D'Artagnan物語・三銃士Ⅱ

2014年6月 6日 (金)

ダルタニャン 「砂丘の戦い」1658年

ダルタニャン 「砂丘の戦い」1658年

1658年6月14日早朝5時、テュレンヌ旗下のフランス軍は行動を開始した。しかし、ドンファンのスペイン軍は朝5時は戦闘開始時間ではないと無視した。
このスペイン軍には、フロンドの乱で亡命したコンデ大公軍とジェームズ2世(ステュアート朝)の王党派亡命軍が加わっていた。

ものの本にはコンデ公が
「30分以内に戦いに負けるところが見られるぞ」とグロスター公ヘンリーに言ったという話しがある。
このスペイン軍はこのダンケルク包囲の援軍を送るにあたり、行軍に支障をきたした砲兵隊を残して進撃してくるほどのいい加減さであった。
スペイン軍は、海と運河に挟まれた小高い砂丘の上に陣取った。

フランス軍の攻撃は、8時に開始された。
それは小高い砂丘に対しての 海岸寄りの砂浜から。ここにイギリス海軍の艦砲で援護されたフランス軍、イギリス軍歩兵が突撃。
この攻撃で、騎兵を率いたジェームズ軍は突撃を繰り返したが敗走するばかりであった。
仕方なくスペイン連合軍は予備部隊も投入するも、今度は戦線の反対の運河側からテュレンヌの砲兵隊が威力を発揮した。
この挟み撃ちによってスペイン軍は崩壊し、約4時間で戦闘は終わってしまった。

この戦闘での損害は甚大で、イギリス王党派のジェームズ軍は、二個連隊全滅、近衛連隊降伏(投降)という惨憺たるもの。
ここでジェームズやグロスター公ヘンリーは戦闘の混乱にかろうじて逃れたのがせきのやまだった。
ここでフランドル地方を転戦していたダルタニャンは、歩兵部隊を指揮(ルテナント・士官)しておりこのダンケルク包囲戦にも参加した。

ダンケルクは、「砂丘の戦い」のあと10日で陥落し、ダンケルクは英国との協定通りイングランドに引き渡された。

この時に、ダルタニャンは近衛銃士隊隊長代理候補になった。(但し、官職は購入する規定)
この時の近衛銃士隊隊長代理は、マザランの甥、銃士隊隊長は国王。
マザランの甥の近衛銃士隊隊長代理(プレ・キャプテン・ルテナント)は戦闘に参加しないので、事実上ダルタニャンが精鋭部隊の近衛銃士隊を率いたことになる。

この後テュレンヌ旗下のフランス軍は、フュルヌ、ディクスモイデ、内陸部のイーペル、アデナールデなどを攻略。
ここでテュレンヌ旗下のフランス軍に進撃停止命令が出た。
それは、摂政アンヌ・ドートリッシュがルイ14世が回復した機会にと対スペイン和平を望んだと言うことである。
それは1658年6月14日ダンケルクを攻め落とした前後のことで、カレーにいたルイ14世が熱病にかかって瀕死の状態になった。
そして、6月29日には危篤状態になる。
それが物の本には「アンチモンを秘蔵のワインに混ぜたもの」を飲ませたら回復したというから良く分からない。
そして、元気になると看病していたマリー・マンシーニと共にパリへ帰ってしまったという。
ここでマリー・マンシーニとは、マザランの姪のマンシーニ三姉妹の1人である。
このマンシーニ姉妹とルイ14世との係わり合いは深く、先ず1654年オーランプ・マンシーニをクリスマスの女王に指定したことから関係が明らかになった。
ここでオーランプ・マンシーニが王妃になるかもしれないと言う噂が流布され、アンヌ・ドートリッシュが激怒した。(モットヴィル夫人 伝)
この結果としてオーランプ・マンシーニは、即座に結婚させられソワッソン伯爵夫人として宮廷に残る事になった。(後に 宮廷の女官長)

イギリスでは、1658年9月3日にイギリス・護国卿オリバー・クロムウェルが病没し大転換になる。

そして、ダルタニャン物語 第3部 「ブラジュロンヌ子爵」に続くのである。

尚、この熱病にかかったルイ14世の話として、鉄仮面の話やルイ14世が入れ替わったという小説などがある。
とかくルイ14世に関しては出生から種々の疑惑があり、大革命の時にブルボン王朝外の王族の墓(バロアその他)が徹底的に破壊し尽くされたために今では検証しようがない。

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ダルタニャン近衛銃士隊隊長代理候補になる「砂丘の戦い」1658年

ダルタニャン近衛銃士隊隊長代理候補になる「砂丘の戦い」1658年

D'Artagnan物語・三銃士は、2006年まで書き連ね
D'Artagnan物語・三銃士I
http://www17.plala.or.jp/syuun/page236.html
D'Artagnan物語・三銃士II
http://www17.plala.or.jp/syuun/page251.html
で一端終わっている。
その後又3年経って、2009年に継続したものの又放置して2012年に今になっての再開。

