D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ

2025年9月24日 (水)

D'Artagnan物語・三銃士I・フロンドの乱最終章Ⅱ(1652~1653)

D'Artagnan物語・三銃士I・

フロンドの乱最終章Ⅱ(1652~1653)


 大コンデと歴史に名を残す名将コンデ公に対して、時の運はことごとくテュレンヌ国王軍に傾きつつある。

 テュレンヌ国王軍はパリ北の近郊に陣を敷き、一方コンデ公軍はパリ西方サンクルーに陣を敷いていた。

 膠着状態に置かれたコンデ公軍は、地の利得又防備を固めるためにパリの南シャラントンに移動を開始した。


 しかし、コンデ公軍は宿敵であるスペイン軍(未だ戦争状態にあった)と反乱貴族の混成軍であったためパリ市内の通行が許されず、城壁の北側を廻ることになった。

 これは、テュレンヌ元帥軍に対して横腹を見せる失策で、7月2日この動きを知ったテュレンヌは空(す)かさずコンデ公軍の後衛に攻撃をかけたのである。

 この奇襲攻撃に対してコンデ公は仕方なく反転し、両軍はパリのサン・タントワーヌ門の外で激戦を繰り返すことになる。

 「ほぼ午前中を通して、断続的な殺し合いが続けられた。」というのは7月の猛暑のために、兵士は戦いを中止しなければならなかったからである。

…ギー・ブルトン「フランスの歴史を作った女たち・第5巻・第3章」



 名将に率いられた強力な攻撃軍というのは、その戦いの勝敗を左右する。

 当然のこととしてコンデ公軍は、城壁間際まで追いつめられ全滅かと思われた。

 ところが、この際(きわ)どい時にバスティーユBastille要塞の大砲が国王軍に対して砲火を加えたのである。

 これは、オレルアン(d`Orle`ans,Duchesse de)公女

(グランド・マドモアゼル/アンヌ=マリー・ド・モンパンシェ・当時25歳/Montpensier,Anne-Marie-Louise d`Orle`ans,Duchesse de)

の助力によってパリ市民軍がコンデ公軍に協力することを決したことを意味する。


 この間隙を狙ってコンデ公軍は態勢を立て直し反撃に転じ、開いた城門からパリ市内へ逃れることが出来た。

 オレルアン公女が突然コンデ公に身方して国王軍に砲門を開かせたのは、公女のイライラや鬱憤のはけ口だったと言われている。…前出 …

ギー・ブルトン「フランスの歴史を作った女たち」ピェール・メスナール「回想録」

………普段は大人しくて「お嬢様然」としているオレルアン公女・モンパンシェ公女なのであるが、時として自己顕示欲を発散する癖があった。

 尚、ルイ13世の弟オレルアン公ガストンを父に持ち、モンパンシェ(Montpensier)家唯一の相続人だった母が出産の時に死亡したためにフランスでも有数(フランス一と言われる)な財産を持ったモンパンシェ家の相続人となった。


 又、ルイ14世の妻になることを切望していた。
…………………………………………………………………………………
 ここで国王軍は、予定が狂ってしまった。

 パリ入城のためにサンドニまで来ていたルイ14世は、ポントワースに宮廷を移さざるおえなかった。 


 8月コンデ公は、再びフランスに侵入したロレーヌ公と合流した。

 ここで断っておくとロレーヌ公は「ラインクネヒト」である。               


 「ラインクネヒト」……分かりやすく言えば「傭兵」である。 


 只、ロレーヌ公領はフランスに侵入されており領地が回復できない恨みは有ったろうと思う。
                       

 又、傭兵は当然のことながら「金」で戦争を請け負うのであるが、通過する村々の略奪をも仕事にしていた。

 一方パリに入城した殺気だったコンデ公軍とパリ市民とのトラブルが相次ぎ、その上過去の特権を復活しようとした事がコンデ公から民心の離れる原因となった。

 又約束としていた「平和」もコンデ公は中々果たせないでいた。


 即ち政治的にコンデ公は行き詰まってしまったのである。
 それは、傭兵ロレーヌ公軍を加えてテュレンヌ国王軍の倍の勢力になったものの決定的な戦果を上げることが出来なかったからでもある。
 いつも、連合軍というのは難しいものである。


 ナポレオン戦争のころのアウステルリッツの戦い(Schlacht von Austerlitz 1805年12月2日)でナポレオン軍7万3000人がオーストリア・ロシア連合軍8万7000人と戦い。

 オーストリア・ロシア連合軍は3万以上の死傷者を出し敗走した。
 早く言えば全滅と言ったところである。

 さて、普通戦争では首都を制圧すればほぼ戦争は終わる。

 即ちここでも国王軍とコンデ公との間でパリ争奪戦が始まるのである。

 8月マザラン枢機卿は、国王が高等法院とブルジョワ、パリ市民の受けがよいように亡命する。

 このときにはフランス宮廷はサンジェルマンに移っていたが、9月になると無政府状態のパリにほとほと嫌気がさしたパリ市民からルイ14世に国王還御(かんぎょ)の要請が出された。

 聖職者の代表やギルドの代表などからである。

 1652年10月21日ルイ14世は、サン・トレノ門からパリに入城した。


 翌日の親臨法廷(親裁座・Lit de Justice)で高等法院に対して、今後「国家と財政の問題に干渉することを禁じる」と宣言した。

 一方、コンデ公軍は危険を感じて国王のパリ入城の直前にパリを脱出した。
 しかし、これでも戦いは終わらない。
 テュレンヌ軍はコンデ公軍を徹底的に叩きのめそうと考えていたのである。
 11月下旬、コンデ公軍は占領地域であったエーヌ河畔で「当時の常識」どおり冬ごもり(冬営)に入ろうとしていた。

 ところがこのコンデ公・ロレーヌ公連合軍にテュレンヌ軍が奇襲をかけ、撃破したのである。
 結果コンデ公はスペイン領ネーデルランドのペイパへ亡命せざるおえなくなった。

 時に、コンデ公31歳、マザラン枢機卿50歳。

 そしてこの後、マザラン枢機卿の命令でエーヌ河畔の都市の残党掃討作戦が始まる。

 1653年1月ヴェルヴァンが陥落して掃討戦は終わり、1653年2月3日テュレンヌとマザランが共にパリに帰還した。テュレンヌ(子爵・元帥41歳)

……以前にも述べたとおり当時・近代以前は、「冬には戦争をしない」というのが常識だった。


 即ち、道路はぬかるんで移動は困難であり、馬に食べさせる「まぐさ」の調達が絶望的だったからである。

 戦争の季節は春から秋であった。

 ……どちらかと言えば小貴族出身の実力でのし上がった歴戦のテュレンヌ元帥(子爵)に対して、大貴族・王族である常識的な名将-コンデ公はやはり勝手が違ったということであろうか。

 パリと並んで反乱の中心地であったボルドーBordeauxでは、コンデ公が亡命した後も「楡(にれ)の木同盟」と呼ばれる党派が市政を握って抵抗を続けていた。

 1653年7月ボルドーが陥落し5年に及ぶ「フロンドの乱」が終決した。

2025/09/24

 

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2025年9月23日 (火)

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ第二段階・貴族のフロンド(Fronde princie're)

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ

第二段階・貴族のフロンド(Fronde princie're)
 
 

 「高等法院」のフロンドは、フロンド派に組みした人々の要求はあらかた満たされたものの

「D'Artagnan物語・三銃士(復讐鬼)第5巻」に記載の通りゴンディ神父やシュヴルーズ公爵夫人などは何も得るところはなかった。

 しかし、実際はマザラン派やマザラン枢機卿本人も不満の残る結果となったのである。


 特にコンデ公は、パリ包囲を行って実際のフロンドの乱を終結に導いた立役者であるのにコンデ公としての考えとしては大した恩賞も得られたかった。

 即ち、ロングヴィル公爵夫人も考えていたとおりマザラン枢機卿を追い落とし自ら摂政となる画策を仕始めたのである。

 本来前王ルイ13世もアンヌ・ドートリッシュは摂政会議の一員としてのみ認定していた。

 だから、アンヌ・ドートリッシュ(スペイン人)が摂政会議を独裁したのは一種の革命であったことは既に述べた。


 従い、本来の王族、特に王位継承者であるコンデ公としてはフロンド乱を鎮圧したのである。
 そして、当然のこととして政権を担う狙いがあった。
 常に中心となる立場に置かれないと我慢出来ないコンデ公としては、メンツとして譲れないことである。
 しかし、ここでマザランが政権を譲れば身の破滅であることはいつの世も当然である。

