し、常に使節が往来している。(前出)」とある。

新羅から先進文化がもたらせられているわけではない。
軍隊というのも文化が高い方が強いと言うのも常識である。
(日本書紀・任那には、10国・加羅国、安羅国、斯二岐国、多羅国、卒麻国、古瑳国、子他国、散半下国、乞湌国、稔礼国)

512年任那4県を百済に割譲

513年任那 全羅南道4県に加え2県を百済に割譲したことに端を発して、任那の加羅諸国は倭国に反発

522年加羅諸国、新羅へ傾斜

527年~529年倭国の内政問題と失政のため任那劣勢となる。

列島国家というのは、英国の例を見ても分かるように大陸から駆逐されると言うのが常である。
任那の政策では、百済にかなり優遇して加羅諸国の要望を無視した結果で任那を失うことになる。
任那滅亡562年(日本書紀)

ここで確認しておくのは、新羅が唐に朝貢したのは
621,622、625、626、627、629、631、633年・・・と任那滅亡の後である。

又、572年敏達3年から「任那の調」が始まっている。

 

すなわち新羅が倭国に「任那の調」として朝貢して646年頃まで続いている。

 

これは、倭国が再三にわたって新羅討伐軍を派遣して任那復興を画策していた結果といえる。

この「調」とは「租庸調」の調であって、配下が納めなくてはならない税金である。
(知っていますか 任那日本府・大平裕著)

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さて、ここで長々と書いてきたのだが、新聞に書かれている

「律令制や仏教--この頃の東アジアは中国大陸の唐が主導、朝鮮半島には唐と外交関係にあった新羅があった。日本は唐や新羅に使節を派遣し、律令制や漢字、仏教など『最先端』の政治体制や文化を積極的に取り入れた。」

とは大幅に違うことが分かる。

倭国は、370年に中国に朝貢し438年に「安東将軍・倭国王」の称号を得ている。

さらに、
451年には、都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王に。除す。

478年には、都督倭 百済 新羅 任那 秦韓 慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王の称号をえている。

百済は、487年南斉へ朝貢して「王候号」に除せられることを願うが避けられている。

607年遣唐使(小野妹子)

新羅は、649年に「唐の衣冠」を着ることになるが称号は与えられていない。

倭国は、607年に遣唐使を派遣しているのだが、新羅は621年に唐に朝貢しているのである。

そもそも倭国は、370年には朝貢をして称号を得ているから新羅から『最先端』の政治体制や文化が入るはずはない。

 

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なぜこんな風に歴史を書いてきたかというと、「上野三碑」は朝鮮半島との縁が深いと言われているからで、これを新羅との関係で語られると辻褄が合わなくなる。

そもそも古代新羅と現代韓国とは全く関係なく、韓国自体新羅を継承している訳でもない。
事実としては、古代から6世紀中版までは朝鮮半島の南半分は倭国又は倭国の勢力範囲だったということである。

その中心は九州にあり、任那滅亡によって居場所がなくなった人たちが群馬に住み着いたと言うのが本来であろう。

ここでは、直接上野三碑には触れないが、

726年に建てられた上野三碑の一つである「金井沢碑」には、物部牛足という人物が刻まれている。
物部氏とは、本来軍事と物流兵站を司る氏族でいかにも任那に関わったようにみえる。



多胡碑は、「羊」こと羌族(別名を羊族)の代表が、多胡郡を貰った記念碑と見て取ればこれも任那の軍事組織に関わる。
鍛冶屋という羌族の専門の組織で、当時のハイテク集団。
はっきり言えば、武器製造者である。



一つだけ違うのが「金井沢碑」、
三家氏という豪族が自分の家系を記したもので、三家氏の元に「他田君(おさだのきみ)目頬刀自(めづらとじ)」とあることである。
刀自とは、正妻で一族を束ねる立場であって、「大和政権」の中にも出てくる。

しかしよく見ると「他田君」の「君」という九州の政権特有も貴族の称号をもつ。

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以前に高崎で行われた上野三碑に関する講演会なとでは、この朝鮮半島のことに関して奥歯なものが挟まった様なもどかしいことが多く核心に迫っていない。

 

又、この「上野三碑」の碑文を中心としての論証は「日本語誕生の時代」熊倉浩靖著に詳しい。

ここで「日本語誕生の時代」にも「なぜ日本と新羅は統一国家になりえたのか」という不思議な章があって、言語の立場から論説している。

 

この著書で、多少前後で論理矛盾があるのは無視して、「新羅は統一国家になりえたのか」とい章があるものの歴史を見ると違和感がある。

 

この「日本語誕生の時代」では、広開土王碑、日本書紀、三国史記なども引き合いに出しているとは言え、広開土王碑の倭(日本)に関する部分は「議論が分かれる」として無視している。

