syuun の不思議な少年時代

2015年5月24日 (日)

小説Syuun の不思議な少年時代 その38 (昭和47年1972)

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1972年6月1日開学祭・模擬店・
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5月の連休明けは、真夏の様な日々が続いた。
特に静岡市は周囲を山に囲まれているため余り風が吹かない。そんなわけで真夏では午後からのわずかな海風で凌(しの)ぐ。
しかし、梅雨が近くなり開学祭の6月1日の天気はどうなるか、天気が持つのかはその年によって当然違う。
その6月1日の朝は、それなりの晴天であった。
朝、アパートで回し読みする新聞が回ってこなかったので、天気予報は分からない。
2年で引っ越しをする予定だから、かさばるテレビは持っていなかったし、どうせNHKとSBS(静岡放送)、テレビ静岡(UHS)の2社しかなかった。
1972年の段階では、やっとテンキー電卓が出始めたころであった。但し今、100円ショップで売っている電卓より性能が悪くても、二万円近くした。

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車の調達
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中古車を買う予定を早めて、自動車販売店のシステム部に勤めていた自動車部のOBに電話して、
「中古車を買いたいから試乗させてくれ」
と頼んだ。
「今 これしかないから」とやむなく日産ブルーバード(二代目411型系)を借りてきた。

以前にも自動車部の先輩が数日借り出したことがある車体で、どうもシンクロ(ミッション)に問題がありそうな曰くつきのものではあった。

6月1日、片山寮午後1時。
コラムシフトのブルーバード1300は、大学本部棟の急登での山登りでは多少非力。
そこは何とか乗り切って、運搬とメッセンジャー係という役目になった。

山の上の片山寮と大学の外、すなわち日本平の山から下りて大学の外に広がる学生アパート群までの往復はかなりの標高差と距離とがある。
そもそも片山寮から大学の入り口という東名高速道路をくぐるトンネルまで1キロはある。

しかも模擬店をするサッカー場は、その中間地点の山の中腹。
これは、とても歩いて往復すると言うわけには行かない。

大学の坂下の学生アパート高山荘では、共同炊事場で女子学生二人と加藤が何やらやっていた。

「もう、あとはできあがるのを見ているだけだから~」

「浜田くんと加藤くんを模擬店まで送っていって!!」という。

午後3時過ぎたころ、片山寮、高山荘その他のアパートを回って材料をとりまとめて模擬店に運ぶ。
これでやっと始まるかなという頃には、何やら雨が落ちてきた。

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「開学祭」・6月1日、サッカーグラウンド午後6時。
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時間になると人がどこからともなく湧いてきて、模擬店にも多少人垣ができた。

「夕食は?」
「まだ」
「じゃこれで」
と夕食の「焼きそば」が回ってくる。
何やら多少冷えた焼きそばをパクついていると・・

「『焼きそば』がなくなってしまうから、早く食べてね」と・・・声が聞こえる

模擬店を始めたのだが、ぽちぽちしか客が来ない。

それでも、例の「焼きそば」は、もともと大して売るほどではないので終了。

夜も更けてきて、人が多くなってきた。
「豚汁終了!」
「豚汁なんかあったの?」

「少し作っただけ」という。

夜が深くなるにつれて、雨も少し強くなり、急速に気温が下がってきた。
「おでん あと少しで終了」
と担当の佐藤嬢が叫んだ。

「おでん あと少しですよ!!!」と誰かが絶叫する。
と人だかりができて、

「おでん 終了」
「あ! これで赤字でなくなったね」

まだ
「焼き芋が売れ残っているぞ」
「ちょっと宣伝してこい!!」と誰かが言うと・・

「焼き芋あります」

「焼き芋あります」
とのかけ声。
とまだ人だかりが少しできて、と見れば
気温は、ますます下がって白い息が見えるようになる。

「焼き芋あります」

「ちょっと待って!!」
「焼き芋が売り切れそう!!」と担当の佐伯嬢。

・・・・・・・・・・・・・・・・
「焼き芋が売り切れた!」
「追加の芋を持ってきて!」

「今までの芋は、元々蒸(ふ)かしてあったから温めるだけで良かったけど」
「こんどのものは時間が掛かりそう」
「でも、これで黒字になった。」
「何とか反省会の飲み代が出せそうだわね!!」
と佐伯嬢。

「焼き芋ある??」

「焼き芋はまだ焼けてないのですけど・・・」
と断る。

「焼き芋があると聞いたんだけど」
とジーンズ姿の背が高い学生。

「まだ焼けてないのですけど・・・」

「焼けてなくともいい、寒いから カイロ代わりにするだけだから」
という声がした。

・・・・・・・・・
裸電球にてらされた、背の高い男は誰かと思ったら理学部2年の伊藤だった。
しかし、少しも見ないうちに随分と雰囲気が変わったものだと思う。

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1年前の1971年4月末。
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大学に入学して、キャンパスから1キロ近く離れた学生アパートに入居した。
学生アパートは、70年に大学が移転した時に農家の広い庭先に乱立するようにできたものである。
作りは、外壁がトタン、内側にベニヤ板を張ったもので、今で言えば納屋のような作りである。
それに付属して共同炊事場、共同トイレ、風呂と言うのが一般的だった。

海から近く、潮のにおいがする海沿いの学生アパート。
山育ちとしては、地震や台風が来たらという不安もよぎる。

それでも大学から遠い内山荘に入居したのは、食事2食が当面出たからである。
この内山荘には9部屋あり理学部3人、工学部4人、教育学部2人でその内5人が1年生だった。
そのアパートの先着住民、2階の一番良い部屋の新入生が横浜翠嵐出身の理学部物理学科の伊藤紀行の部屋だった。

この伊藤の部屋に結構みんなが集まったのは、唯一テレビがあったからでもある。
但し男ばかりで色気がないところで、見るのは精々「11PM(イレブンPM)」というお色気番組ぐらいであった。

その他の新入生は、徳島から来た理学部数学科の桑内、茨城からの工学部情報工学科(J科)の茂木、奈良からの電子工学科(D科)、宮地というメンバーである。

国立二期校というのは理学部、人文学部は京大失敗組が多いが、伊藤は元々医学部志望であった。
一方、工学部は阪大(大阪大学)失敗組が多く、当然、茂木、宮地も阪大組で浪人するのが嫌で、何となく静大に進学してしまったという連中でもあった。