そこでは、
第1部 「三銃士」の今までのあらすじ
第2部 「二十年後」の背景とあらすじ
で--ダルタニャン近衛銃士隊隊長代理候補になる「砂丘の戦い」1658年を経て
第3部 「ブラジュロンヌ子爵」の解説にする予定であった。

こんなふうに6年間も放置しておいたら最近ではダルタニャンものとか、この当時のフランスの歴史というのが多く書かれているのには驚いた。
以前は、シュヴルーズ公爵夫人というのは小生の記事しかなかったと記憶する。

ここで3年空いてしまったというのは、実のところダルタニャンは単なる軍人であってフランス史の中では埋没している。
この小説の第二部と三部の間には、フランスとスペイン、イギリスとの絡みそして、ルイ14世そのものの問題点が山積している。

それで実のところまだ「ぐうたら」であったルイ14世は、摂政アンヌ・ドートリッシュの侍女達などとうつつをぬかし、その一方で厭きると戦争に出かけるという後年の姿が垣間見えることになる。
そして、そういう宮中では女性がらみ、その後には正式に公式愛人を囲うことになるルイ14世の話しという女性関係を書かないと第3部に繋がらない。
なんと言っても第3部「ブラジュロンヌ子爵」はルイ14世の公式愛人が絡む政争だからである。
そしてD'Artagnan物語での主役はルイ14世に移り近衛銃士隊隊長ダルタニャンは、史実上では1664年にニコラ・フーケ(Nicolas Fouquet・ベル島侯爵、ムラン子爵、ヴォー子爵)を逮捕している。

尚、時系列によるとフーケは1650年にパリ高等法院の検事総長職を購入している。
1655年3月には、新税と官職売り出しの発布がなされ、ルイ14世はなんと侍女達との乱交で性病をうつされるという事件がある。
この宮廷の侍女達の中から、後にルイ14世の公式愛人が選ばれることになるから元々は全て貴族出身のお嬢様の筈なのだが色恋沙汰に関しては節操がない。
こう言う問題から貴族達が大革命でやり玉に挙げられ、ギロチンにかけられる原因を作っているというのは後世の歴史家の話。
従って、この前のことでルイ14世の出鱈目ぶりというは、宮廷内の侍女を夜の相手にしてお気に入りの侍女のところには石工(石造りなので)を呼んで通路を作ってしまったりする。
ここで宮廷内の侍女の監督官のナヴァーュ夫人は、その通路や抜け道を見つけると直ぐに塞ぐことをしていた。
それを知ったルイ14世は、自らの恋沙汰にたいして邪魔をする人物に我慢できないらしくその事実を知ると即刻ナヴァーュ夫人を解雇して、パリから追放した。
このことは、後のニコラ・フーケ事件と係わり合いがあると思われるので特に留意する必要がある。

その一方でクロンウェル(オリバー・クロムウェル・英国護国卿)は、10月24日ウエストミンスターでフランスと通商条約を結び、26日にスペインに対して宣戦布告をした。
1657年3月23日マゼランはパリでクロンウェル政権と一年間の同盟条約に調印した。
(フランス・イギリスと反スペイン同盟)
4月には、あの「美人の中の美人」とオッカンクール元帥に言わしめたモンバゾン公爵夫人が紫斑病にかかって急死している。

私見で言えば、このモンバゾン公爵夫人の外見イメージがD'Artagnan物語・三銃士の悪女・絶世の美女ミレディなのではないかと考えている。
もとよりルイ16世時代の王妃マリー・アントワネットの首飾り事件(The Affair of the Necklace)とその首謀者ラ・モット伯爵夫人(ジャンヌ・ド・ヴァロア)をミレディの題材にしていることは確かである。
(王妃の首飾り上・下・アレクサンドル・デュマ著/ 大久保和郎訳 東京創元社 創元推理文庫シリーズ )--このミレディ考察は後で。

そうしてこの「砂丘の戦い」の直前、ルイ14世はラ・モット・ダルジャンクールという超ナイスボディの貴族の美女を探し出して夜の相手にした。
それを咎めたのがマザランで、ラ・モット嬢は、リシュリュー(枢機卿)の愛人だったと暴露して忠告した。それで面白くなかったために、ルイ14世が親征をすると言って出かけたのが「砂丘の戦い」になる。

ダンケルクの包囲
フランス、イギリス両軍はダンケルクを包囲した。
この時ネーデルランド総督ドンファンはカンブレー防衛を念頭に置いて、予想されたダンケルクの防備を疎かにした。
5月末には、名将テュレンヌ子爵を副将としたルイ14世親征のフランス軍がダンケルク(スペイン軍3000)を前に布陣していた。(ルイ14世はカレーに在住)
海上からは、モンタギュー提督(後のサンドウィッチ伯爵)の率いるイングランド艦隊が港を包囲した。(英仏連合軍21,000)
ここにドンファンの救援部隊が派遣され、フランス軍の包囲線の直ぐ外側の「砂丘地帯」に野営地を設けた。
6月14日の「砂丘の戦い」

以下続く

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2009年7月 3日 (金)