 よってマザラン枢機卿は機先を制して(陰謀を察知して)1650年1月18日コンデ公一門(コンティ親王、ロングヴィル公など)の逮捕に踏み切った。

 これに対して、お祭り好きのパリ市民は喜んだのである。
 しかし、コンデ大公一族の夫人達を中心として貴族達は反マザランで一致してしまった。
 
 王族である……そして時となれば国王にもなりかねない(王位継承者)コンデ親王を、外国人の摂政と貧乏イタリア小貴族出身の枢機卿にすぎないマザランが逮捕するとは何事だと言うことである。

 コンデ大公一族の夫人達は、彼女の夫が総督をしているブルゴーニュBurgundy、シャンパーニュChampagne、ノルマンディNormandyなどで兵を挙げたのである。
 国王軍は、反乱軍鎮圧のため移動しこれに追従して宮廷も移動する。
 ルイ14世(11歳・未成年)もブルゴーニュBurgundyの戦闘で初陣をしている。

 反乱軍を押さえて取りあえず戦乱を収拾したマザラン枢機卿ではあった。
 1650年暮れになると、味方についているはずの高等法院が何故かル・アーヴルに幽閉されているコンデ公達を釈放するように要求し始めた。

 翌1651年になるとオレルアン公爵(フランス軍司令官)・ガストン・ドレルアンも反マザラン派に鞍替えし、高等法院はマザランの追放をも要求し始める。

 マザラン枢機卿はここに至って、パリの主要な貴婦人達(伯爵夫人)を追放したものの…身の危険を感じる様になった。

 人生の機微が分からず、理屈ばかり言うアンヌ・ドートリッシュに対して、相手に逆らわないようにしてそして、怒らせることなくまとめてきたマザラン。
 …大番頭…に取っては事が破綻してしまったのである。

 マザラン枢機卿は、1651年2月16日赤い色のジャケットと羽帽子…即ち一般の貴族のような風体に変装して夜陰に紛れてパレ・ロワイヤルを脱出。

 ドイツ・ケルン司教区に亡命した。
 その途中、ル・アーヴルでコンデ公ら三人を釈放。
 親王達はバリに凱旋入城した。

2004/10/09 13:33:50
2025/09/23

 

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2025年9月22日 (月)

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ「高等法院のフロンド(Fronde Parlementaire)」…第2幕

20250916p9162166


D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ

「高等法院のフロンド(Fronde Parlementaire)」…第2幕


 マザラン枢機卿たちがパリに戻ってきて一番困ったのがゴンディ神父である。
 今まで漸く盛り上がってきた一揆が急速に萎んだのでは、本来の目的達成することは出来ないと考えたのである。

 三銃士第4巻後半から第5巻前半は、イギリスの清教徒革命を舞台としている。

 従い、少々触れておく。
 
 1642年8月チャールズ(Charles)1世は、イングランド中北部のノッティンガム(Nottingham)で挙兵した。
 10月のエッジヒルの戦いに辛くも勝利したが、ロンドンの確保に失敗した。

 そのため国王軍は、オックスフォードに退去しここが拠点となる。

 1643年北部、西部で優勢に軍を進め南西部でも戦術的な勝利を得たが、スコットランド軍が議会軍についたため北部イングランドを失う。
 国王は、議会軍と交渉を進めたが中々進展しなかった。

 ここでオリバー・クロムウェルOliver Cromwellは、近代的な軍隊を創設した。

 即ち従来からの軍隊を改変し議員は将軍になれないとして、従来の無能な指揮官を更迭し再編成したのである。

 そのクロムウェルの軍隊は忽ち(たちまち)効力を発揮し1645年6月、ネーズビーの戦いで国王軍に対して決定的な勝利を収めたのである。
 
 国王軍はその後劣勢に傾き1646年4月オリバー・クロムウェルの議会軍がオックスフォードに迫ると国王は再起を期してスコットランドへ亡命した。

 尚、当時 スコットランドScotlandはイングランドとは別の独立国である。

 一方国王とイングランドとの交渉は国王チャールズ1世が妥協を拒み続けてきたために、国王を利用することを諦めた。
 1647年1月、40万ポンド(現在の通貨換算で100億円強)で国王の身柄を議会軍に引き渡した。

 これをもって大内戦(CivilWar・清教徒革命・Puritan革命)の第1期が終了した。

 三銃士第5巻は、大内戦・第2期を飛ばして残部議会の手によるチャールズ1世の裁判に飛んでしまうので、ここでフロンドの乱に戻る事にする。

「イギリス革命史・上」 友清理士 (研究社 2004.7)





 ゴンディ神父とはどちらかというと「いいかっこしい…格好いいことがしたい」人物である。

 当然司教補としては実に有能で、どんな複雑な仕事も器用に片づけた上その余裕の時間を利用してこの一揆を継続する方法を考えたのである。

 よって盟主が必要と考えて、雌伏の時代に身につけた人当たりの良さを利用し、まずコンデ公と交渉に当たった。

 しかし、コンデ公は今までマザラン枢機卿にしたがい戦争を指揮していたのみならず、メンツやプライドにこだわる人物である。

 こんな人当たりはよいがネチネチとした尻軽なゴンディ神父とはウマが合うはずはない。

 なにしろゴンディ神父よりも「スマート」を心情として、どんなことでも論理的に分析してリーダーシップを取りたがりの人物ある。

 ゴンディ神父の一揆は余り格好良くないと思ったのであろう。

 マザラン枢機卿の見方となる。

……コンデ公を今風に分析すれば、最近の情報、流行に身を固めそして女性には不器用なくせに、例えばコンパで一番美人の女性に真っ先に手を出すような人物だと言うことである。
……大体失敗するが。



 頭の回転の良いゴンディ神父は王族なら何でも良いとコンデ公の実弟コンティ親王(Conti,Armand de Bourbon,Prince de)を盟主とした。


 但し、「ゼロは何倍してもゼロである」とゴンディ神父は言い切っていることからこの18-9歳の若者は無能だったようである。
 
 …ギー・ブルトン「フランスの歴史を作った女たち・第5巻・第3章」


 その上、10歳年上の姉ロングヴィル公爵夫人(Longueville,Anne-Geneveve de Bourbon-Conde,Duchesse de)の「靴下留めの一つを常に腕につけて持ち歩いていた」という。

 「コンデ家は近親相姦風の雰囲気に包まれていた」と言われる所以でもある。

 尚、後にこのコンティ親王は、マザランの姪アンヌ・マリー・マルティノッチと結婚している。

 そして、又その中心人物として(当時の絶世の美女として有名な)ロングヴィル公爵夫人を説得した。

 ロングヴィル公爵夫人を今風に分かりやすく表現すると、陽性な所謂典型的な美人でその上にどこか妙な色気があって「男性に人気がある」……

 しかし、女性たちからは「自信過剰」「イヤミだ」と散々非難を浴びるようなタイプだと思えばよい。

 このやや小心で神経質で臆病なロングヴィル公爵夫人は、弟のコンデ公がアンヌ・ドートリッシュの代わりに摂政なることを望んでいたから渡りに船であった。

 事実、後のコンデ公(別人)はルイ14世の死後摂政になっていたからこの方が自然であろう。

 何故なら当時の慣習として女性は大勢の前で演説をするとか、それに類することはしてはならない事だったからである。

 「ルネッサンス修道女物語J.Cブラウン著 永井三明訳 ミネルヴァ書房」
 
 ツーと言えばカーという打てば響くような人の心理を読むことが上手なゴンディ神父は、この権力のある重要人物・ロングヴィル公爵夫人のご機嫌を取り結ばなければならなかった。

 従い、ノワルジー=ル=ロウの夫人の居で夜な夜な密議を催したのである。

 メンバーには、ラ・モート将軍(フランス軍副司令官)、ブイヨン公(有名な名将のテュレンヌ将軍の兄)、ボーフォール公(アンリ四世の孫)、ラ・ロシュフーコーなどなど。

 このような不穏の情勢を受けて……

 1649年1月6日(一説には5日)の夜半から翌7日の明け方にかけてアンヌ・ドートリッシュは、再びサン=ジエルマンに避難した。

 当然コンデ公揮下の軍隊でパリを封鎖した後のことである。


 ゴンディ神父は、手持ちの軍隊や動かせるコマとしての軍隊を持っていたために十分な勝算があった。

 その上パリ市民を煽動しようとしたが、中々盛り上がらない。

 それで(三銃士に書かれているように)

 コンティ親王などの主要な人物を高等法院に出仕させ、ロングヴィル公爵夫人、ブイヨン公夫人、パラチナ選帝候妃(当時美女として令名の高かったアンヌ・ド・ゴンザク)、シュヴルーズ公爵夫人などの夫人たちやその乳飲み子達を市役所(オテル・ド・ヴィル)に住まわせた。