駅弁大学の一期校を蹴って入学した京都洛北高校の浜田(C科)のような人物もいたが、大方この教養部時代というのは、何となく退廃感が漂う雰囲気でもあった。

こんなことで学科をS科としか言えなかった一番ダメ組だったのが、自分だった。

しかし、日本史で静大工学部を受験すると数学以外全問正解を基本とするのに、できない問題があるので絶対に受からないというところで、合格したのだからよしとするべきだろう。
あとで分かったことは、日本史選択で合格した人数は全体の10%に満たず、J科、D科で日本史を選択した受験生はいなかったということだ。

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4月の最後のガイダンスが迫った日曜日の夕刻

「ちょっと ちょっと」と伊藤に深刻そうな顔で呼ばれた。

「ちょっと 占ってもらいたいんだけど・・・」

「なにを占うの」
と疑問をもって二階の階段の奥の部屋に向かったところ

「かわいい娘(こ)を見つけたんだ」という。

「かわいい娘ってだれよ??」
「工学部には一人しかいないし・・・・」

「教育学部はガイダンスも講義場所のちがうしな」
「C棟だったっけ」

テレビを見ていた理学部の桑内に
「理学部に目立った娘はいるか」ときくと
「うんにゃ!!」
「平常運転だよ」
桑内は阿波弁だというが、よく分からない言いぐちである。

「どこなんだい伊藤」
「みんな知らないというぜ!」

「人文学部だ」と伊藤

「え~~人文学部?」

「そんなとこに女の子いたっけ」と突然入ってきた宮地が分かりづらい奈良弁でいう。

「人文学部のガイダンスは教育と同じ日程のはずなんだが」

すると人ごとのように伊藤はすらすらと言う。
「人文学部の人文学科だ」

「人文学科の女の子は全部で3人だけなんだせ」
~と知ったかぶりの茂木。
「いや 書道部に人文がいるんでね~」
「情報元は、」とにやりと言う。

「ミス人文の宇津見か!」

「いや違う」と伊藤。

「名前はわかるんか?」
「名前がわかんねぇと占いようがないぜ!」と俺。

「名前はわかる」
「岸山まりえ~」

「岸山?」
「聞いたことないなぁ」
「ノーマークだな」と茂木。


「きしやま まりえ」
「いとう のりゆき」
と紙に書いて占いだす・・・・

「こういう恋愛感情を占うというのは簡単なんだ」

「このこは自宅通学か?」と聞くと、
「多分そうだろうと思う」と伊藤。

「あんな可愛いこ」
「まだ 誰も手を付けないうちに先鞭をつけないと」
と伊藤は急に深刻なおも持ち

「明日の最後のガイダンスがチャンスだから告白してみたいんだ」

***********(占い)*******************

「まあ お互いに『一目惚れ運』かな」

「告白してもきっと うまく行くと思うよ」

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「で 俺は?」と自分の名前を書き入れて

「ダメだな 無視されているわ」
「桑内は・・・」
「無理だな」
「宮地、茂木も問題外!」

「安心しろよ、ここにいる皆は関係ねぇや!」

「俺たち『みとって』やるからな」と桑内。

「まりえ・・ちゃんとの関係はなぁ」
「長く続くかどうかは、生年月日を調べてもっと詳しく占わないと分かんねぇけどな」と俺

「いや それでいい」と伊藤。

「安心してやってこいや!」とだめ押しで言う。

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1971年4月末のある月曜日。
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どんより曇った日で雨が降りそうである。

今日は多少早めに登校して、その「岸山まりえ」が現れるのをみんなで待つことにした。
伊藤は、教養部B棟の少し高い位置から広場の入り口を見渡して、教養棟に登ってくる学生を監視。

「見ていてやるけど、俺たち 顔わかんねぇんだからな」と桑内。

「分かってる」という顔の伊藤。

「『静大行き(のバス)』だと本部棟だから上の道から来るぜ」と俺。

「下から来るのは確認してんだ」
「一応、上の道も見ておく」と伊藤。

朝も8時30分になると教養部A棟とB棟の間にある掲示板の前の広場は、人だかりで一杯である。
それは、今日の各学部のガイダンスの日程が掲示板に張り出されているからでもあり、殺風景な教室に入るのが嫌だからでもある。
「岸山まりえ」らしい女子学生はいるかと見渡すも、男の中に多少それらしき形は見えない。
すると伊藤が広場の端から離れてこちらにやってくる。

「きた」という顔だ。

伊藤に
「彼女きたか?」
と聞くと、
「いま道を昇ってきたところだから」
「そこにいるよ」

「どこにいる」
と見回しても相変わらず無彩色の世界が広がるだけ。
まして、女の子らしい華やかな色合いの服などない。

「(広場の)入り口のところだ」
「いま誰かと話している、後ろを向いている・・・」と伊藤。

と見ると確かに女子学生らしき人影が2-3人みえる。
しかし、顔はなかなか見えない。

「あの小顔の、髪の毛の長い娘(こ)か??」と近くにいた桑内がめざとく聞くと

そうだと伊藤は、頷く
よく見れば、灰色のニット系の地味なワンピースに同色のピンストライプの上着を羽織っている。
身長は、160センチを少し切るぐらいか、静岡なら平均的なものだ。
しかし、横を向いていて顔は判別できない。

「良く顔を見たか」と桑内に聞くと

「みたよ」という表情。

さっぱり判別ができないうちに、何となくミス自動車部(SUAC)の北原裕子を思い浮かべた。
北原裕子は、一年生なのに「バッチリメイク」だった。

ガイダンスの時間が迫り・・・

「今やるか」とせっつくと

「完全に一人になったら」と伊藤が押さえる。

伊藤の回りに遠巻きに、遠藤先輩、桑内、宮地、茂木と俺。

そのうちにますます始業時間が迫り人並みが動き、「岸山まりえ」の周辺が空いた。

~と「岸山まりえ」が振り向いて、一人B棟の入り口に一歩近づこうと動いた。

岸山の前にいたはずなのに、いつの間にか俺は、後ろ姿を見ている。

伊藤が突然彼女の前に進み出て
「これを読んでください」とメモを渡した。

その瞬間なぜか二人の周りに空間ができて、この出来事には誰も気がつかなかっただろうという一瞬だった。

岸山まりえは、突然のことで驚いたように立ち尽くして伊藤を見上げたが、メモを手提げバックにしまい。
何事もなかったように、その他大勢の学生の波に消えてしまった。

見たところ「岸山まりえ」のそぶりから、結果がどうなるかは見当がつかない。

いずれにせよ、人生の不思議というのを考えるきっかけにはなった。

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まりえ

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2015年5月17日 (日)