D'Artagnan(ダルタニャン)物語「二十年後」の背景とあらすじ その3

D'Artagnan(ダルタニャン)物語

第2部 「二十年後」の背景とあらすじ その3

第1部の三銃士が終了して、20年後は「フロンド乱」が背景にあるのだが、多少補足しないと20年の狭間は埋められない。
そもそも三銃士に登場するルイ13世というのは、先王のアンリ4世が1810年に暗殺されるという事から始まっている。

 1610年5月フランス国王アンリ4世(アンリ・ド・ナヴァール)が暗殺され、8歳のルイ13世は、即座に高等法院の親裁座で母マリ・ド・メディシスを摂政にした。

注 ☆ 一説には、マリ・ド・メディシスが暗殺に絡んだと言われている。王妃の位を取得した直後であった。又、これには、マリ・ド・メディシスが嫁いでくる直前に暗殺されたアンリ4世の愛妾ガブリエル・デストレも絡んでいる。

 摂政マリ・ド・メディシスがフランスを主導することになって、寵臣として登場するのは侍女のレオノーラとアンクル元帥である。
 アンクル元帥は、王妃マリ・ド・メディシスが結婚の時に家臣団一員としてフランスに付いてきたコンチーノ・コンチーニという貴族である。
 侍女のレオノーラと結婚しその力を使って王妃から800万エキュを貢いでもらった。そしてピカルディーのアンクル侯爵領を買い三年後1613年には元帥まで昇進した。
 1614年、先王アンリ4世の集権化政策の反動から大貴族の不穏な動きが続き、このアンクル元帥などの寵臣政治に対する不満が引き金になって、王権は全国三部会の開催を余儀なくされた。
 その全国三部会・第一身分(聖職者)の代表として、リシュリュー司教(アルマン‥ジャン・デュ・プレシ・ド・リシュリュー・男爵)は登場し注目され、摂政マリ・ド・メディシスの側近となるのであった。
 そして1616年には国務卿・外交・戦争担当となった。
  1617年ルイ13世はクーデターを起こし、アンクル元帥コンチーニ(摂政マリ・ド・メディシスの愛人)を粛正(暗殺・衛兵隊長ヴィクトリ)し摂政マリ・ ド・メディシス一派を追放した。又パリでコンチーニの妻レオノーラ・ガリガイは魔女として処刑された。…レオノーラ・ガリガイは処刑する理由がなかったの で魔女とした。
 次に国王の寵臣・宰相(級)として権力を握るのはリュィーヌ公爵である。国王軍最高司令官にもなったが、軍人・政治家としては無能であった。
 時は、前世紀からの宗教戦争に続き、〈前王アンリ4世がプロテスタント(のちに改宗)であった〉ハプスブルグ家の覇権に抗していた勢力争いの時代である。
 1620年国王とマリ・ド・メディシスの和解(アンジュの和解)がなり、マリ・ド・メディシスを通してリシュリューは国政に参加している。
 しかし、同年ルイ13世のベアルン遠征によって宗教戦争が再燃する。
 ベアルンのプロテスタントを駆逐した後プロテスタント派の諸侯・諸都市と攻防を繰り返す中、当時蔓延していた熱病により司令官リュィーヌ公爵が死ぬ。(戦死)
 1622年リシュリューは枢機卿に就任。
 1624年宰相(国王の忠実な主席大臣)となった時、39歳。国王ルイ13世24歳。
そうして、実際の実権を握るのは1630年「裏切られた者たちの日」に勝利してマリ・ド・メディシスを追放してからである。
 さて、三銃士はこのリシュリューは枢機卿の40-43歳までの期間の話である。
 即ち1625年からラ・ロシェルのプロテスタント軍攻防戦が終わった1628年になる。

1635年ハプスブルク家に対抗して30年戦争にフランスは直接介入。
1648年ウェストファリア条約。
1659年ピレネー条約でフランスとスペインの戦争も終結。

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2009年7月 2日 (木)

D'Artagnan(ダルタニャン)物語あらすじ その2

D'Artagnan(ダルタニャン)物語

第2部 「二十年後」の背景とあらすじ その2

後にフロンド(Fronde)の乱と称されるフランス全土を、混乱の内戦状態になった出来事がある。
それは、リシュリュー枢機卿が亡くなり5ヶ月後、1643年5月フランス国王ルイ13世が亡くなる。そして、その後のフランスの権力闘争がフロンド(Fronde)の乱であると言える。

そもそもリシュリュー枢機卿は、スペインのスパイと思っていたアンヌ・ドートリッシュに気を許さず、アンヌ・ドートリッシュの追い落としを計っていた。
事実、王妃の側近シュヴルーズ公爵夫人は、スペインとのスパイ行為を見咎められて逃亡する始末。
そのために慧眼なリシュリュー枢機卿は、死後に於いても王妃アンヌ・ドートリッシュにフランスを任せない施策を考えていた。
その施策は、国王ルイ13世はその死を悟ったときに、王国総代官は弟のガストン・ドレルアンとした上で死後の複数摂政体制を宣言したことである。
しかも念の入った通り、複数摂政体制の宣言は高等法院(パルルマンParlement)の高官を王宮に呼び寄せ、王妃アンヌ・ドートリッシュと共に連署させたた上高等法院に登記させたのである。
わかりやすく言えば王妃アンヌ・ドートリッシュは摂政と言いながら摂政会議の1メンバーにすぎない事を宣言させてたのである。