議論?・・・それは韓国による異説でしかない。

上野三碑を見てゆく上で、4-5世紀の任那を考えないと無意味であると同時に「律令制や漢字、仏教など『最先端』の政治体制や文化」は新羅から伝わったという虚構を廃しないとさっぱり分からないものである

朝鮮半島南部には、日本特有の墓制である前方後円墳が14基発見されている。
その中の副葬品から倭人と思われる品々が出土していたという新聞記事を見たことがある。
文献だけでなく、実際の事実としての物証が出ていることを無視することは出来ない。


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2017年5月13日 (土)

壬申の乱の虚構性を検討する序章

Ginza201713


日本書紀に書かれている「壬申の乱」。

日本書紀というのは、天武天皇の正当性を中国の史書になぞらえて漢文で書かれたものである。

この天武天皇こと大海人皇子は、もともと皇位継承権がなかったという説がありその諡(おくりな)を見ても天智天皇とは雲泥の差がある。

「壬申の乱」については、その大海人皇子軍の行軍の記述が地図に照らすと全く合わないという著書を紹介したことがある。

それで「壬申の乱」について、詳細な時系列で検証している「日本書紀の虚構と史実」という著書を読んでみるとどう考えてもやはり辻褄が合わないところが多い。

単純な疑問は

●671年10月19日、天智天皇に背いて、大海人皇子が突然出家して吉野に向かったときに
「蘇我赤兄や中臣金といった重臣たちが宇治橋まで大海人を見送りにきた。彼らは機会を窺って大海人皇子を亡き者にしようと計画していたが、ついに果たせなかった。」

この部分はおかしい。
確かに重臣が途中まで送りにくるというのはある。
その場合当然のことながら護衛の軍勢がいるわけで、その後の歴史を見れば追っ手を差し向けて殺害している例は多い。
要するになぜ大海人皇子に手が出なかったのか、単純には大海人皇子を迎えに来た護衛がいたとしか思えない。

そうでなくとも吉野なら大友皇子側から吉野宮に軍勢を差し向けても不思議はない。


●672年5月、大海人皇子は吉野で戦争準備をするわけだが、本来少人数で吉野宮に行ったはずなのに多数の舎人を動かしている。
都から近い吉野では無理である。

●672年6月24日、吉野を40人程度の従者女官とともに出発。

6月26-7日、美濃において3,000の軍勢の動員に成功。

 

尾張の国司 小子部氏が20,000の軍勢を率いて大海人皇子に帰属。

これも不思議なことである。

この時点で大友皇子は、天智天皇崩御と供に動員令を出して数万の精鋭軍を招集し、将軍に山部王、蘇我果安などが指揮をする。
圧倒的な軍勢、軍団の前に国司が反逆すると言うのも不自然である。

しかも、大海人皇子は東国の蝦夷討伐軍である最強と言われた上野の軍まで投入している。

663年「百済の都、州柔(つぬ)城」の陸戦での敗戦によって、前将軍・上毛野君稚子(かみつけのきみ わかこ)が唐軍の捕虜(?)になっていたとは言え余力はあったであろう。

●大友軍の将軍、蘇我果安が山部王を内通の疑いで惨殺。

その後、蘇我果安も自害。
これも変な話。

●大友軍は、軍隊を増員出来ないのに大海人皇子軍は、東国の軍隊までも続々と動員して圧倒的な精鋭をもって完全に殲滅してしまうこれも解さない話。

その他、663年に白村江で唐軍(新羅軍はその武将)に完敗して、九州に都督府が置かれ約2,000の唐軍が駐屯していた(日本書紀)。

この「壬申の乱」以降になって、唐の捕虜になっていた主要な人物が返される。

その他多くの疑問があるのだが、いま読み込んでいるの最中で上野三碑の話が出てきてしまったのでもう少し整理して考えてみる。


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2017年1月 1日 (日)

ニューイヤー駅伝2017inぐんまを撮影

2017newy1


例年元旦の朝を彩る「ニューイヤー駅伝」事、「全日本実業団対抗駅伝競走大会」が群馬県前橋市の群馬県庁を起点として開催された。
これがいつから群馬で開催されたのかと調べてみたら「第32回1988年1月1日」と29年前。
以前は随分西の方で開催されていたようだ。
しかし、東京から近く関越高速だと前橋インターから直ぐに中心部に入れるから交通の便は良い。
しかし、毎年9時15分スタートとはいえ風が強くて結構冷えるのがいつもの通りである。
とはいえ、今年は多少暖かかった。
動画と写真の両方を取っている。

2017newy2


カメラメーカー: SONY
カメラモデル: ILCE-6000
レンズ: E PZ 18-105mm F4 G OSS
撮影日時: 2017-01-01 09:17:06 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 40mm (35mm 換算焦点距離: 60mm)
絞り値: ƒ/4.5
露出時間: 0.0031 秒 (1/320)
ISO 感度: 100
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)