小説Syuun の不思議な少年時代 その37 (昭和47年1972)

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片山寮

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授業はいつも通りの5時35分に終了。
急いで教養部の第1食堂で済まして片山寮へ向かった。

静岡大学というのは、来たるべき東海地震の津波対策として日本平の西側の稜線の上にある。
日本平を清水側からぐるりと巻いて、東西に走る高速道路も静岡の旧市街地を守るために作られているのは周知の通り。
その高速道路を遙か眼下に見下ろす位置のあるのが、教養部B棟の第1食堂である。
この教養棟でさえかなりの標高差を持っているところ、その上に図書館、第2食堂があり、理学部、教育学部などの施設がある。
片山寮は、その教育学部の左手谷間にある体育館、テニスコートをはさんだもう一つの山の上である。
体育の授業で山頂の野球場へ行くこともあるが、ぼやぼやしていると教養棟から休み時間にたどり着けないこともある。
片山寮はそれと同じくらいの距離があると言って過言ではない。

http://www.shizuoka.ac.jp/access/map_shizuoka_20150213.pdf

だからこういう学生寮というのは行きにくいし、自治寮ということもあり勝手に入ると文句を言われることもある。

国語科・・・片山寮には「ミス片山寮」と言われた国語科の高田真理子嬢がいたはずだ。
しかし退寮してしまっているので関係ないだろうし、元々小学校教育課程の国語専攻だったか、教心(教育心理)の国語専攻だったかよく分からない。

そんなことを考えながら、とぼとぼと山道を登って行くのはなんとなくわびしい。

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午後6時を回ったくらいでようやく寮について、何やら入って行くと

「ここだ ここだ」という大声の呼び声が聞こえる。

見れば飯島が窓から手招きをしている。

「勝手に入ってくるとうるせえからな!!」

「まあ、俺も今来たところだ」

「そっちの玄関から入って、回って来いよ」

・・・と周囲に聞こえるような声をだす。

何か雑然とした部屋に入ると、日焼けしたがっしりした感じの女子学生が二人。
一見して、国語科ではなくて体育科じゃないのかと思ったりして・・・
それに飯島と見知った顔がちらほら。
こういうことが好きな加藤や浜田も先着。

飯島が
「こちら・・・・」




「国語科の佐藤です。」

「佐伯です。」とてきぱきと応える女子学生。

「こっちは」と指さして

「浜田です。」

「加藤です。」
「望月です。」

「それとあとから来た」

「荒木です。」

「それでは模擬店では何を出すかですね」と飯島
「あ! 一応司会させていただきます。」
「何か案は??」

「・・・・・・・・・・」沈黙

「一応考えてみたのですけれど・・・」と佐藤嬢

何だ初めから決まっているじゃないか・・・というかベテランがいて助かったという感じ。

「まずは焼きそば」

「それと・・・・『おでん』を考えています。」

「少し時季外れかもしれませんが、他の模擬店と同じものだと困るので・・・」

「それと、焼きそばは夕食代わりなので利益は出ない計算です。」

「模擬店でみんなに働いてもらうわけですから、利益をださないと意味がありません。」


「『おでん』だけだと厳しいので他に何か対案はありませんか??」

 

なんか昔の学級委員長の話みたいだと思っていたのだが

「・・・・・・・・・・」沈黙

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「それで『焼き芋』なんかはどうでしょう」

「季節外れついでで、他の模擬店ではどこも出さないと思うので」

「・・・・・・・・・・」沈黙

「内容は任せるよ」と飯島

「それとここにいない子で3人くらい下ごしらえをするのだけど、手伝ってもらいたいんです。」

「寮の方は俺かやるよ」と飯島

「俺は料理が得意だから手伝うよ」

とイケメンの加藤が言うと

佐藤嬢がぎらりとにらんで

「それで よろしく!」

「そのほか料理の運搬をやってもらいたいのですけど・・・」

「自動車部だから車を調達してくるから」と言うと

「それもよろしく!」と佐藤嬢

いつの間にか飯島に代わって佐藤嬢が取り仕切って

「模擬店は6時からだから、お昼頃に寮に集まってくれれば」

「売る価格は、原価計算して決めることにしますから」

「そんなところで・・・・今日は」




と佐藤嬢が言い切ってなんとなく終了。

大して時間は掛からなかったが、寮を出ると夜はとっぷりと暮れていた。


飯島は
「去年は国語科だけでやったんだけど、男手が無くて困ったので今年は手伝ってやることにしたんだ」


・・・と言いながら送り出して、
「ちょっと別に寄るところがあるから」と寮に戻ってしまった。

この片山寮も建てて2年ほどしか経っていないはずなのに、学生運動の時に荒れたからかなり痛んでいる。
帰り道を見ると、人っ子一人いない山道のまばらにある街路灯も何か寂しい。

・・・と見ると浜田がバイクに乗っている。


「あれ!! バイクに乗ってきたのか??」


「あったり前じゃないか、こんな山の上に歩いてこられるか!」・・・・と京都訛り丸出しでいう。


「加藤は、自転車?」

「登ってくるのはきついが、帰りは楽だからね・・・」

と何かうれしそう。

・・・・・・・・・というとあっという間に二人は闇に消えてしまった。

そのあとには誰も続いて出て来ない。

寮生だったのかなとも思ったが、「帰り道を急がないと」と早足で急いだ。

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ここまで述べて、当時の状況を説明しておかないとよく分からない部分が出てくる。

1972年当時の静岡大学とその周辺地域は、2015年とは全く違う様相である。
当時は高度成長時代であって、大学の教授も10年経つと組織が2倍になると言っていたものである。
また、今静岡市と清水市は合併して政令指定都市静岡市だが、当時はそうではなく静岡県立大学も合併前の県立静岡女子大、薬大、女子短大(浜松)に分かれていた。