 即ち、一種の人質にすると同時にパリ市民に対する保証という意味合いである。

 この辺のところがゴンディ神父の「詭弁を弄する」とか「責任を他人に転嫁する」とか言う所である。



 …パリ市役所ではどんな密議が行われていたかと言えば、バイオリンのコンサートが開かれてブイヨン公夫人などがダンスに興じていたのである。

 何故バイオリンのコンサートにダンスだと言われるようであるが、早い話ダンス教師を呼んだと言うことである。

 16世紀以降、全てのバイオリン弾きはダンスが出来なくてはならず、全てのダンス教師はバイオリンが弾けなければならない決まりがあった。
(同じ職業組合)


 そして、2月も近くなるとコンデ公はシャトランの守備隊を撃破してますます戦争は混迷化していった。

 そのとき既に2000人以上の戦死傷者が出ていた。

 当時の常識から言えばこの時期は、冬ごもりで戦争をしない時期であるのでよく戦ったと思う。


 ゴンディ神父の陰謀によりフロンドの乱は全国に広がる様相になってきた。



 しかし、1649年1月30日イギリス国王・チャールズ一世が残部議会によって処刑されたという事態は、パリのフロンド派を動揺させる結果となった。
 (イギリス革命史上)

 このような事態となったためパリ包囲下のフロンド派もマザラン枢機卿も和平を模索することとなった。
 
 高等法院は、サン=ジエルマン=アン=レーに行き3月(4月1日)に和解が成立した。 フランス王室は新王宮パレ・ロワイヤルに戻った。「高等法院のフロンド(Fronde Parlementaire)」終わり。

 うるさ型のアンヌ・ドートリッシュもフロンド党の全ての条件を呑みその上、罪を問わないこととなった。

 次は貴族のフロンド。

2025/09/22

 

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2025年9月21日 (日)

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰフロンドの乱レス枢機卿(Retz.Jean Franqois Paul de Gondi,Cardinal de)

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ

フロンドの乱

レス枢機卿(Retz.Jean Franqois Paul de Gondi,Cardinal de)

 ゴンディという名がとりあえず歴史上に登場してくるのは、ヴェルサイユVersailles宮殿に関してである。
 ヴェルサイユには中世から人が住み着き、荒れ地を開き作物を作っていた。
 フィレンツェFlorenceの名門出身であるジャン・フランソワ・ド・ゴンディは1575年からヴェルサイユの領主であった。
 この人物が最初のパリ大司教である。
 そして1632年4月8日にド・ゴンディの領地と「荒れ果てた古い館」を60,000リーブル(およそ6000万円)でルイ13世は買い取ったのである。

 尚、ルイ13世は他の土地を1631年に17人の地主から26,000リーブルで購入している。
(ヴェルサイユ宮殿の歴史・クレール・コンスタン・創元社2004)

 さて、ゴンディ神父は後のレス枢機卿(Retz.Jean Franqois Paul de Gondi,Cardinal de)である。

 三銃士の中では良く書かれていないが、フロンドの乱のうち1648-49にはパリ副司教(司教補)の地位にいた。
 実は十数年も冷や飯を食い、運が悪ければ地方の一司祭で終わったかもしれない人物である。
 (有力者の息子としてそういうことはあり得ないが……)

 このポール・ド・ゴンディは、成人した14歳の時パリのノートルダムNotre Dame教区付の司祭となった。
 しかし、17歳の時著した著書(La conjuration de Fissque 1665)が時のリシュリュー枢機卿の目にとまり危険人物と見なされたのである。
 実際、史実では「聖職に反発して放縦な生活にふける」と書かれている。
 名門の貴族階級に良くあることであるが、地方で少し謹慎ないし隠遁をさせると言う事がある。
******
 ルーズベルトRoosevelt大統領も若い頃、妻と母を同時に失って西部に行ってカウホーイCowboyになった。
 只その格好が面白い。
 拳銃とライフルはティファニーTiffany製、最高級のバックスキンの服ともろもろ。
 若きゴンディ神父も似た様なものである。

 豊富な小遣いに従僕付き、田舎の神父としては、何不自由なく暮らしていた。
 但し、親族は復活のチャンスを狙っていたと思われる。

 田舎に隠棲して30歳も過ぎたころ、ほんのちょっとした事件をきっかけにゴンディ派司教とその縁者によってパリに帰ることが出来たのである。

 即ち、リシュリュー枢機卿と国王ルイ13世を動かし国王の遺言として、追放となったゴンディ神父はパリ副司教(司教補)という高い地位に突然大抜擢されたのである。
 リシュリュー枢機卿も国王ルイ13世も死期が近く判断が鈍ったのかもしれない。
 しかし、ゴンディ家の力がそれだけ強かったと言うことである。
 
 このゴンディ神父は、苦節十数年という年月を決して無駄にしていない。
 ルーズベルトRoosevelt大統領がそうである様にゴンディ神父は、パリ市民を煽動し感化する力を得たのである。
 ゴンディ神父は、有名な扇動家であり書物には政治家とある。

 「三銃士」ではその弁論の周到さ、説教の名人というようなことも書いてあったように思う。

 その後ゴンディ神父は…
 フロンドの乱のうち1652年には、枢機卿(ブルターニュBretagne地方のレーの枢機卿)。
 しかし同年マザラン枢機卿によって投獄された。
 1654年にナントNantesで脱獄し同年にはパリ大司教となった。
…とはいうもののスペイン、オランダ、イタリアと逃亡生活は続き、1661年マザラン枢機卿の死後ルイ14世に帰国を許された(1662年)。

 そして同年パリ大司教職と交換に多くの聖職利権を得てコメルシCommercyに隠棲し「回想録」1717年などを執筆。
 1679年65歳にて死去。
 ルイ14世は、パリ大司教が国王の贖罪司祭となるためにゴンディ神父にパリ大司教職に止まらせる訳には行かなかったのである。

 このフロンドの乱に活躍した人物をみると、権力闘争というものの何故か皆似たような人物ばかりである。
 その上、人の好き嫌いだけで人選したり、同じ穴の狢で実務家やリシュリューのような優れた政治家はいなかった。

 ○当時の典型的な美女として知られるロングヴィル公爵夫人は、人見知りが激しく「身びいき」で妙に引っ込み思案だったりする。
 又、色々な人物にのめり込んだりとお嬢様根性がぬけない上に政治につきものの「駆け引き」や「表裏ある行動」というのには苦手と来ているし……

○ラ・ロシュフーコーもサロン好きで色々と物事に首をつっこみ、首尾一貫性がないうえに面倒くさがり屋で組織に入ることは苦手と来ている。
 フロンドの乱でバスチーュに投獄されたもののしょせん「遊び人」の口である。

 しかし、このように人物像を見てみるとシュヴルーズ公爵夫人というのは突出した人物であった。
 その肖像画から想像してみると当時のフランス王族の鼻デカ顔そのままなので何とも想像できなかった。
 正論9月号2004に往年原節子の写真が出ていた。
 そうシュヴルーズ公爵夫人というのは、原節子そっくりなのである。

 その上、深窓の令嬢とはこういう人物を言うのだと誰もが思った女性であった。

 ところが「三銃士」に書かれていたとおり、誰もがあこがれる深窓の令嬢然としたシュヴルーズ公爵夫人が、妙な「微妙で陰にこもったような言動」をする。
 その結果は今まで書いてきたことである。
 このフロンドの乱の頃になると今までに比べ影響力は落ちると共に、表舞台から去って行くことになる。

 いずれにせよこのころ「回想録」を書き残したサン・シモン公爵も、ルイ14世に関することは少々お追従の所がある。
 だから、史実と間違った記載がある文献に注意が必要である。

2025/09/21

 

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2025年9月20日 (土)

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ第一段階・「高等法院」のフロンド(Fronde parlementaire)……第1幕 

20250916p9162166

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ第一段階

・「高等法院」のフロンド(Fronde parlementaire)……第1幕 




「高等法院のフロンド(Fronde Parlementaire)」……第1幕
 1648年7月下旬、高等法院を中心とする官僚保有者層(旧官僚)は27か条の宣言をマザランに要求した。

 1.地方長官(アンタンダン)の廃止。
 1.国王役人(オフィシェ)のみによるタイユ税(人頭税)の配分と徴収。
 1.高等法院の同意なしの課税廃止。
 1.タイユ税(人頭税)の減額。
 1.徴税請負制の廃止。…間接税
 1.国家財政の運用上の不正と乱用を王権の下に裁く特別法廷の開設。