しかし、リシュリュー枢機卿が自分の後釜にとイタリアから呼び寄せた小貴族出身のマザランを国王の死後に摂政の諮問会議メンバー即ち宰相にするときから、色々な問題が噴出してきたのである。
国王ルイ13世崩御後に実は、13世によって追放された人々が戻ってきた。
シュヴルーズ公爵夫人(摂政アンヌ・ドートリッシュの腹心)、マドマモアゼル・ド・オットフォール(ルイ13の元愛妾・摂政の友人)、ラ・ポルト(摂政の侍従)、セヌシー夫人(いずれもスベイン書簡事件の関係者)などである。
そして、マザランと摂政アンヌ・ドートリッシュはただならぬ関係になっていたという。

 パラチナ選帝候妃(当時美女として令名の高かったアンヌ・ド・ゴンザク)の「回想記」では「ついに結婚するところまでいってしまった」と述べている。
但し、マザラン枢機卿は神父・聖職者であり当然結婚出来る関係ではなかったのであるが、サント・オーレール伯爵の「マザラン伝」によれは、大衆世間一般は「摂政と枢機卿との正規な結婚よりも、むしろ両者の愛人関係にたいして、より寛容だった。」ということである。
 即ち「婚姻を秘密にしたのは、スキャンダルの無限な拡大を避けるという政治的な理由によったものである。」尚、晩年摂政は、ヴァンサン・ド・ポール神父(後に聖人に列せられた)とも密接な関係にあった。

その結果として、1643年5月14日国王が崩御すると王妃アンヌ・ドートリッシュはその翌日5月15日(18日という説もあり)高等法院に出向き、親臨法廷で王の遺言(宣言)を取り消しその絶対権力の自由裁量権を宣言したのである。
即ち事実上のクーデターである。
従って、このころのフランスはほとんど無政府状態であった。

しかし、権力を笠に着て金を貯め込んだリシュリュー枢機卿とその金庫番のマザランに対して世間の怨嗟の念は強かった。
その第一段階として・「高等法院」のフロンド(Fronde parlementaire)が起きる。

ここで三銃士の物語に戻ると‥‥

小説「三銃士」では、
1648年8月26日国務会議は、高等法院の有力メンバーの評定官(判事)ブルーセル(Pierre Boroussel・当時72歳・伯爵相当)を逮捕したことからフロンドの乱が始まる。
(本来なら王令により逮捕されることはない…)
………2日後に釈放されるが以後歴史上には登場しない。
そして、およそ5年(1648~53年)にわたる「フロンドの乱」は、この小説「三銃士」では第一段階の「高等法院のフロンド(Fronde Parlementaire)」で終わってしまっている。
その上に、パリ市民に国王の寝姿を見せる行(ぐたり)は第二段階の「貴族のフロンド(Fronde Princie're)」の時期に起きたことである。
この様にして小説では史実のつかみ取り状態になっている。

事実、フロンド乱というのは、多大な混乱状況で一口では言い表せない事が多い。
そして、以前述べたように一兵士に過ぎないダルタニャンは、物語の表舞台には登場しないのである。

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2009年7月 1日 (水)

D'Artagnan(ダルタニャン)物語「第2部二十年後」の背景とあらすじ その1

D'Artagnan(ダルタニャン)物語

第2部 「第2部二十年後」の背景とあらすじ その1

ダルタニャン物語第2部は、三銃士の事柄があってから20年後の話になる。
小説では、主人公ダルタニャンは、単なる一兵士「士官」にすぎず大きな活躍というものではない。

その第3巻は20年後であるから、1648年フロンドの乱が始まった頃の時点である。

物語は、今後の小説の中で登場する人物の説明で過半である。

フ ロンドの乱の背景説明から、ルイ13世が崩御した後の混乱。マザランの暗殺計画による結果、ボーフォール公の逮捕・投獄。シュヴルーズ公爵夫人、オート フォール夫人の追放。そしてロングビル公爵夫人(Longueville,Anne-Geneveve de Bourbon-Conde,Duchesse de)の愛人となっているデルブレー神父(アラミス)のこと。いろいろな出来事を大后、アラミスの言葉として繰り返し説明している。

物語の背景となるフロンドの乱の混乱は既にパリで起き始めており、パリの街を巡視するためにマゼランは当番の銃士隊「黒組」(黒馬の)の指揮官ダルタニアンに護衛を頼む。(2夜の巡視)
この巡視によってダルタニアンの軍人としての優秀さを認めたマザラン枢機卿は、三銃士が活躍した真相を探るためにローシュフォール伯爵をバスチーユ要塞(監獄)から召還する。
ローシュフォール伯爵はかってリシュリュー枢機卿の腹心だったからである。
召 還したローシュフォール伯爵に、マザラン枢機卿はリシュリュー枢機卿と同じ忠誠を求めた。しかし、ボーフォール公爵への忠誠を崩さなかったため再びバス チーユ監獄へ戻されることになった。そして戻される時パリの混乱を利用して逃走に成功する。(パリ市民・プランシェ・元ダルタニアンの従僕の助力)
一方近づくフロンドの乱の混乱に備えて、ダルタニアンはマザラン枢機卿から昔の三銃士をも昔のように腹心の部下になるように要請され、旧友を訪ねる旅に出る。