その一方、静岡大学は一期校、二期校時代の二期校であり関東、関西と分けると関西に分類される大学であった。
関西に分類されるというのは、大半が関西出身者が多くとりわけ愛知県出身者が多い。
正確には、名古屋に近い中部圏である。

そして、一期校、二期校の分類では関西には一期校が多く、そのほとんどが旧制高校、高等師範、高等工業、高等商業であったのに対して、関東(中部以北)では、旧帝大系と少しの旧制高校が一期校となっていた。
従い、学制としては関東(中部以北)に分類された静岡大学は、旧制静岡高校、浜松高等工業を母体としているものの関西系分類では妙な二期校であった。

こういうふうに関西ではほとんどが一期校の分類の中で、関西圏に入る静岡大学というのは京阪、名古屋地域の旧帝大系の大学の滑り止めという関係にあった。

また、工学部、理学部、人文学部(現・人文社会科学部)、教育学部、農学部も組織変更されて今現在はそのままの組織として残っていないし情報学部は存在もしていない。
この中で大きく違ったのが工学部と教育学部であり、特に教育学部は別物という印象が強い。
当時の静岡大学教育学部は、静岡、浜松、沼津の師範学校を統合した関係から定員約650人の大所帯であった。

教育学部を卒業すれば教員になれた時代で、学年トップクラスの女子学生が教育学部を目指すことがまだ多かった。

今では医学部を目指すのが普通だが、戦後のベビーブーマー世代であった当時では入学定員が少なかったこともあり、余程優秀でも現役で医学部に合格するということは稀だった。

従って、ここに登場する教育学部の女子学生というのは、ピンキリとはいうものの今なら医学部へ進学しているような女子学生が多かったという認識がある。

特に数人ずつしかいなかった、理学部、人文学部、農学部の女子学生はとてつもなく優秀だった。

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2015年5月15日 (金)

小説Syuun の不思議な少年時代 その36 (昭和47年1972)

今年も5月の連休がすぎ、今までこの時期に何をやっていたのかと考えたら高校時代まで何も思いつかない。
その昔のゴールデンウィークと言っても単なる飛び石連休で、4月から新年度が走り出したあとのほんの少しのお休みという感じだった。
だから今とは様相が違う。

 

「小説Syuun の不思議な少年時代 その35」では昭和39年、1964年という東京オリンピックの年で非常にトリッキーな年でもあった。
だからその部分はあとにして、一挙に10年後に飛んでしまうことにした。

 

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昭和47年という年の4月には、調べてみると外務省機密漏洩の「西山事件」があり、5月には沖縄返還。テルアビブ空港で日本赤軍乱射事件など70年安保の残滓が残る春先だった。
これは結構ハッキリと覚えていることだが、関心事ではなかった。

 

静岡大学工学部2年生になった頃の出来事としては夕方5時半までの本格的な専門科目が始まったこと。それと静岡生活もあと一年という片足が浜松に向いたなんとなく投げやりな感じだった。
元々静岡大学工学部を選んだ理由は理学、人文、農学、教育学部をもつ総合大学で少なくとも教養課程が静岡の(静岡キャンパス・大谷)本校で行われていたことである。
これを工学部生から言わせると「夢の世界」と言い、浜松の工学部のことを「忍耐の世界」-何と呼んだのかは忘れた。
その後工学部は統合になって全て浜松になってしまったが、「夢の世界」とはあながちウソではない。
それは、静岡とは「美人の宝庫」と言われていたからである。
その美人の宝庫と呼ばれた静岡なので、さぞかし美人が多かろうと言うことだったが確かに地元静岡の女性、女子学生にはその後見た限りでは、東京の銀座でも余り見かけない美人さんが多かった。
だから今まで見た美女の10人中で静岡がらみの人が一番多い。
そんな普段の美人さんなら着物が似合うだろうと、成人式に出かけていったらどこにも見当たらない。
静岡では江戸時代に華美を咎(とが)めて、美女を静岡から追い出したというよく分からない伝説を聞いたことがある。成人式の和服をみれば「さもありなん」という印象であった。

 

種を明かせば、静岡の女性は丸顔で洋装はよく似合うが、髪を結ってしまう和装は全然似合わないと言うことであった。

 

そんな美女達に突然出会うことになったのが1972年5月であった。
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取りあえず身近なところから挨拶して、一番綺麗どころの前まで来て、


ビールを継ごうとしたら、


「未成年なので・・・」

またかよ~と言う感じて断られる。

確かに大学1年生は未成年だよな。


しかし、何しに来たのよ!
高校生の合同ホームルームじゃないいんだ!


とりつくヒマがないので・・・

「女子大というと・・・どこ??」と聞くと

むっとした雰囲気で

「県立女子大です。」

「あ!   !!!!!静岡女子大ね!!!!」

とこのとき気がつく。


あとで確かめたところ「女子大」とは県立女子大(後の県立大学に統合)をさすようで、確かに県立女子大学の外は短大だけだった。

それに髪の毛の長い女性は苦手だな、こういうタイプは結構「お高い」んだ。
特に一年生だし。

「髪の毛・・・腰まであるの?」
「いえ、まだそこまでは・・」

と横を向いて首を振り、長い髪を振ってみせる。

それは確かに紺色のスカートと清楚な白っぽいブラウスの対比で色っぽいけど・・・


その仕草はどこかでやったことがあるの???と言いたくなる。

充分男を意識していることがありあり????


・・・・とはいうものの、腰まで髪の毛の長さは充分ありそうである。


「何学部?」

「文学部」

「地元? 自宅通学?」というと

こっくりさんのように頷く。

「どこ?」
「清水です」と女子学生。

「清水だったら近いものね」

(大学は、日本平の北側にあり清水寄)



卵型・・・か

地元静岡の娘らしく小顔、丸顔系だが、卵型の方が正確だろう。
身長は、160cmを切るくらいか静岡の女性はあまり背が高くない。




「どういうグループ?」

「出身高校が同じとか、同じ学科とかです!」


・・・・清水西高(女子校・旧清水高女・当時の有名進学校)かな?
・・・・静岡城北高校(女子校・旧静岡高女・当時の難関校)じゃないのね??