これに対してマザランは
 1.財務卿を更迭
 1.国境地帯を除いて地方長官(アンタンダン)の廃止。
 1.特別法廷の開設。
 1.徴税請負制の契約の破棄。

 ところが、高等法院の一部の司法官が納得せずマザラン枢機卿を批判した。
……と言っても大した苦情でもなかった。

 ここで注意してもらいたいのは、高等法院の司法官というのは法服貴族といいながられっきとした利権貴族である。
 しかもフーケのように貴族になって4代目というような人々もいたのである。
 即ち、利権貴族としての自分たちの利益を主張したと言うことである。

 小説「三銃士」に書かれているとおり、
 1648年8月26日国務会議は、高等法院の有力メンバーの評定官(判事)ブルーセル(Pierre Boroussel・当時72歳・伯爵相当)を逮捕したことからフロンドの乱が始まる。
(本来なら王令により逮捕されることはない…)

………2日後に釈放されるが以後歴史上には登場しない。

 この辺は「三銃士」に良く書かれているところである。
 逮捕から数時間の内に、パリ市民は地下の穴蔵からブドウ酒の空樽2000個を並べてバリケードbarricadeを構築した。
 バリケードの語源はこれによる。…大樽(バリック)を土で満たしたものを並べた。
 27日の朝には約10万人もの武装した男達が街々を占拠したのである。

 1648年9月13日朝、危険を感じたマザラン枢機卿は、摂政アンヌ・ドートリッシュと国王を連れてサン・ジェルマン・アン・レーに脱出。
 1648年10月22日国王宣言を出し、7月末の譲歩を確約する。
 1648年10月24日ウェストファリア条約締結。
 この条約によってマザラン枢機卿は、自身の権威が高まったのを機にパリへ復帰した。

 さて、三銃士にも登場するゴンディ神父(ポール・ド・ゴンディ)について書かなければならない。

 尚今まで書いてきたとおり、一般の歴史書に書かれていることはなるべく書かないようにする方針なのでその他はフランスの歴史として調べて貰いたい。
 今にして思うのであるが、デュマは当時の実在の人物の性格を正確に表現しいてることに対して驚きを感じざるをおえない。

2004/08/05 23:41:30
令和7年9月20日(土)

 

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2025年9月19日 (金)

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ第一段階「高等法院」のフロンド(Fronde parlementaire)序章

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ

第一段階「高等法院」のフロンド(Fronde parlementaire)序章

 第一段階・「高等法院」のフロンド(Fronde parlementaire)

 およそ5年(1648~53年)にわたる「フロンドの乱」は、小説「三銃士」では第一段階の「高等法院のフロンド(Fronde Parlementaire)」で終わってしまっている。
 その上に、パリ市民に国王の寝姿を見せる行(ぐたり)は第二段階の「貴族のフロンド(Fronde Princie're)」の時期に起きたことである。
 史実は、これによって国王のパリ脱出は結果として出来なかったのである。


「フロンドの乱」の序説(背景)

 アンリ4世のころから国務会議に大物貴族を排除し、新興の貴族(法服貴族)を用いてきた。
 特に司法官、財務官などの(売官)官職は世襲化を認め、国政に参加させた。
 その上ある期間その官職にあれば貴族の称号を得られるようになったのである。
 但し、官職購入価格の1/60に相当する金額を毎年納める必要があった。

***********
 小説「三銃士」の中でフーケの検事総長の官職は15億円(150万ルーブル)であるから、この場合おおよそ2,500万円毎年支払わなければならなかった。
************

 このような事柄について、武闘派貴族(旧貴族)は自らの権益を守るために官職売買とその世襲化には大反対であったのである。
 しかし、悪いことに武闘派貴族は、法服貴族に比べ「文学などの学問的素養」や教養も又、「金」もない…ナイナイづくしであった。
 それでも大貴族や親王などの皇族は、国務会議排除の見返りとして地方の「総督」や「年金」を要求しそれを得ていたのである。

○戦争続きで国庫金ゼロ

★国王税……には直接税と間接税がある。
◎直接税
 農民が負担した所得税の一種であるタイユ税。(人頭税)
 タイユ税は国務会議が総額を決め農民に割り振ったのであるが、割振り役は国王役人(売官の)である。
 国王役人(オフィシェ)は高い官職を買い、その上毎年使用料も払わなければならなかったからその資金を回収するために割振りは公平には行わない。
 そんなような状況であったから税の増収が見込めなかったために、国王は「地方長官(アンタンダン)の制度」の常設化することにした。
 即ち、国王役人を監督、又は代行させるために大法官によって任命された地方長官(アンタンダン)を常駐させたのである。
 尚、又この地方長官は司法から行政、軍事までの権限があった。

●フランスは26の総徴税区(ジェネラリテ)と6つの地方長官管轄区(アンタンダンス)に分かれておりこれらの財務管轄区域にはそれぞれ財務監督官1名によって管理されていた。

◎間接税
 塩税、関税、消費税など
 徴税請負人とは、国王役人に代わり徴収する金融業(フィナンシェ)である。
 即ち、国王に前貸しし、その金額の間接税を集め自らの収入にする。
 当然資金は膨大となるので金持ちの資産家から資金を集め利子を支払う。
 又直接国王にも直接融資する。
 尚、官職の売買も仕事の一つである。
 ……今で言う銀行である。

****************

フロンドの乱の頃になると、

○国王役人(売官)は国王任命の「地方長官」に権限を侵されつつあり、その上国王は新たな官職を売り出すことをしている。

○一方パリ市民(税金を払わない…人頭税・タイユ税)には、増収のためにトワーズ税(パリ城外区に建っている家屋に税をかける…禁令を活用)をかけることとした。
 又パリ市に入ってくる関税の拡大等をしようとしたのである。


★《参考》

パリ市民というのは特権階級である。
 「パリの町民(Bourgeois do Paris・ブルジョワ・ド・パリ)」
 「慣例に基づき、申請人の債務者(デビトゥール)が申請人に給付を履行するだけの財力を有するとの判定が裁判所から下されれば、誰であれ満1年と1日を経た者はパリに在住する町民(ブルジョワ)の資格を取得することの手続きを取ることが出来る。」
 「パリの慣習法」第17条(Article 173 de la Contume de Paris)


★《参考》

フランス国債
 1522年フランソワ1世よりはじまる
 法人としてのパリ市がその機関である市庁を通じて、国王直轄財産を担保に一定額の定期金債券を市民に対して売り出す。
 その代金をパリ市が国王に一括して貸し付けるという方法。
 利息付き消費貸借が禁じられていた時代の市民にとり、投資の道を開く手段。

2004/07/27
2025/09/19修正

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2025年9月18日 (木)

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰシャトレ裁判所と三銃士の素顔・素性_2004_07_23

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ

シャトレ裁判所と三銃士の素顔・素性

2025年9月22日修正

 小説「三銃士」に戻ってみると…ポルトスは「フロンドの乱」のころには、シャトレ裁判所代訴人未亡人・コナクール公爵夫人と結婚したと書かれてある。
(実際には死別しているが)

…では、そのシャトレ裁判所と何であるのかをついでに説明する。

 
 「シャトレ裁判所」(ジュリディクション・デュ・シャトレ)

 パリの子爵領(ヴィコンテ)及び司法代官(国王直属行政長官)管轄区(プレヴォテ)の普通裁判所がグラン=シャトレ(ポン・トーシャンジュの元監視要塞)にあったことからこの名がある。

 このシャトレの普通裁判所は(10世紀以降のフランク王国の侯爵、伯爵、大修道院長などの高官はいろいろなパリの行政権を子爵に譲渡した)パリの子爵が司法権を司法代官(国王直属行政長官)に委任して運用したものである。

 今まで書いてきたようにパリは境界領主によって領主裁判を行っていたのである。

 1674年にこのパリに存在していた領主裁判権はすべてこのシャトレ裁判所の管轄下に統合して置かれることになった。

●国王代官裁判所(バイヤージュ)


 ところが、その後発令された数々の王令により境界線が明確に区分された領主8名に限り国王代官(バイイ)として国王代官裁判所(バイヤージュ)を組織した。

 国王代官裁判所は、高級裁判権の象徴としてその管轄地区内に処刑台と晒し(さらし)台(ピロリ)を有したのである。
…………………………………………………
 シャトレ裁判所は、国王の名において司法代官(国王直属行政長官)によっておこなわれていた。

 司法代官は、フランス公爵(同輩公…王族・大貴族の称号・デュク・エ・ペール)の衣装(小さなコート、ケープに羽付帽子、指揮棒)を付けた。

 尚、任命者は高等法院上席評定官である。

●成員は、

 パリ司法代官(プレヴォ)
 民事・刑事・パリ警察代理執行官(リュートナン・lientenant)
 国王弁護士
 国王代訴官
 以上の高官は赤い法衣なので貴族待遇。(侯爵・伯爵など)