旧友三銃士を捜しあぐねたダルタニアンは、偶然出会ったプランシェの情報からバザン(アラミスの従者)を探り当て、ノワジー・ル・ロワの村へ向かう。
そこでマルシャック公爵(後のラ・ロシュフーコー公爵・ロングビル公爵夫人の愛人・歴史上の)の刺客に追われているデルブレー神父に出会うことになる。
しかもアラミスは5歳も年齢を誤魔化して、当時の社交界で一二を争うといわれる絶世の美女・ロングビル公爵夫人の愛人になっていたのを見いだした。
アラミスはレス大司教補派即ちフロンド派であった。このため勧誘を諦め、ポルトスの元へと向かった。(10デルブレー神父)

ロングビル公爵夫人の容貌・人物について、小説では
「… ロングヴィル夫人という名前を聞けば、考え込まざるを得ない。王国きっての名門の出だし、宮廷でも1.2を争う美人。好きでもない老人のロングヴィル公爵 と結婚したが、まず最初にコリニーとの仲が怪しいという噂が立てられた。そのコリニーは、夫人のことからギュイーズ公といざこざを起こし、新王宮前の広場 で決闘して一命を失った。それから、弟のコンデ公と姉弟以上に親しすぎるとかいう評判もたてられて、気の小さい宮廷人たちの眉をひそめさせた。それからま た、こんな噂もあった。あんなに仲のよかった姉弟が、いまでは互いに心の底から憎しみあうようになり、ロングヴィル夫人は、ラ・ロシュフーコー老公爵の長 男マルシャック公と気脈を通じ、老公爵と自分の弟コンデ公と仲たがいさせようとしている、と取り沙汰されていた。」
「……ダルタニアンはロングヴィル夫人の大きな青い目、金色の髪、品のよい顔立ちをはっきりと見とどけることができた………」

さて、ポルトスは持参金付きの大金持ちの未亡人と結婚したが、その未亡人に先立たれ大金持ちになったものの名誉・男爵位が欲しくてたまらない。そこでそれを餌にダルタニアンは仲間に引き入れることに成功した。
ポルトスの説得に成功したダルタニアンは気をよくして零落しているだろうと思うアトス・ラ・フェール伯爵の元へ向かった。
ラ・フェール伯爵はブロワの近くブラジュロンヌに伯爵領(ブラジュロンヌ伯爵領)を相続しそこに住んでいるという。
訪ねてみると、大貴族ラ・フェール伯爵はダルタニアンからみれば信じられないような城・大豪邸に多くの召使いとラウル(ブラジュロンヌ子爵)ともに暮らしいた。
高位貴族と思われる訪問客も絶え間なくその上にラ・フェール伯爵は、ますます元気であった。
近所に住むラウルの幼なじみとして7歳になるラ・ヴァリェール嬢(後のラ・ヴァリェール《女》公爵夫人)を登場させている。
足を挫いた様子、母親がサン・レミ夫人(父親は執事)といいプロワ城のオレルアン公爵夫人の侍女であることを後の物語の伏線として紹介している。
アトスの説得に失敗したダルタニアンにパリへの至急帰還状が到着し急遽バリへ戻る。

パリへの至急帰還はマザランがボーフォール公のヴァンセンヌ監獄からの脱獄を杞憂したからである。
まだ30歳にもなっていないボーフォール公は、アンリ4世の孫即ち王族である。
正確には、アンリ4世と愛妾ガブリエル・デストレ(ボーフォール(女)公爵夫人、モンソー夫人)の孫である。
ガブリエル・デストレは、アンリ4世の時代の絶世の美女である。
下級貴族出身であるガブリエル・デストレの姉妹は皆美女で次々と愛妾にされているが、ガブリエルはアンリ4世の絶大な寵愛のため王妃の位を要求した。
古来愛妾が王妃になった例はなく、女性に弱いアンリ4世はもう少しで王妃にするというところであった。
よって、ガブリエル・デストレは暗殺された。……まだ23歳を少しすぎたころであった。
マリー・ド・メディシスが正規の王妃として嫁いでくることが決まりかけていたからであった。
……というわけでボーフォール公(ヴァンドーム家)は、まかり間違っていればルイ14世である。
ボーフォール公は、後に述べる陰謀に加担したとして1643年に逮捕投獄されたのであるから投獄されて5年になる。ここで愛人であったモンバゾン(Montbazon,Duchsse de)公爵夫人の援助で脱獄に成功する。(18ボーフォール公)
モンバゾン公爵夫人とは、シュヴルーズ公爵夫人の若い義母であり、ロングビル公爵夫人と並び称される宮廷一の美女である。
このときはパリ追放の憂き目にあっていた。