地元だから自宅通学というのは当たり前なのだが、通常この時点で「打ち切り」という感覚が出てくる。

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話が続かず、何かいやそうだったので

 

だんだん嫌味な質問・・・・・

話すことなどなくなって


目が宙に浮いている???

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「何で静大の教育を受けなかったの?」

「文学部がなかったから」


・・・・・人文学部があるではないかと言いたかったが、当時としては偏差値65~70ぐらいで高すぎ・・

「今月合コンはどことやったの?」

「先週 教育学部の人と・・・」

「ふ~~ん・・・・」

ますますいやな雰囲気になる。

 

結局それ以上話も続かず、名前も聞き出せずに退散。
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「話が続かないなぁ」と幹事の飯島にいうと

「自宅通学ばかりだからね、相手にならないよ!」という。

今なら携帯やスマホ、メールのやりとりも出来るが、自宅通学だと「親」を通さないとと言うハンデがつきまとう。

 

「なんか女子大の学生というのは雰囲気ちがうんだなぁ」

「それと・・・・・・あの娘(こ)見た目によらず結構・・・・・・・・あれなんなんだなぁ」

飯島「・・・・・・・・」

「結構・・男慣れしているよ!!!!!!」

「見た目じゃ分からないからね・・」

 

「教育学部の方はもっとフランクなんだが・・・」

 

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静岡大学工学部、教養課程2年になると週4回専門科目の授業と学生実験が始まる。
この専門科目の授業は80キロ離れた浜松の工学部から教授が出張してくるのである。
80キロと言っても新幹線で25分(当時)、東海道線で1時間であった。
それにしても朝8時40分から夕刻5時35分まで授業があるといささかいやになる。

 

そんな5月の連休後に「合コン」があるという回状が回ってきた。
「相手は女子大1年、金曜日の5時から静岡市内のいつものとこ。会費3,000円+参加希望者は記名のこと。-飯島」

「5時なんて、間に合わねぇじゃないか!」と友人・浜田に言いながら
授業終了後にあらかじめ調べておいたバスの時間割にしたがって、バス停に走った。
合コン会場に着いたのが午後6時を少し廻ったぐらい。

タクシー利用の先着組は、数名で一方、女性陣は銀行の受付宜しくテーブルに整列しているではないか。

いやな雰囲気と鋭い目線がピリピリとする。

「おう!」

という目線が飯島からくる。

飯島は、授業を途中で「あとは宜しく」と抜け出して5時には会場について、なんとかなだめていたようで。

「もうすぐ皆くるから・・・・・・・・」

と、そのあとタクシーに分乗した連中が到着。

6時半を廻ると後発の連中がぼちぼち到着して、ようやく合コンらしくなった。

しかし、依然として「ペルシャ猫」の軍団のようでにこりともしない。

気に入った学生がいなかったのかなと思うが、一番最後に到着したと思われる加藤の回りに女子学生の人垣が出来ている。


この背が高く男の目で見てもかなりイケメンの加藤君。

どうもこの美女達はめざとく「イケメン」は注目していたようで、

その取り巻きの女子学生と突然奇声を発すると、

突然「ペルシャ猫」が猫じゃらしに注目するように振り向く。

それでもお高い今なら「読者モデル」という雰囲気のこのロングヘヤーの女子学生は、席を移動すると言うこともなく男どもに背を向けて何やら友人とおしゃべり中。

何話しているのとその話の輪に入ろうとしたところ、そのロングヘヤーの女子学生は、突然なにやらショルダーバックをのぞき始めた。

・・・と少し腰を浮かしたと思ったら、もう時間なのでと立ち上がってあっという間に消えてしまった。


時間が7時を廻った頃であった。

 

その行動に触発されたか7時半ころにはめぼしい大半の女子学生は帰ってしまった。

 

残ったのは、加藤君に取り巻いていた数人の女子学生のみ。
加藤君は何か歌でも唄っているようでもある。

 

実はその加藤君というのは、ふだんは女性にも興味を示さない無口な人物。
だが酒を飲むと豹変するのでこういう場合は手が付けられない。

 

男どもは30分でお開きになったのでは仕方がないので、多少粘ったものの再度の飲み直しに行くものと、タクシーに分乗して帰る者とわかれた。
それでタクシー待ちをしていたら・・

 

「暑いから」
「歩いて帰るぞ」
と突然又、叫声が加藤君から発せられた。
それにつられて
「一緒に行く!!~~~~~~~~~」
と3名ほどの取り巻きの女子学生が長身の加藤に飛びつかんばかりの勢いで賛同。

「それは止めろよ」

「清水市だろう!」

(清水市はその後静岡市に合併)


取り巻いていた静岡の人としては長身でスマートな、一番可愛い娘(こ)はさすがにいやな顔をして、タクシーを拾いあっという間に消えてしまい・・・

加藤は、

「出かけるぞ」

「歩いて帰るのだ!!!!!」

と言い張って歌を唄いながら3人の女子学生を連れて出かけてしまった。



なんとも気分の悪い合コンだった。

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そんなこんなで、うたかたの「夢」もあれは何だったのかというほんの少しの出来事。

 

その上に、名簿交換は断られたそうな?


しかもあと1年で浜松だからと今の生活は「仮の住まい」。


彼女でも作って、何か心残りを残して浜松に行くのも面倒というのが何となくの心情でもあった。

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5月も下旬にきて、

幹事をやっていた飯島が

「この前は悪かったな・・・」

「いろいろな事情があったのだよ・・・・」

「こんどの開学祭に教育の国語科と模擬店をやることになった!」

「2年生だけどな」

「この前の合コンに参加したヤツだけに声をかけてるんだ!」

「来週の6時から寮(片山寮)で打ち合わせをやるから」

「・・・・・・・・・・・・・」

「寮生が絡んでるのだが、心配ないよ」




開学祭というのは、6月1日でこの日は休校日だ。

去年は、晴天だったことぐらいしか覚えていない。

一般学生から見ると「寮生」というのはなんとなく敬遠することが多い。

その理由は、70年安保では各学生寮が過激派の拠点になった。
それは1971年の春に教養部自治会が中核派(?)から民青に変わるまで続いた。

それに嫌気をさして1972年には、多くの学生が退寮して多くの空き部屋が出たということも事実である。


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飯島というヤツは、どこからこういう情報を仕入れてくるのか不思議なものである。