昨年までは何のカメラを使ったのか思い出せないが、動画はSONY NEX-6だったかもしれない。静止画の方はなにだったかな??
この駅伝が群馬県庁に戻ってくるのが14時くらい。
このときの写真は、Nikon1J5を使っていたが今年はX30で中速度連写した。
こういうコンデジで連写が出来るようになったとは、時代も変わったものである。


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カメラメーカー: FUJIFILM
カメラモデル: X30
撮影日時: 2017-01-01 14:12:00 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 28.4mm
絞り値: ƒ/4.0
露出時間: 0.0025 秒 (1/400)
ISO 感度: 200
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)


ここ毎年こういう喧噪に包まれて元旦の朝を迎え、神様に初詣、お昼を食べてお寺へ御札をもらいに行くという例年の行事である。
前橋というのは寂れて行くと言われている景気の良くないところである。
そもそも為政者の戦後の市長が20年以上も続けこの辺から停滞が始まった。
その後に助役をしていた人が2代続き、その後合併した郡部出身の市長が市街地の空洞化をさらに進めた。
こういう何十年にも渉り、なにもしなかったので出遅れてしまった。
また今は観光地でもないのに、屋外広告の規制なども始めて前橋市内に金が落ちないのを推進している。
特に年明けに街を廻ってみると、建物があったところが空き地になっている。
これは年寄りが亡くなって跡継ぎは東京などに出ているから住む人もいない。
それで、相続も絡んで売却してしまうか場所が良いところだと駐車場になったりする。
今役所は、公共機関を使うことになっているから市役所周辺の駐車場はパートさんが利用していることが多い。
しかし、給料が安いから高いところは借りる人がいなくて、料金がダンピングされる。
こんなことで、前橋市の景気は良くならないわけだ。

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カメラメーカー: FUJIFILM
カメラモデル: X30
撮影日時: 2017-01-01 14:21:48 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 7.1mm
絞り値: ƒ/4.0
露出時間: 0.0033 秒 (1/300)
ISO 感度: 200
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)

しかし、このニューイヤー駅伝なとがあると選手は宿泊するから多少お金が落ちる。
それがこちらに廻ってくれば良いが、そんなことはない。

そんなわけで前橋や群馬で商売が出来れば、全国どこへ行っても成り立つというものである。
思えばヤマダ電機は前橋、ビックカメラは高崎、J!NSも発祥は前橋だったよなと思う。
この年末年始、レビュー機が送られてきてまともに休めないというのは辛いところである。


詳しくはこちらを参照 icon

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2016年11月20日 (日)

1か月早い忘年会・あの「高畑」ホテルで開催

Fujifilm_food100


平成28年11月19日(土)小学校時代の同窓会が開催された。
幹事のある先生(学校の先生ではない)が「ピーチの会」と名付けた小さな集まりは、クラス横断的な地域の集まりになっている。
だからその昔は、学校の周囲2-300mに住んでいた同窓生になる。
時は変わり元の場所には住んでいないというのは殆どで、東京から実家に一時立ち寄る口実になっていたりする。
同窓生の中には、小中高と同じクラスになっていない人もいるし、幼稚園と小中学だったりと様々。
それで二つに分かれた二次会では、小学校時代の裏話や思い出などを繰り出してゆく。
こういうときになると不思議なことに、記憶の箱に収まっていた蓋が開いて妙なことを思い出したりする。
小学校時代のアルバムを開いてみると、3つの中学に分かれたこともあってその後の痕跡が全く思い当たらない人も多い。

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カメラメーカー: FUJIFILM
カメラモデル: X30
撮影日時: 2016-11-19  PM09:13:24
焦点距離: 7.1mm
絞り値: ƒ/2.0
露出時間: 0.067 秒 (1/15)
ISO 感度: 800
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: プログラム (オート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: はい (オート, 赤目軽減, リターン検出)
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)

戦後のベビーブーマー直下の世代なので、上級生が卒業して55人クラスが45人クラスに編成替えとなった。
その4クラスから5クラスに編成替えになるときに、どの児童が元の組に残るかと言うことがあった。
そこで内々にクラス替えを申し出た人は、他のクラスに6年から移った児童もいた。
そんな昔のことがあっという間に浮かんでくるのだが、「やはりあの人は先生のお気に入りだったか」と思い出したりする。
今の時期になると、人生のある意味での成功者とそうでない人とはっきりと分かれる。
成功者が良い大学を出て、有名企業に就職してという意味ではないと言うところがミソである。
そしてその時の嫌われ者の先生に気に入られたその時優秀だった児童が、その成功者の内に余り入っていないと言うのもご愛敬である。