 評定官以下総勢1600名弱。(黒の法衣)


●部門
 1.民事検察室(パルク・シヴィル)
   裁判長・民事代理執行官

 2.上座裁判所(プレジタル)
   裁判長・特別代理執行官

 3.民事部(シャンブル・シヴィル)
   裁判長・民事代理執行官

 4.警察部(シャンブル・ド・ポリス)
   裁判長・パリ警察長官代理執行官(リュートナン・ジェネラル・ド・ポリス)

 5.刑事部(シャンブル・クリミネル)
   裁判長・刑事代理執行官

 6.短衣の刑事部(シャンブル・クリミネル・ド・ローブ・クルト)
   凶悪犯専門裁判所。
   裁判長・短衣の刑事代理執行官
   元軍人貴族出身で、歩兵隊を指揮した。

 7.傍聴官部

 8.国王代訴官部(シャンブル・デュ・プロキュルール・デュ・ロウ)

 9.パリ総徴税区騎馬警察長官裁判所
   平和時の軍人の犯罪
…………………………………………………
 尚、高級軍人は

 軍事裁判所(ジュリディクション・ミリテール)

 1.フランス元帥裁判所(コネタブリ・エ・マレショセ・ド・フランス)

 2.フランス騎馬警察裁判所

   軍籍にある貴族の名誉に関わる係争。元帥邸で行われた。

●その他主な裁判所

 都市裁判所
 教会裁判所
 財務裁判所
 商業裁判所
 宮廷府長官裁判所
   宮廷全域の裁判権。
   国王陪食官に付随する名誉特権に関わる係争の審議。
   成員には90名の騎馬衛兵隊1中隊を含む。

 その他……
  →→ (部分的に筆者が直訳した裁判所等の名称がある)

 以上のようにくどくどと裁判所について述べて来たことは、「シャトレ裁判所」の裁判権はパリの一部しか及ばなかったと言うことである。 

 1674年領主裁判権はすべてこのシャトレ裁判所の管轄下に統合されることになった。
 しかし、直ぐに王令により国王代官裁判所が出来、パリの領主8名が国王代官として1789年の大革命まで国王代官裁判所を組織しているのである。

 当然パリ以外は領主裁判権である。
…………………………………………

 ポルトスとシャトレ裁判所代訴人未亡人・コナクール公爵夫人にもどる。

 シャトレ裁判所のパリ司法代官(プレヴォ)が公爵(?)であるとすると、代訴人は国王代訴官以外は公爵であり得ない。

 ……と言うことでコナクール公爵夫人の公爵は怪しい。

 ……であるが、
 小説「三銃士」の中にいる貴族というのはおおよそ、大革命以後の王政復古時代又は、デュマの時代の第二帝政時代の「何でもあり」貴族の様であるから「大目に見なければ」ならないであろう。

 ちなみに、代訴人(代訴士)は裁判所において、当事者の代理人として訴訟書類を作成することを任務とする司法官である。

 ただ弁護士と違うのは、法廷で当事者の弁護するために弁論を行う事はないと言うことである。


 さて、小説上のポルトスを時代考証的に身分を明らかにしてみよう。

 ポルトスは他の銃士と違う特徴がある。

 貴族としては少々妙な部分である。

 1.ポルトスの半分だけの金の釣り革。
 2.金持ちになりたいため、シャトレ裁判所代訴人未亡人・コナクール公爵夫人との結婚。
 3.男爵位

 ポルトスは貴族出身に間違いないが、平貴族(エキュイエ)であるから貴族の次、三男であると予測される。

 当時近衛銃士隊などの親衛隊に入隊するのは、貴族の次、三男が多かった。

 又、通常貴族の子弟はパリのAcademyに行くので、16歳で卒業して軍隊に入ったと思われる。

 尚、ダルタニャンは田舎の貧乏貴族(伯爵)の長男で一応領主貴族。

 (簡易的に伯爵と名乗る。正式には子爵)

 アトスは当然領主貴族。

 アラミスは爵位貴族(小貴族)の3男以下で一族で司教区を持っていたか、叔父(ゴンディ神父のように)に司教がいたと予想される。

 「第5巻 21 ピカルディー街道」で

 「リシュリュー殿は貴族で、家柄はぼくたちと同じ、ただ地位だけが上だった。………」と述べている。

 (従いリシュリュー枢機卿と同じように、神父になるべき人物が別にいたと想定・普通当時の習慣で長男は嫡子・次男は神父・三男は軍人)

 従って、神学校の後司祭を経てパリ大学神学部に学び司教の職につくと言う具合である。

 さて、ポルトスはどうであろうか。

 当時の貴族の常識では……


 1.威信のための消費を「ケチル」のは恥。(家門の名誉が何よりも大切)
…………そのために借金をした。

 2.不名誉である。

 (金持ちのブルジョワと婚姻関係を結ぶ)
…………コナクール公爵夫人は法服貴族であるからブルジョワ出身と推定される。

 法服貴族は当然持参金つきのブルジョワ出身の女性を妻にすると思われる。

 3.爵位貴族ではない。

…と言うように一般の貴族の概念から遠い。

 よって、ポルトスは騎士(シュヴァリエ・chivaler)階級であろうと思われる。

 尚シュヴァリエ・chivalerは「戦士にして家臣」というところから来ている。

 発祥は、10~11世紀西フランク王国でmiles又は、milites「騎兵を示す」と呼ばれる独立の小地主層が現れた。

 ……フランク王国の騎兵(caballaius)

 騎兵になるにはお金がかかる。

 何しろ馬を用意しなければならない。

 当時「馬に乗る」という行為は「高い身分」を象徴し11世紀以降貴族(noblies・nobless)と同格になった。

 但し、騎士(シュヴァリエ)の称号を持つからと言って下級というわけではない場合がある。


 例えば、映画にもなった有名な訴状事件の平貴族(エキュイエ)ド・ラ・リヴィエール(元近衛騎兵隊隊長)の父親は、騎士の称号を持つクーシーの領主で、王妃の宮殿付き総監。

 叔父の一人は、国王の寝室付き侍従兼サン・ミッシェル騎士団員。

 又、マルタ騎士団大使、ジャン・ジャック・ド・メーム騎士(シュヴァリエchivaler)は「バイイ」の称号(国王代官・公爵待遇)をもっていた。

(これは例外・即ち聖職者だからである。……カソリックによって権威づけられていた。)

 しかし、爵位貴族の中には騎士(シュヴァリエ)やなどの下級貴族は貴族でないと考えていた人物もいたのは事実である。

 フランス騎馬警察裁判所・高等法院等に提訴された「身分違いの結婚」で……

 ことの始まりは、コリニー侯爵(ルイーズ)夫人(未亡人)の邸宅の隣の広大で豪華な屋敷が売りに出された。

 これを購入したのが近衛騎兵隊隊長を退職したド・ラ・リヴィエール騎士(シュヴァリエchivaler・騎士爵)。

 隣と言うこともあってド・ラ・リヴィエール騎士は、コリニー侯爵(ルイーズ)夫人と親しくなり、結婚しようと言うことになり妊娠もした。



 これを義理の父であるラビュタン伯爵が知ることになり、コリニー侯爵夫人(リヴィエール夫人)を連れ出して幽閉した。

 このように強制的に分かれさせて、出来た子どもは商家に預けたという。

 しかし、子どもは見つからずという後味の悪いものになった。

 このことに対し果て・・・




 義理の父であるロジェ・ド・ビュシー・ラビュタン伯爵(宮廷貴族で有名な・王族の血を引く名門貴族・軍人作家、ド・セヴィニェ夫人の従兄)は、娘婿ド・ラ・リヴィエールを貴族ではないと社交界を通じて18通ものも誹謗中傷文を出している。

 又、コリニー侯爵夫人(リヴィエール夫人)の叔母であるド・セヴィニェ夫人もド・ギトー伯爵にしたためた書簡(1682年1月23日)でド・ラ・リヴィエール氏を貴族と認めていない。

 尚、令嬢はコリニー侯爵(ルイーズ)夫人(コリニー侯爵ギルベール・ド・ランジャック未亡人)で結婚当時38歳、リヴィエール氏は39歳だった。

 又、面白いことにド・ラ・リヴィエール氏の方がラビュタン伯爵よりも資産家だった。
…………………        …………………………

 以上により、三銃士の主人公が「フロンドの乱」においてどの様な立場立ったのか理解を深めることが出来ると思うのである

令和7年9月16日(火)
2004_07_23

 

 

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2025年9月17日 (水)

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ 第9章 第2部 二十年後 フロンド(Fronde)の乱 