こういう飯島に限らず、工学部の学生にはいろいろな有益情報を仕入れる「ヤツ」が多くて、瞬時にクラス全体で共用する。

実はそれが進級や卒業して行く上での糧であって、有益な情報を仕入れられないヤツは、恩を売った友達を作って何とか教えてもらうか、脱落して行くしかないという現実がある。


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2014年12月14日 (日)

小説Syuun の不思議な少年時代 その35【昭和39年、1964年夏 その1】

Ken35



*****************
夏休みまで
**********************************

期末試験が終わり、夏休みが近くなると技術家庭の椅子作りも完成に近づく。

中学校の1年生の科目の一つである実技の技術家庭は、
「男子」は木製の椅子を作る。
「女子」はワンピースを作る。
と言うものである。
これは二クラス合同で行うもので、その授業になると休み時間、早々に実習教室に出かけて行く。
この椅子は、柔らかい赤ラワン材の一枚板から背もたれのない簡単な椅子を作ることだった。
こんなときは、ちょいと勉強ができるという「ヤツ」も形無しで、いかに要領よく間違えないかと、先に作っている生徒の後を追うことになる。
・・・と言うより授業の成績の良さそうなヤツは不器用なヤツが多いことがある。
とにかく、先に製作して失敗した例を見ながら上手く作ろうというのが本心だから製作は遅々として進まない。

この頃は、木製の模型キットから完全にプラモデルに移行する時期である。しかし、小学生の頃は模型と言えば木材から削り出す木製の模型が中心だった。
だからこの頃の子供は、木工という部分では多少たけていた。

この椅子作りは、1学期の中盤から始まっているのになかなか完成しないもう一つの理由は、失敗したものを直しながらということである。

それは、先に組み立てた生徒も二枚の横板の寸法が合わない。
それを見た先生が、
「胴つき鋸を使わないと寸法が狂う。」
とあとから言うくらいだから結構いい加減な授業だった。

「もう組み上がったのか!」
と既に椅子の形をしているものを持っている北島君にいう
「いや、寸法を合わせているだけだ」
と、それは単に椅子の脚をビスで仮止めしていただけだった。
だから、
「なにか、あわねぇなあ」と分解してまた何やら始める。

ここで失敗だったのは、面白がって鉋(かんな)で削りすぎたことであった。
そんなわけである程度均一のラワンの板の厚みが違ってしまった。

こういう中で通常の授業で目立った寺田君の様子を見ると作業速度は著しく遅い。
「寺田、何やってんだ~!」
といまだ椅子の部材も切り出していないのを見て言った。

「いやべつにしっかりやってるじゃないか!!!!!」
と言うが、授業終了時になっても作業は遅々として進まず。

そうとは言え、こちらも寸法の合わなくなったものはそれに合わせてあとの部材を切り出す、厚みが合わなくなったものはその分削るという面倒なことに追われた。

その中で、完成する生徒もぼちぼち出てくる中であと少しで、椅子の完成は夏休みの宿題になった。
********************************

担任の梅沢先生は理科教師なのだが、あるときこちらを向いて「おい達川と呼んだ」
呼ばれたのに自分の名前ではないから無視していると、名簿を目を落として・・

「あ、荒木か、達川と感じがよくにているんだよ」
「みんな、まちがえねぇか?」
するとクラス全員が「うん、うん」と頷く仕草が見える。

そう言われれば、小学校の頃にどういうわけか全く共通点もないのに達川君と比べられたことがあった。
ただし、大きく違うのは達川君はいつもクラストップで、こちらは劣等生だったことである。
・・とはいえ、自分ではまだ自分の実力を出していないと思うものの、どういうふうに発揮して良いか分からないのが実態だった。

そして、7月になると授業が半日で終わったり、授業が2時間だけだったりという日が続いた。

そんな何となく夏休みムードを感じるところとはいえ、まだ梅雨は上がっていない。
梅雨明け前の中休みである。

**********************
兄ちゃん 帰る
**********************

暑い夏は、クーラーがあるわけではないので玄関も全て開放して風の通りをよくしている。
特に東側からの風がよく入る場所に玄関がある。
その明るい日差しの中一人の人が現れて、いきなり玄関の上がり框(かまち)に腰をかけて靴を脱いでいる。

誰だろう、白ワイシャツに手提げバック程度しか持っていない。
それは兄が帰ってきたのである。

普通なら「かえってきたぞー」とか、何か挨拶でもして良さそうなのだが、
「おぅ」と言う程度。

荷物をほとんど持っていないと言うことに何か違和感があり、言葉が少ないと言うことにも妙な雰囲気がある。

その靴を脱いでる横顔を見ていると、ワイシャツの襟に銀色にひかる小さなバッチをしていた。
何も言わず、むっつりとして、
「お母さんは・・・?」というくらい。
*****
札幌からだと前橋まで帰ってくるのにまるまる1日かかるという。
札幌から特急で函館まで。
青函連絡船で青森。
青森から上野(大宮)まで寝台特急のはずだったが詳しいことは知らない。
寝台特急は、上野に朝着くはずだから時間的には多少ズレがある。東京へでも寄ってきたのかは分からない。

それから、兄は帰ってくると、何やら「ぼーっと」している。
疲れているようにも、そうでないようにも見える。

やがて母が帰ってきた。

「兄ちゃん帰ってきたよ!」
「ええ、そうなの!」

「20日頃に帰ると書いてきたんじゃないの!」と母。

「合宿が終わったあとに集中講義があるはずなんだけど、出てもしょうがないから・・」
「それで早めに帰ってきたのさ!」と兄はいう。

ずいぶん夏休みが早いのだなと思って、後日「いつから」と聞いてみたら私立大学並みに7月から夏休みなのだそうだ。

それからバッチについて、
「なんだあれは?」と聞くと・・・
その銀色にひかる小さなバッチをかざした。

これが北大の校章だったが、この頃の大学生というのは校章を付けるのが普通だった。
群馬大学の校章など、今ではそうそう目にすることはない。
しかし、この頃の本屋に行くと女子学生でもこの六角形の大きめのバッチを付けているのをよく見かけたものである。
それだけ当時の国立大学というのはステータスがあった証拠でもあった。
*************