ボーフォール公が脱獄の準備をしている間に、ラ・フェール伯爵とブラジュロンヌ子爵はシュヴルーズ公爵夫人に面会する。(22マリー・ミション、旅先での一夜)
大 貴族であるラ・フェール伯爵をシュヴルーズ公爵夫人が知らないというのも不思議な話であるが、相変わらずの美しいブロンドの髪と生き生きとした大きな目の 公爵夫人と会う。いい年をしながら未だに色気たっぷりで気品の高いのシュヴルーズ公爵夫人にラウル(ブラジュロンヌ子爵)は大后様と間違える始末であっ た。
ラ・フェール伯爵はラウルの就職(仕官)…コンデ大公旗下の軍へ入隊するというを頼みを聞いてもらいパリを後にする。
ここにこのような記述がある。
「…… でも、ちょっと待ってちょうだい。義母モンバゾン夫人がロングヴィル夫人と仲違いしているので、わたくしはいまのところ大公の御覚えがよろくないのです。 でもマルシャック公爵にお願いしてみたら……ええ、そう、伯爵、それがなりよりですわ。………この若い子爵をロングヴィル夫人に推薦してくださるでしょ う。夫人から御令弟の公爵に(コンデ大公をしめす)手紙を書いてもらえば、………」
この辺の事情は、5年前に遡るが小説には書いていない。(後に解説する。)
実はボーフォール公の逮捕のきっかけとなった実話がありこれがこの第3巻の伏線になっている。これがわからないとこの第3巻は全くよく解らないといったところである。

物語はその後スカロン神父のサロンでシュヴルーズ公爵夫人から紹介状を受け取る。(23スカロン神父)
一方ダルタニアンはボーフォール公脱獄の報を受け、追っ手としてポルトスと従者全4人で追跡する。
追いついたものの相手は50人の軍隊その上アトス、アラミスが指揮を執り到底相手になるものではなかった。

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2009年6月29日 (月)

「三銃士」の今までのあらすじ

「D'Artagnan(ダルタニャン)物語」

「三銃士」の今までのあらすじ


Aleksandr Dumasの「三銃士」はD'Artagnan物語と言われる長編小説の初期のもので、その後「二十年後」、「ブラジュロンヌ子爵」として完結する。
「三銃士」は、以前書いたものを修正加筆すると

三銃士のあらすじ……ガスコン(ガスコーニュ)生まれのダルタニアンは、18歳になるとパリへ出で近衛銃士隊に入隊しようとした。
父親からの紹介状を持って、銃士隊長トレヴィル(トロワヴィル伯爵ジャン・ド・ペレ)邸に行くまでに、ひょんな出来事から三銃士と噂される有名な剣の使い手の剣士と決闘する羽目になることから友情に結ばれる。
この三人が有名な
アトス……実は(オリビエ・ド・ラ・フェール伯爵)‥随一の剣の使い手。
ポルトス‥‥実は(ブラシュー・ド・ピエールフォン・デュ・ヴァロン男爵)‥怪力の持ち主。
アラミス‥‥実は(のちの司教)‥随一のインテリ、美青年。

そして主人公のダルタニャン(のちに伯爵)の4銃士ということになる。

 下宿先が小間物屋の二階でそこの主人にも、夫人にも会わないと不思議に思っていたところ美貌の若い婦人と知り合いう。
 誰だろう…とさんざ調べてみると、下宿の夫人でボナシュー夫人(23歳)であった。
 稀に見る清楚で美しい女性にダルタニアンは少し恋心を抱いて尚も探索する。…と、なにやら怪しげな行動から王妃アンヌ・ドートリッシュのもっとも信頼されている侍女(宮廷婦人)であることが分かる。
 ここでダルタニアンは、この侍女の言葉から王妃アンヌ・ドートリッシュを助けてリシュリュー枢機卿の陰謀から守ることを誓う。(ダイヤのネックレス事件)

 英国のバッキンガム公爵(ジョージ・ヴィリヤーズ)への使いに三銃士を動員して、リシュリュー枢機卿(アルマン‥ジャン・デュ・プレシ・ド・リシュリュー・男爵)の手先であるミレディーやロシュフォール伯爵の追撃の追っ手を振り切り目的を達成する。
 イギリスから帰国後ラ・ロシェル包囲戦に参加しているうちに、実戦実績からリシュリュー枢機卿に認められて念願の近衛銃士隊の隊員になる。
 マリー・ミション(実は、王妃の側近シュヴルーズ公爵夫人)からボナシュー夫人が幽閉されている修道院を知り、同時に釈放状を手に入れる。
 国王に従って戦場を離れている間を利用して、ボナシュー夫人救出作戦を敢行する。
 しかし、釈放状の存在を察知した魅惑的な「絶世の美女」ミレディー(ミレディー・ド・ウインター伯爵夫人・アンヌ・ド・ブリュィ)は、幽閉されている修道院をつきとめる。
 そして、いち早く修道院に駆けつけたミレディーは、あまりの美しさに誰も王妃の側近と疑わず、修道院長はそれを信じ込んでボナシュー夫人との面会を許す。
 同じく清楚な絶世の美女ミレディーを見たボナシュー夫人も、疑いを持たずに隙を見せて暗殺される。
 ボナシュー夫人の暗殺に一歩及ばなかったダルタニャンは、必死でミレディーを捕らえ、即刻アトスやリールの首切り役人ともに罪状を並べ立てて彼女を処刑する。