20250916p9162166


D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ 第9章 第2部 二十年後 フロンド(Fronde)の乱 


フロンド(Fronde)の乱

1.背景とその前夜(王妃アンヌ・ドートリッシュの権力継承)

 乱や暴動というものは、経済問題から発展することが多い。ルイ13世はその在位中に戦争を継続したために財政は赤字続きであった。
 ……そのた理由もあったが。
 そして、国王の死後マザランが摂政の諮問会議メンバー即ち宰相になったときから、色々な問題が噴出してきたのである。
 国民や貴族、その他新興の法務貴族などの不満が表に出でくるというのは王権が弱まった証拠である。
 国王ルイ13世はその死を悟ったときに、王国総代官は弟のガストン・ドレルアンとした上で死後の複数摂政体制を宣言した。
 その宣言は高等法院(パルルマンParlement)の高官を王宮に呼び寄せ、王妃アンヌ・ドートリッシュと共に連署させたた上高等法院に登記させたのである。
 わかりやすく言えば王妃アンヌ・ドートリッシュは摂政と言いながら摂政会議の1メンバーにすぎない事を宣言させてたのである。
……………………………………………
 高等法院(パルルマンParlement)は以後色々な場面で登場してくるのでここで簡単に紹介する。
 高等法院は、司法組織の最終審判を下す最高法院(クール・スヴレーヌ・その他租税法院、会計法院、通貨法院、大評定院)のひとつである。
 尚、この最高法院で下した判決には控訴が許されなかった。
 部門としては7部門に別れていたが、「法律」「王示」「王令」等の記録を司り国王の命令はこの高等法院に登記する必要があった。
 ここで大審部(グラン・シャンブル)のみを記載してみる。
 成員は、
 高等法院院長1名(大法官とともに売買されることのない官職)
 裁判長9名以下
 その他50名以上の上級司法官。
 上級司法官は、評定官(判事相当)、法院検事、総代訴官等。
 ちなみに、彼らは「国王陪食官・コマンソー ・デュ・ロウ」いう称号で王宮内延臣と共に呼ばれたと特権貴族階級である。
 正確には通称・法服貴族(noblesse do robeノーブレス・ドゥ・ローブ)という。
 尚、従来からの出生貴族は「剣の貴族」(noblesse d'e'pe'e)と言う。
 法服貴族とは、平民が売買された授爵官職(上級の司法官・行政官)を買いそれによって爵位を得て貴族になった新興の貴族である。
 (同僚との間で強固な社会集団を形成)

 三銃士にもどってみると、アトスが司法権を持っていた旨が出てくるので少し説明する。
 ルイ14世時代初頭まで、パリの半分以上は領主(セニュール)貴族らの管轄下にあった。
 即ち、領主は自分の領内における司法権をもっていた。
 従って、国王の裁判権域は高級裁判権を持つ(中級は民事及び軽犯罪・下級審は領主が口を挟む余地は不可能だった。)領主、教会領主その他の権力よりも小さかった。
 尚、当時パリにおいて高級裁判権を持っていた領主は164街区をその管轄下に置いていたパリ大司教を筆頭にほぼ30名であることが判明している。
 高級裁判権を有する領主の司法権は絶対的なものであり、「国王専決事件・カ・ロワイヨー」以外すべての民事および刑事事件の裁判権(領地内のすべての領民、他領民、国王の臣民)を有しいてた。

 「国王専決事件・カ・ロワイヨー」
 君主侮辱罪、君主特権に対する侵害、大逆罪、通貨偽造、国王に裁判権が留保された訴訟事件。

………………………………………………
 1643年5月14日国王が崩御すると王妃アンヌ・ドートリッシュはその翌日5月15日(18日という説もあり)高等法院に出向き、親臨法廷で王の遺言(宣言)を取り消しその絶対権力の自由裁量権を宣言したのである。
 即ち事実上のクーデターである。

2004/07/23 _令和7年9月17日(水)

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2025年9月16日 (火)

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ三銃士Q&A まとめ1 2004/07/23

20250916p9162167

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ三銃士Q&A まとめ1_2004/07/23

三銃士Q&A

Q1、ダルタニャンは、近衛銃士隊の副隊長(副官)に任命される。
 この時リシュリュー枢機卿が予め書いていた「任命状」は何か?
「枢機官はテーブルのそばにより、立ったまま、半分以上書きかけた羊皮紙の上になお2、3行書きたして、その上に判を押した。」

A1、リシュリュー枢機卿・親衛隊士官任命状。
 理由・当時国軍の事実上の支配権は、フランス歩兵司令官である。
 従い将校の任命状を発行していたのは国王名でなく歩兵司令官である。


Q2、シュヴルーズ公爵夫人(公妃)が公爵夫人でなければならない訳は何か?
「愛しのダルタニャン」の中で伯爵夫人になっている。尚史実は公爵夫人。

A2、宮廷では国王や王妃の臨席の場で(折りたたみ)椅子に座れるのは公爵夫人以上。
 又国王臨席の席では、1400年以前に家系を遡ることが出来る由緒正しい貴族は全員座って良いという様な規則があった。(正式にはルイ14世から)
 従い、王妃アンヌ・ドートリッシュのナンバー1(お話相手・側近)であったシュヴルーズ公爵夫人は、公妃でなければならない。
 後年ルイ16世の王妃マリー・アントワネットの「お話相手」ポリニャック伯爵夫人は「公爵夫人」の称号をもらっている。
 (教育係女官・年俸35,000リーヴル)


Q3、コンスタンス・ボナシュー(Constance Bonacieux)夫人の足を見てダルタニャンは貴族でないと判断したがその理由は?
 「年のころは25か6くらい、なかなかの美人である。
 髪の色は栗色で、目は青く、鼻はやや仰向きだか、歯並みはきれいで、バラ色と乳白色の肌はまるで大理石のよう。だが貴婦人と見まがうばかりの特徴はそれでおしまいだった。 手は白いには白いけれど華奢な感じがなく、足の形も身分のある婦人とはどう見ても受け取れない。……」

A3、当時の貴族の必修の心得は、音楽をとってみては優れた演奏家。
 そして、美しい舞踏家・踊り手であることである。
 事実、王妃アンヌ・ドートリッシュはリュクサンブール宮殿で上演されたバレエに「女神」役で出演していたし、ルイ14世の愛妾・ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール公爵夫人もバレエの名手である。
 (アンリエット・ダングルテールの元侍女)
 当然、王妃マリー・アントワネットはバレエの素養のすばらしいのが結婚の条件として入っていると言われている。
 従い、レフェランス(お辞儀)の仕方、歩き方、姿勢の取り方全て舞踏(バレエ)のポジション(1番の形、2番の形、3…)で教えられたのである。
 よって、コンスタンス・ボナシュー(Constance Bonacieux)の足はバレエシューズを履いてバレエで鍛えた足、変形した小さな足ではないと言うことから「貴族」でないと判断した。


Q4、ブラジュロンヌ伯爵領の相続人ブラジュロンヌ子爵は、何故子爵なのか。

A4、伯爵の長男は子爵(准伯爵)である。
 長男(跡取り息子)なら通称として伯爵と名乗るのが通例。
 だからブラジュロンヌ伯爵領のブラジュロンヌ子爵というのは正しい表現であるが一般的ではない。
何故一般的ではないかと言うと「席次」の問題が出る。即ち伯爵から始めると……
伯爵
伯爵の次三男
子爵
子爵の次三男
男爵
男爵の次三男
(准男爵)
騎士
(エスクワイヤsquire)
勲爵士
ポルトス
 即ち、本来伯爵と名乗らないために伯爵の次三男の次に席次がくる不都合が生ずる。
ポルトスは最下位である。


Q5、1625年、バッキンガム公爵がランブイエ公爵夫人(サロン)で開かれた歓迎舞踏会で10回も着替えたあげく、純白のベルベットにスターリング・ダイヤ(一説には真珠)がちりばめられていた。
 ダンスのステップごとにパラパラと床に落ちた。
 さて、この宝石の金額はいくらか?

A5、およそ8万ポンド。
 尚ランブイエ公爵夫人のサロンのホスト役は、ヴァンサン・ヴォワチュール(元ガストン・ドルレアンの家臣)


Q6、コンスタンス・ボナシュー(Constance Bonacieux)夫人はなぜ貴族でないのか?