これで今日は家族揃って夕食かと思いきや、以前は父は役所から夜9時頃にならないと帰らない。官庁だから5時に終わるはずなのに、当直の官吏の同僚と毎日麻雀や囲碁をやっているらしかった。
父は、こういう麻雀などはめっぽう強かったらしいし、囲碁も有段者だったという。
歌を歌わせればグリークラブだったからこちらも相当なものだった。
こういう遊びに関しては、母は
「立教(立教大学)だからね」
・・・と一刀両断である。

しかし、昨年に胃潰瘍の手術をしてから夕方6時ころには帰ってきていた。
それで夕食の頃には兄から新しい情報が聞けるかと楽しみにしていたのである。
それが・・・
「兄ちゃんは?」と母に聞くと

「疲れたからと言って寝ちゃたよ!」
「そのまま寝かしておこうと思ってね」という。

その後に兄が夕食を食べたのかどうかは分からない。
翌日の昼過ぎに学校から帰ってきてもまだ寝ていた。
「起こしてこようか」と母に言うと
「疲れているようだから、そのままにしておきなさい」という。
それで起きてきたのは夕方だった。
何となくテレビを見ていたりして生気がない。
同じような毎日が続き、ほとんど話もすることはない。

******************
みっちゃん
************************************

兄が帰ってきた最初の日曜日。

「今日、みっちゃんが寄るかもしれないから」とはがきを母が見せた。
これは少し前から小耳に挟んでいたことで、また赤城山でも行けるかと考えていた。
「みっちゃん」とは、母の妹で埼玉で裁縫学校と幼稚園を経営しているという事業家である。
この妹がクルマで来るという。
このみっちゃんは「寄れたら寄るからね」というのがいつも口癖である。

このみっちゃんがお昼の12時頃についた。
「赤城山に行くから・・・」
「運転手と『かず』が乗っているからあと二人なら乗れる!」

ここで兄が眠りこけていたら「僕が」母と出かけていたはずだが、このとき不思議なことに兄は朝から起きてテレビを見ていた。
「兄ちゃん行こう!」と母が言うと
何かに憑かれたようにそのまま車上の人になった。
クルマは初代ブルーバード(310型系)の1200CC。
その前のクルマは1000CCで赤城山の砂利道の山道を登るのにオーバーヒートしてまともに登れなかった。
こんどは大丈夫と言うことだったが・・・

夕方、なんとなく埃まみれでの上に疲れた様子の母と兄が帰ってきた。

「途中でクルマがオーバーヒートして、しばらく休んでいたので時間が掛かった」という。

なんだクルマを代えたからと言っても、昔と変わらないじゃないかと思ったが何も言わず。

この日曜日も大して兄と言葉も交わさず、日が過ぎて行く。
*************
7月の上旬、父が朝日新聞朝刊のミノルタカメラの広告を見て驚いていた。
「抽選くじが当たってる」
見ると当選は3本で、その一つだった。
このくじというのは、3月に「ミノルタハイマチック7」というカメラを買ってその際にもらったもの。
当たったのはナショナルのミニテープレコーダー。
30分しか録(と)れないオープンリールのもので、当時のミニテープレコーダーとしては最小である。
価格は、定価で10,000円程度。今の価格に換算すると4-5万円というところだろうか。
それが新聞を見ている間にウソのように届いた。

父は、遊びの勝負事やクジ運というのはめっぽう強くて、こういうものが当たっても不思議をなかったが、全国3名というのは何か嫌な感じがした。

こんな30分しか録れないミニテープレコーダーと言うのも使いようがなく、そのままにしておいた。

夏休みが近くなるとともに、兄の滞在期間も長くなって、多少話す機会も増えてきた。
「合宿って、何やってたんだ??」

「・・・・」
「フェンシングだ」
そういえば、肩幅も広くなってボディビルダーの選手の様な体になっている。
「荷物が届いたら一緒に送ったから、剣を見せてやるよ」

・・・とは言ってもチッキで送ったという荷物はなかなか届かない。

「テープレコーダーがあるよ」というと
自室へ持っていって、テープを入れて録音してみた。
「これ音悪いなぁ~」と
元々おいたままになっていた、かなり大きめのテープレコーダーと比較した。
30分ものだし・・・
「使い物にならないから持って行け!」と突き返されて居間のテーブルの上に戻した。


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2014年12月 6日 (土)

小説Syuun の不思議な少年時代 その34【昭和39年、1964年春 その4】

Ken34


 

その34【昭和39年、1964年春 その4】

1964年東京オリンピックの年。
東京ではオリンピックムードだったかもしれないが地方都市では全く蚊帳の外だった。
この年の春はとにかく暑い、それは春らしいカラッとした天気でもあった。

4月の混沌とした日々は、今で言う花粉症の時期であった。風邪を引いたのかと思って風邪薬を飲んでも一向に直らない。
花粉症だから当たり前というのは、今の話である。

前橋市立第1中学校の新一年生。

入学式の日にクラス分けが貼り出された。
何カ所かに巻紙の様なものを伸ばして行くが、なかなか名前が出てこない。
何クラスあるのかと漸く10組で見つけた。
全クラスで11組。
こういうのは何やら嫌な感じであって、この中のたった一人、ここで埋没するという印象さえ持った。
それは何かと言えば、この前橋市立第1中学校というのは公立中学とはいえ前橋市内ではトップ校という有名な進学校だったからである。
進学した生徒は、桃井小の一部、中央小、城南小の一部の各小学校からと越境入学していた生徒もいたのでほとんど知らない人達ばかり。
その越境入学とは、沼田や渋川、中之条あたりからも寄留という形で優秀な生徒が通っていたことである。
この寄留の生徒は、徐々に増えて行くことになるがそれは後の話。

小学校の頃は、学籍簿は「生まれ年順」で一番あとの方だった。
「中学に言えばアイウエオ順だから・・・」
と母や兄がいっていた通りでのアイウエオ順。
1番かと思ったら2番だった。
クラス全員で48人。
入学式後に教室も生徒で満杯で誰が誰なのかもさっぱり分からない。
同じ小学校からの生徒も桃井小からは学区の関係から約半分しか進学しない少数派。
またその桃井の中でも小学校3年まで養護学級(全県一区・後に保健学級と改名・定員17名)だったからますます知らない。