罪状の一つ。
「フランス王国の敵と内通した罪、国家の機密を漏らした罪、フランス軍参謀本部の計画を挫折せしめた罪」
 エピローグ。
 ダルタニアンはリシュリュー枢機卿に呼ばれ、ミレディー暗殺等の厳しい尋問を受ける。
 しかし、「この書類の携帯者は、余の命令により、国家のために行動する物なり。
                   1627年12月3日     リシリュー」
というミレディーに交付した事実上無意味な「無限委任状」「赦免状」を示し切り抜ける。
リシュリュー枢機卿は、苦笑して逆にダルタニャンを近衛銃士隊の副隊長(士官)に任命する。
そして、他の三銃士は暫くして皆引退した。

「二十年後」に続く。

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D'Artagnan物語・三銃士Ⅱ 継続のお知らせ 

D'Artagnan物語・三銃士Ⅱ 継続のお知らせ 

「第10章 第3部ブラジュロンヌ子爵 ルイ14世と Nymph達(愛妾)1,序章」
と言うものを書き始めてそのままになり3年も経過してしまった。
序章で述べたとおり「第6巻は、1660年5月であって、フロンドの乱終決から7年後と言うことになる。」(ダルタニャン物語「ブラジュロンヌ子爵」「十年後」は第6巻「将軍と二つの影」)
それで、1658年の「砂丘の戦い」で史実上のD'Artagnanが「近衛銃士隊隊長代理候補」(大尉待遇)(隊長代理・マザラン枢機卿の甥/ 形式上)に昇進するのを書き、続けて「隊長代理(隊長は形式上国王)に昇進する1667年まで。」
そうすると小説に又繋がると言うものだった。

Aleksandr Dumasの原作の三銃士、即ちD'Artagnan物語は、新聞小説であり時系列では史実に近い部分もあるが、架空人物に関してはかなり時代考証的にはいい加減である。
Dumasは、どの時代の人物かというと、ナポレオン3世とほぼ同時期の人物である。
ナポレオン3世が「2月革命(1848年革命)勃発後」にフランス政界に復帰するのと反対に、Napoleon1世が没落した後の王政復古時代に大活躍した人物である。
だから、小説「モンテ・クリスト伯」などその時代背景を多少描き出していると言える。
しかし、三銃士が活躍したAnshanRegime(アンシャン・レジーム)時代の貴族社会を、時代考証をある程度無視して「王政復古時代」の感覚を取り入れている。
だから、D'Artagnan物語の時代構成で、17世紀のフランス小説を書くとはっきり言って出鱈目な小説になる。
そんな小説というのは貴族社会というものが分からない日本人には気にならないかも知れないが、フランス語にでも訳されたら大笑いのものになろう。
実は、そんな小説がネット上にあった。
藤本ひとみ「愛しのダルタニャン」。(平成15年7月11日から連載されていた新潮社のWeb文庫)

その馬鹿馬鹿しい小説の批評をしていたので再掲しいみる。
但し、一部修正加筆してある。
「彼と一夜をともにした絶世の美女の名はミラディ、枢機卿の命を受けた女諜報員(スパイ)だった。」と「三銃士もの」と名乗りながら主人公はミラディである。
Dumasの小説(以下原作)の三銃士は1625年からラ・ロシェルのプロテスタント軍攻防戦が終わった1628年まで、リシュリューは枢機卿が宰相となった直後の4年間を背景としている。

作 品(「愛しのダルタニャン」)は、従来の三銃士に抜けていたダルタニャンの素性(後年のモデルの)を正確に記載し、その他この時期の史実(バッキンガム公 爵の真珠ばらまき事件や1625年アミアンでの事件)を解りやすく挿入してより小説の厚みを付けている点では評価出来る様に思う。
又、女性作家特有な書き回しとして男性像、特にダルタニャンやバッキンガム公爵の素顔など大して詳細に説明しなくとも顔が浮かんでくるというところはサスガとしか言いようがない。
小説の内容になるとこの時代の背景として宮廷内部の事件が中心となる。事実は「小説よりも稀なり」であって原作よりも実際にあった出来事の方が小説らしい。
さて、ここに人物設定として主人公である「ミラディ」に関して英国での素性を明らかにしている。
シェフィールド男爵夫人ミラディ・ウィンター。
未亡人であり結婚は縁故をもとめてのことであると書かれている。
しかし、現在よりも身分制度の厳しい時代に一目で貴族階級かどうか解る英国に置いて「ミラディ」の素性は解りにくい。
映画「マイフェアレデイ」を見てもらえば解るとおり言葉や立ち振る舞いからして違う。
何せダイアナ妃を見てみれば解るとおり「貴族階級」というのはあのような身なりをしている。簡単に書けば長身・金髪である。尚戦前の将校と下士官は身なりだけで区別がついた。
「愛しのダルタニャン」は平成16年5月30日現在第46回26章になっている。
物語も第22回 シュヴルーズ伯爵夫人(シュヴルーズ公爵夫人でなく)が登場する頃から三銃士を離れて宮廷事件になる。
第25回10章に「この者が、今日から、ボナシュウ夫人と一緒に下着係を務めることになりました。名前は、ミラディ・ウィンターと申し、歳は、今年で二十歳でございます」
下着係は、わずかに微笑んだ。
「シェフィールド男爵未亡人ミラディ・ウィンターでございます。ミラディとお呼びくださいませ」とシェフィールド男爵未亡人ミラディ・ウィンター事ミラディ(ミレディ)が宮廷婦人として登場する。
そして、ミラディの陰謀はシュヴルーズ公爵夫人を陥れてアンヌ・ドートリッシュの宮廷から第33回 第二部 第1章で追放に成功する。(1625年)
「当日付けで、王妃アンヌは、シュヴルーズ伯爵夫人に領地謹慎を申し付けた。
 シュヴルーズ伯爵夫人の領地は、トゥレーヌ地方の中心都市トゥールにあり、パリからは約六十リュー(約二四〇キロメートル)のかなただった。」