A6、小説の中では庶民の代表としてかヒロインとして、ボナシュー夫人が登場する。
 わざわざ、貴族でないと散々ことわっている。
 このコンスタンスは、デュマと違って非常に清純な女性として描かれている。
 当時の貴族というのは性的に乱れていたから「庶民」にしたのか不明。
 デュマは第二帝政の時、即ちNapoleon3世の時代の人物である。
 有名な逸話として、細君の間男と一緒に3人で一緒に寝たなどという話がある。
 出掛ける予定を変更して帰ってくると下階の細君(美人の女優)の部屋に駆け込んだ。(部屋が暖まっていたので・仕事部屋は3階の3部屋)すると、間男を細君が連れ込んでいた。

 さて、コンスタンスはラ・ポルト氏が名付け親で、その紹介で宮殿に入った事になっている。
 ここでまず不思議なことがある。

1.ラ・ポルト(1652年、国王ルイ14世に対する事件の責任をとらされ罷免・追放)は、良く知られているとおり王妃アンヌ・ドートリッシュの執事である。
 要するに非常に高官であると言うことである。
 当然貴族であり誰彼の名付け親になるような人物ではない。
 …となるとコンスタンスはラ・ポルトの縁者即ち貴族と言うことになる。
 後年このクラスの侍従貴族はシュヴァリエ・chivalerが勤めた。

2.王妃アンヌ・ドートリッシュの女官というのは、貴族の夫人であることは決まっているから「時代考証」上問題がある。
 (後年出生貴族の血筋の法服貴族の夫人も勤めた)

3.女官の年収はおおよそ最低でも1万ルーブルである。
 今の金にして1,000万円の年収である。
 (無税)一般庶民の80%は年収50万円程度であり、そのうち18%は家賃であったから破格の収入である。
 もっとも、女官長・「お話相手・側近」ともなると天井知らずでシュヴルーズ公爵夫人はおおよそ5万ルーブルは貰っていたであろうと思われる但し、これは想像。
 ちなみに、王妃マリー・アントワネットの「お話相手」ポリニャック公爵夫人は「教育係女官」年俸35,000リーヴル+αで総額50万ルーブル。
 女官長・ランバル大公妃は15万リーブル。
……と言うわけで、庶民がなれる職ではない。

4.コンスタンスが庶民の出であるとするとバレエの素養は期待できない。
 しかし、宮廷のおける王妃アンヌ・ドートリッシュは「王妃アンヌ・ドートリッシュ・バレエ団」の団長の様な立場であるから「バレエの素養」がなければ女官になれない。
 第一、レフェランス(お辞儀)の仕方一つ取ってみても庶民とは大違いである。

 藤本ひとみ「愛しのダルタニャン」でコンスタンスが王妃アンヌ・ドートリッシュのお気に入りナンバー1(ナンバー1は、公爵夫人と決まっている)になる夢などを考える場面がある。
 しかし、宮廷の席次というのは厳しく決められていて、席次の下の者は席次の上者に話しかけてはならないと言う不文律があった。
 従い、貴族でないコンスタンスはナンバー1になると言う様なことはあり得ない。

 藤本ひとみ「愛しのダルタニャン」では……
「コンスタンスは、シュヴルーズ伯爵夫人が以前に使っていた侍女で、紹介者は、彼女の名付け親のラ・ポルトだった。身分は低かったが、なかなか賢く、気転の利くコンスタンスを、シュヴルーズ伯爵夫人は王妃アンヌに推薦した。」

「コンスタンス、あなたが王妃様の下着係になれたのも、私のおかげでしたよね。さぞ私に感謝していることでしょうし、今回のことを心配してくれてもいることでしょう」

とあるが、侍女でなく小間使いだろう。
 侍女なら貴族出身の筈だからである。

 「この者が、今日から、ボナシュウ夫人と一緒に下着係を務めることになりました。名前は、ミラディ・ウィンターと申し、歳は、今年で二十歳でございます」
とミラディ・ウィンター夫人が登場するがこれも時代考証上はあり得ない。
 今まで述べているとおり未亡人だからであり、嫡子がいなければ男爵夫人も名乗れない事もある。
 ミラディ・ウィンター夫人は、貴族出身ではないはずだが、19世紀まで各国宮廷人の座右の書として読まれた「宮廷人論」(1528年刊・ウルビーノの宮廷とカスティリオーネ)を実践するには生まれながらにして貴族教育を受けないと無理な話であると言われている。
 即ち、貴族階級や上級ブルジョワ階級は子弟、子女に生まれながら貴族教育をするのである。
 この点ミラディは失格。

 又、「31・ベチューヌのカルメル会の修道院」にケティの名でコンスタンスはかくまわれているが、これも貴族でないとあり得ない話である。
 以上からコンスタンスは、「バレエの素養」がないとしても貴族にしないとどうも辻褄が合わないのである。

Q7、ダルタニャンは何故すぐに近衛銃士隊(Mousquetairs de la Garde)に入れなかったのか。

A7、メゾン・デュ・ロウ(Maison du Roi)と呼ばれた親衛隊は、平時には将校を確保するために設置されている。
 即ち貴族出身で将校の資格のある実績ある軍歴が必要だった。
 従い、親衛隊員は国軍に入ればlieutenant(リューテナント・中尉)の資格があったと思われる。
 一般に親衛隊員の将校の階級は国軍に対して二階級上に見るのが常識である。
 即ち、近衛銃士隊長・大尉・Captainは、国軍では将軍の扱いになる。
 参考・将校の階級→lieutenant→Captain→Colonel(カーナル)→General。
 ダルタニャン伯爵が、晩年元帥になっているのはこの理由によるものと思われる。
 将軍→元帥(国王任命の名誉職)


Q8、ポルトスは何故男爵位を望んだのか。

A8、貴族と言えば普通伯爵で、爵位を買うとしても実際買いやすかった。
 子爵は、伯爵の子に決まっていたから、子爵、男爵というのは貴族では少なかった。
 王妃マリー・アントワネットの首飾り事件(The Affair of the Necklace)の首謀者ラ・モット伯爵夫人(ジャンヌ・ド・ヴァロア)も、元は名門ヴァロア家の末裔と言いながら偽貴族即ち、爵位を買った夫の夫人になった。
(王妃の首飾り上・下・アレクサンドル・デュマ著/ 大久保和郎訳 東京創元社 創元推理文庫シリーズ )
よって 実は不明。

2025年9月14日修正

 

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2025年9月15日 (月)

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ・D'Artagnan・三銃士の疑問 藤本ひとみ「愛しのダルタニャン」考  

20250916p9162164

D'Artagnan物語・三銃士Ⅰ・D'Artagnan・三銃士の疑問

藤本ひとみ「愛しのダルタニャン」考  

 

 平成15年7月11日から連載されている新潮社のWeb文庫である。

 冒頭に述べている通り
「彼と一夜をともにした絶世の美女の名はミラディ、枢機卿の命を受けた女諜報員(スパイ)だった。」と「三銃士もの」と名乗りながら主人公はミラディである。

Dumasの小説(以下原作)の三銃士は1625年からラ・ロシェルのプロテスタント軍攻防戦が終わった1628年まで、リシュリューは枢機卿が宰相となった直後の4年間を背景としている。

作品(「愛しのダルタニャン」)は、従来の三銃士に抜けていたダルタニャンの素性(後年のモデルの)を正確に記載。
 その他この時期の史実(バッキンガム公爵の真珠ばらまき事件や1625年アミアンでの事件)を解りやすく挿入してより小説の厚みを付けている点では評価出来る様に思う。

 又、女性作家特有な書き回しとして男性像。
 特にダルタニャンやバッキンガム公爵の素顔など大して詳細に説明しなくとも顔が浮かんでくるというところはサスガとしか言いようがない。
 小説の内容になるとこの時代の背景として宮廷内部の事件が中心となる。
 事実は「小説よりも稀なり」であって原作よりも実際にあった出来事の方が小説らしい。
 さて、ここに人物設定として主人公である「ミラディ」に関して英国での素性を明らかにしている。
 シェフィールド男爵夫人ミラディ・ウィンター。
 未亡人であり結婚は縁故をもとめてのことであると書かれている。
 しかし、現在よりも身分制度の厳しい時代に一目で貴族階級かどうか解る英国に置いて「ミラディ」の素性は解りにくい。
 映画「マイフェアレデイ」を見てもらえば解るとおり言葉や立ち振る舞いからして違う。
 何せダイアナ妃を見てみれば解るとおり「貴族階級」というのはあのような身なりをしている。
 簡単に書けば長身・金髪である。尚戦前の将校と下士官は身なりだけで区別がついた。

 「愛しのダルタニャン」は平成16年5月30日現在第46回26章になっている。
 物語も第22回 シュヴルーズ伯爵夫人(シュヴルーズ公爵夫人でなく)が登場する頃から三銃士を離れて宮廷事件になる。