宴会は、先生の設定で「高畑」事件があったホテルでやったのだが、昔はしゃぶしゃぶなどをやっていたところであった。
今は居酒屋で、量が少ない、不味い高いと三拍子揃った二度と行かないような店だった。

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2016年10月10日 (月)

お祭りで忙しいときにSONYα6500が出た

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この3日間、7、8、9日とお祭りとその前夜祭でクタクタになってしまった。
山車を引くと言うこともやるのだが、最近はマンション住民が増えたから敢えてやる必要もなくなった。お祭りの寄付は5,000円、その昔の5,000円といまの5,000円とでは随分と感覚が違う。
しかし、5,000円の寄付をする人は班としては少なく子供がいる家庭と独居老人とでは全く違う。それでも5,000円を寄付しておけば祭りにはコソコソではなく、堂々(個人の気持ちで・・)と参加できるような気が起こるものである。
山車を引くと行っても、中心は小学生以下のお囃子である。所詮爺さんは、金さえ出せばどうでも良い存在というわけである。
実のところ自分としては、こういう山車でお囃子などをやったことがない。それは山車は戦争の空襲で焼けてしまっているから何もなかったと言う理由である。
前橋市も今や旧郡部も市になったから、ものすごい立派な山車が登場することもある。
歴史がなくなってしまったような都市というのは、哀れなものである。

20162

カメラメーカー: RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
カメラモデル: PENTAX K-3
撮影日時: 2016-10-09 14:28:32 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 85mm (35mm 換算焦点距離: 127mm)
絞り値: ƒ/5.6
露出時間: 0.0050 秒 (1/200)
ISO 感度: 200
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: 絞り優先 (セミオート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)

20165


20166


それで今年もいつもの通りマーチングパレードを2日間の午前と午後に4回撮影した。
8日は、晴れたので準備万端だったのは良かった。しかし、撮影場所に登場するまで15分~20分もかかるので待っているのが疲れてしまう。
9日の午前中は雨であった。なんでこういうときに雨が降るかなと思うところで、何とか曇りで開催されその分かなり遅れた。
午後は、少し遅れてしまい多少失敗。やはり予想通り早めに出発したようであった。
マーチングパレードの話は、動画編集の時にするとしていつも思うのは、この動画をマルチカムで撮影するのに画像の色合いなどが違ってしまうことが多い。
それでSONYかPanasonicのカメラに統一するかと考え、SONYα6300でも欲しいかなと思っていた。
とはいうものの10万円を越すカメラをおいそれと買うわけに行かない。
買ってみてもテレビに映してみるには良いとしても動画編集には向かないと言うこともある。
実際には、SONYα7 (α7 ILCE)を持っていて動画も撮っていた。ところが動画編集が重いのと、映像が圧縮されるためにあまり綺麗ではなかったので止めてしまっている。
それでSONYα6300はどうか、α6300というのはどうも妙なカメラではあった。
SONYα6000のプラボディがマグネシュウム合金になり、数々の細かい点が改善されたというものの値段が倍というのは頷けない。
それがSONYα6500になって、5軸ボディ内手振れ補正、タッチパネルなどが追加されて漸く他社のカメラ並になった。
価格コムでは、SONYα6500のブリッジ版がα6300だと言われている。
それにしても無理してSONYα6300などを買わなくて良かったと思った。
事実前橋のヤマダ電機では、展示品さえなかったのだから売れない商品だったのだろうと想像できる。

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20164

カメラメーカー: RICOH IMAGING COMPANY, LTD.
カメラモデル: PENTAX K-3
撮影日時: 2016-10-09 15:01:35 (タイムゾーン情報なし)
焦点距離: 75mm (35mm 換算焦点距離: 112mm)
絞り値: ƒ/5.6
露出時間: 0.0050 秒 (1/200)
ISO 感度: 200
露出補正値: なし
測光方式: マトリックス
露出: 絞り優先 (セミオート)
ホワイトバランス: オート
フラッシュ使用: いいえ (強制)
色空間: sRGB
GPS 位置: undefined, undefined
ソフトウェア: Adobe Photoshop Lightroom 5.7.1 (Windows)


それで多分SONYα6500が発売されると大量のα6300が中古市場に流れると予想される。
現に富士フイルムのX-T1の中古品が今満載である。
60,000円前後で新同品と言うが77,000円程度で新品がまだ買える。
色々と考え物である。
しかし、こういうカメラなどを買うのは勢いというもので、迷っているうちはまず買うことは無理である。
それで新しいカメラと今持っているカメラと比べてみて、過剰な仕様になっていると思う。一台のカメラで何でもしようと思うから過剰になる。
そうかといって、中古で一世代前のカメラを買ってもいずれ何か飽き足らなくなるのではないかというのが恐ろしいことである。

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