ここまでくると私などは違和感を憶えざるおえない。

まずシュヴルーズ公爵夫人が何故伯爵夫人に格下げになるのかが全く不明である。
何と言っても、シュヴルーズ公爵夫人というのは王妃アンヌの「お話相手(側近)」である。
そして、シュヴルーズ公爵夫人は史実上の人物であるばかりでなくこの時期、宰相リシュリュー枢機卿と同様な強力な権力を誇った人物である。
夫君シュヴルーズ公爵は、王妹アンリエット王女と英国皇太子の婚姻の交渉の実務者として英国国王の代理を務めるほどの重要人物である。その夫人と言いながら、事実上その実務を取り仕切ったのがシュヴルーズ公爵夫人マリその人である。
従い「愛しのダルタニャン」でミラディで等に簡単に罠を掛けられて失脚するというのはフィクションとしても解せない物である。
史実は1626年5月王位継承者問題に端を発した宰相リシュリュー枢機卿暗殺計画が発覚しその首謀者としてシュヴルーズ公爵夫人は追放されたのである。
1625年に既に追放されていたとすればこの事件は無かったことになる。実行者 シャレー侯爵(アンリ・ド・タレラン)はシュヴルーズ公爵夫人の取り巻き(愛人)であったから尚更である。シャレー侯爵は処刑された。
又シュヴルーズ公爵が伯爵なるというのは史実としては未聞のことであり、当時シュヴルーズ公爵夫人マリ・ド・ロアンはその出身の家柄が良いことを(歌に詠われるように)誇りにしていたのである。
そうして時代考証的に見るとシュヴルーズ公爵夫人は、公爵夫人でなければならない理由(別掲)が明確にあったのである。

もう一つ気になることは、「シェフィールド男爵未亡人ミラディ・ウィンター」である。
即ち、未婚(未亡人)の外国人の貴族(イギリス籍)がアンヌ・ドートリッシュの宮廷の衣服の係りになるということである。
なぜなら、宮廷婦人になるというのは貴族の婦人にとって高額な収入を得るものであって、それなりの夫の貴族としての力が必要だっのである。

たとえばリュィーヌ公爵夫人(未亡人)マリ・ド・ロアンは、リュィーヌ元帥(宰相シャルル・ダルベール・ド・リュィーヌ公爵)の戦死(戦病死)により未亡人となったとき、規定により宮廷から出なければならなかったのである。
そして、宮廷復帰の実現のために愛人であったシュヴルーズ公爵に言い寄って夫人に納まったのである。
即ち、「シェフィールド男爵未亡人ミラディ・ウィンター」は規定により宮廷婦人になれない。

尚、後日談としてマリ・ド・ロアンの結婚に関し、国王ルイ13世は不快に感じ、シュヴルーズ公爵を宮廷から排除(追放)する思惑もあったと伝えられている。
しかし、それを実行に移せなかったのはシュヴルーズ公爵が好人物であっただけでなく中々の実力者(宮廷人としても)であったからである。

歴史小説はその時代のルールによって書かなければならない。
「歴史をこちらに引き寄せろ」とは、池波正太郎氏の言である。(北原による池波『梅安影法師』講談社文庫版解説)
即ち、人物設定で「シェフィールド男爵夫人ミラディ・ウィンター 」はフランス人の貴族と結婚したことにすれば話は簡単につくことである。
同様に、小説で重要な役目をすることになるコンスタンス・ボナシュー(Constance Bonacieux)はどうしても貴族でなければ説明がつかない。
原作が平民であるから平民としたのであろうが原作でも物語の後半で貴族の扱いであるから齟齬(そごう)をきたしている。
「愛しのダルタニャン」では「コンスタンス、あなたが王妃様の下着係になれたのも、私のおかげでしたよね。さぞ私に感謝していることでしょうし、今回のことを心配してくれてもいることでしょう」とシュヴルーズ公爵夫人に言わせているが時代考証から言っても無理がある。

次回、1658年の「砂丘の戦い」から~~

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