 第25回10章に「この者が、今日から、ボナシュウ夫人と一緒に下着係を務めることになりました。
 名前は、ミラディ・ウィンターと申し、歳は、今年で二十歳でございます」
下着係は、わずかに微笑んだ。

「シェフィールド男爵未亡人ミラディ・ウィンターでございます。
 ミラディとお呼びくださいませ」とシェフィールド男爵未亡人ミラディ・ウィンター事ミラディ(ミレディ)が宮廷婦人として登場する。
 そして、ミラディの陰謀はシュヴルーズ公爵夫人を陥れてアンヌ・ドートリッシュの宮廷から第33回 第二部 第1章で追放に成功する。(1625年)

 「当日付けで、王妃アンヌは、シュヴルーズ伯爵夫人に領地謹慎を申し付けた。
 シュヴルーズ伯爵夫人の領地は、トゥレーヌ地方の中心都市トゥールにあり、パリからは約六十リュー(約二四〇キロメートル)のかなただった。」

ここまでくると私などは違和感を憶えざるおえない。


 まずシュヴルーズ公爵夫人が何故伯爵夫人に格下げになるのかが全く不明である。
 シュヴルーズ公爵夫人は史実上の人物であるばかりでなくこの時期、宰相リシュリュー枢機卿と同様な強力な権力を誇った人物である。

 夫君シュヴルーズ公爵は、王妹アンリエット王女と英国皇太子の婚姻の交渉の実務者として英国国王の代理を務めるほどの重要人物である。
 その夫人と言いながら、事実上その実務を取り仕切ったのがシュヴルーズ公爵夫人マリその人である。
 従い「愛しのダルタニャン」でミラディで等に簡単に罠を掛けられて失脚するというのはフィクションとしても解せない物である。

 史実は1626年5月王位継承者問題に端を発した宰相リシュリュー枢機卿暗殺計画が発覚しその首謀者としてシュヴルーズ公爵夫人は追放されたのである。
 1625年に既に追放されていたとすればこの事件は無かったことになる。
 実行者 シャレー侯爵(アンリ・ド・タレラン)はシュヴルーズ公爵夫人の取り巻き(愛人)であったから尚更である。
 又シュヴルーズ公爵が伯爵なるというのは史実としては未聞のことである。
 当時シュヴルーズ公爵夫人マリ・ド・ロアンはその出身の家柄が良いことを(歌に詠われるように)誇りにしていたのである。
 又もう一つ気になることは、「シェフィールド男爵未亡人ミラディ・ウィンター」である。
 即ち、未婚の外国人の貴族(イギリス籍)がアンヌ・ドートリッシュの宮廷の衣服の係りになるということである。
 たとえばリュィーヌ公爵夫人(未亡人)マリ・ド・ロアンは、リュィーヌ元帥(宰相シャルル・ダルベール・ド・リュィーヌ公爵)の戦死(戦病死)により未亡人でとなったとき、規定により宮廷から出なければならなかったのである。
 そして、宮廷復帰の実現のために愛人であったシュヴルーズ公爵に言い寄って夫人に納まったのである。
 即ち、「シェフィールド男爵未亡人ミラディ・ウィンター」は規定により宮廷婦人になれない。

 尚、後日談としてマリ・ド・ロアンの結婚に関し、国王ルイ13世は不快に感じ、シュヴルーズ公爵を宮廷から排除(追放)する思惑もあったと伝えられている。
 しかし、それを実行に移せなかったのはシュヴルーズ公爵が好人物であっただけでなく中々の実力者(宮廷人としても)であったからである。

 杜撰(ずさん)な時代考証は脚本家・三谷幸喜によく見られることではあるが、歴史小説はその時代のルールによって書かなければならない。

 「歴史をこちらに引き寄せろ」とは、池波正太郎氏の言である。(北原による池波『梅安影法師』講談社文庫版解説・再掲)
 即ち、人物設定で「シェフィールド男爵夫人ミラディ・ウィンター 」はフランス人の貴族と結婚したことにすれば話は簡単につくことである。

 同様に、小説で重要な役目をすることになるコンスタンス・ボナシュー(Constance Bonacieux)はどうしても貴族でなければ説明がつかない。
 原作が平民であるから平民としたのであろうが原作でも物語の後半で貴族の扱いであるから齟齬(そごう)をきたしている。(平民なのに修道院にかくまわれる)

 「愛しのダルタニャン」では「コンスタンス、あなたが王妃様の下着係になれたのも、私のおかげでしたよね。
 さぞ私に感謝していることでしょうし、今回のことを心配してくれてもいることでしょう」とシュヴルーズ公爵夫人に言わせているが時代考証から言っても無理がある。

 私の設定としては、ボナシュー(Bonacieux)氏は成り上がり貴族の伯爵にするのがよいのではないかと思う。
 当然爵位は金で買ったものであり、「20年後」で乞食になっていることから貴族になるための金の借金でその後破産したという設定ならば納得が行く。
 コンスタンス・ボナシュー(Constance Bonacieux)は、その立ち振る舞いや容姿からアンリ4世(アンリ・ド・ナヴァール)の時代の名のある貴族の末裔ということで収める。
 ボナシュー(Bonacieux)は貴族になるために多額の借金をし、良家の血統の貧乏元貴族の末裔の美貌の女性を妻とした。
 当然コンスンスは寄宿学校を出て家庭教師の資格を持つ。
 従い、貴族らしい足腰をしていないことは説明が出来る。

 史実としては、後のマントノン夫人(Maintenon,Francoise d'Aubigne de ルイ14世の事実上の晩年の夫人)の例がある。
 従いアンヌ・ドートリッシュの宮廷で働く、というのも由緒ある貴族の末裔の貴族。
 家庭教師。という資格であれば何とか採用の基準に達し、コンスタンス・ボナシュー(Constance Bonacieux)としても主人の膨大な借金の返済ため粉骨して働くというのが現実味を帯びている。

小説の展開としては、やはり「ミラディ」を主人公としては軽すぎるというのが私の本音である。
 英国でもスパイや諜報員というのは昔から上流階級の仕事である。
 男性でもCambridgeなどの大学でこれはと思わせる秀才がスカウトされる。
 又英国でCambridgeに入るにはPublicschoolに通わなくてはならず下層階級の子弟入れるはずもない。

 即ち、「ミラディ」には原作からしてもそうだが知性と品格がないのである。


 やはり、この小説はダルタニャンとコンスタンスとの恋愛小説として書かなければどうも話は続かない。
 又、コンスタンス・ボナシュー(Constance Bonacieux)が平民であると、身分制度が厳しく平民を人間と思わない時代でに生きたダルタニャンにとっては当然コンスタンスは結婚対象になりえない。
 原作でダルタニャンに種々依頼する姿は貴族の宮廷婦人そのままである。
 原作では、修道院に幽閉されていたコンスタンスはミラディに毒殺されてしまうのであるが、ここのところが実際の史実と結末と繋がらない。

 従い私ならこの様に変える。
 コンスタンス(伯爵夫人)はシュヴルーズ公爵夫人の側近として仕え絶大な信頼をえている。
 1626年5月、「宰相リシュリュー枢機卿暗殺計画の発覚」。
 この事を情報網からいち早く察知したシュヴルーズ公爵夫人は、コンスタンス(伯爵夫人)に忠勤の褒美と宮廷での情報源として残すために、リシュリュー枢機卿に「暗殺計画」を密告することを命令する。
 それは急を要しリシュリュー枢機卿に情報が伝わる前にリシュリュー枢機卿に伝えなければ意味がない。
 それを察知したミラディ・ウィンターは真実とシュヴルーズ公爵夫人の陰謀を阻止しようとコンスタンスの後を追うがダルタニャン達に見つかり処刑。
 おなかを押さえ、息を切らしてリシュリュー邸に急いだコンスタンス(伯爵夫人)は「暗殺計画の発覚」のヴァランセー騎士団長の密使よりも一歩早く到着した。
 リシュリュー枢機卿に面会し事の顛末を話そうとしている丁度その時密使が到着。
 コンスタンスは密告の褒美に「ダルタニャンの昇進」と「ボナシューとの離婚 」及び「ダルタニャンとの結婚」を願い出る。
 密告には褒美がつき物であるし、ダルタニャンとの子供を妊娠していると言うことを白状すればリシュリュー枢機卿も納得が行く。
 Catholicの離婚は出来ないことになっているが、これも事実上結婚してないと言うことをでっち上げれば離婚出来ることとなっている。
 事実コンスタンスはボナシュー伯爵と別居状態であるから成り立つと言う物である。

 でめでたし めでたしである。そして、小説の通りボナシュー氏にも手切れ金がリシュリュー枢機卿から渡されたと言うわけである。

これで史実が繋がった。

令和7年9月15日(月)

 

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