**************
梅沢先生
**************

そんな中で最初のホームルームが始まる。

新担任の梅沢先生はかなり濃い顔をしていて、何となく近づきたくない雰囲気がぷんぷんしていた。
小学校の先生と違って、これが中学校の先生かと思わせる何となく人間臭さの多い感じである。
全員の出席を取ったあとに・・始まる儀式というのは・・

「高橋、今年卒業した生徒に高橋という生徒がいた。これは高橋の知り合いか?」
高橋、「はい、僕の兄です。」
「あれは凄く優秀だったなぁ!!!」

「それから佐藤、佐藤という生徒がいたが、親戚か?」
佐藤、「関係ありません!」
「あっ、そうか」
「佐藤は、優秀で前高から東大へ進学したんだ」

このホームルームでは、クラス委員の選出というのがあった。

「クラス委員に立候補する人はいないか」と梅沢先生が叫ぶ。

このときのクラス委員は学級委員長、副委員長、生活、体育、放送、保健、図書委員・・・という7-8人である。
当たり前だがこんな時に手を上げるリスクを背負う生徒もいない。
それで決まり切ったようにこういった。

「それではこちらで選んでおいたから」と梅沢先生。

要するに小学校の内申の順というヤツであった。

「達川君、足立君、矢島君、寺田君・・・木内さん・・・」
と呼んで取りあえず委員を決め、学級委員長と各委員は委員の互選でと言うことだった。

こういう成績第一主義というのがこの頃で、ベビーブーム世代が中学3年に残っていたからかなり殺気だった雰囲気だった。
いや~な雰囲気というのは、こういう生存競争という現実を見ると今なら吐き気を催すのではないかと思われるものである。

そういう生存競争の落第生、その他大勢の一員だったSyuunは委員に当然選ばれるはずもない。

座る席は、名簿順だったから北側の前から二番目。
斜め後ろに学級委員長になった桃井小の秀才、達川君。
Syuunが付けたあだ名は夏目漱石の「坊ちゃん」を真似して「馬」である。
前の席は城南小からきた生活委員の足立君という具合だった。

この足立君というのは後ろ前だから何かと話すことが多くて閉口した。
しかも、数学はいつも満点だったりした自信家で、財布に入っている札はいつも新札。
今で言えば何か脂ぎった嫌な感じの銀行員と言うところか。
事実この足立君の父親は銀行員だったらしい。

******************************
この1964年の春と言えば「ツタンカーメン展」である。
以前のエントリーで紹介したとおり、空前絶後の動員数だったという展覧会。
当時の天皇誕生日だった4月29日に、このときどういうわけか母が熊谷高女時代の軟式テニスのペアだった友人と連絡を取ってツタンカーメン展に行くことになった。
(母は熊谷高女(現県立熊谷女子校)時代に軟式テニスで神宮(今で言う国体)に出場した。通称神宮の選手)

待ち合わせは、上野の博物館に8時。
この上野の博物館に8時に着くために未だ暗いうちに家族3人で家を出て、朝一番の上野行き列車に乗った。
列車に乗っているうちに夜明けを迎えたというのは子供としてはよく印象に残っているものであった。
新幹線は、この年のオリンピックに合わせて東海道のみだったし、準急(後に新特急)と呼ばれた「あかぎ号」は、朝7時54分(後に8時発)前橋発だった。

あの時の両親は幾つだったのかと思えば、50歳だった。今から思えばまだ若かった時代だった。

この「ツタンカーメン展」。
博物館の近くに行ったら8時にもならないのに博物館の周りを半周以上していた。
今は田舎暮らしとはいえ、父も母も若い頃、大学、就職と東京暮らしが長かった人達だからこんな時は不思議と水を得た魚のようであった。

そして、上京すると都電に乗って必ず日本橋の三越百貨店へ行くのが慣わしで、・・・と言っても買い物をするのではなく上階のレストランで昼食を食べたあとバーゲン会場を見て回るだけである。
そんなわけで日本橋の先の銀座に家族で行ったことはなかった。
もっとも、家族で上京したのは東京タワーが出来て3年目にタワーを見にでかけたときである。
これで午後がまるまる余ってしまったので、神田佐久間町の叔母の家によって叔母、大学生になっていた従兄弟とまた東京タワーを見に行った。
この頃は竣工当時と違って、大して混んでいなかったし展望台から階段で下りると言うこともしなかった。

父も母も何かと上京することが多かったとはいえ、今までほとんど家族旅行などしたことがなかったのに、何でこんな小旅行を家族でしたのかは分からない。

いずれにせよ、何となく楽しかった東京見物も終わり5月の連休の家庭訪問になった。

***********************************

この脂ぎった揉み上げの長い梅沢先生が家に来ると言うのもあまりぞっとしたものではない。
車が発達した時代ではなかったし、市街地も裏通りは未舗装。
ところがこの梅沢先生は、クルマできたようだ。
なんと言っても名簿順に回っていると言うのだ。

その梅沢先生の家庭訪問では、いきなり進学の話になった。

「それで・・どこの高校を狙っているの?」と梅沢先生は、そのぎょろりとした目をして言う。
「前高(まえたか)です。」というと
何やらノートに目にちらりと目を移したあとで言う
「どうして前高(前橋高校)なの?」
「・・・・・・・・・・・・・」
そこで母が
「兄も前高なのでそう思っているのですよ・・」
「兄の方は今年北海道大学へ進学しました・・・」というと
何やらホウ・・という印象をしながら
「前高は、結構入るのに難しいんだよ!」

「今、クラスで5-6番でも入れるそうではないですか?」と母。
何やら難しそうな顔をしながらまたノートをちらりと見て

「今まで5-6番でも合格している例はあるけど、今後どうなるか!」
「相当頑張らないとね!」

こんな押し問答で時間が過ぎ、家庭訪問が終わった。

その後に足立君の話を聞いたら、おんなじようなことを聞いたそうだ。
そしてノートの中身は小学校からの内申書だろうということだった。

こんな落ち着かない日々が過ぎ、中間試験となった。

学校の授業はと言えば・・・新しい科目の英語は、既に小学校6年から塾に行っていたからまるまる1年近く進んでいた。
だからよほど失敗しない限り満点というのは当たり前で、これは自分だけではなかった。主立った生徒は、みんな小学校から英語をやっていたから英語の授業の進み方は早い。
今から思えばかなりのハード授業だった。

この時点で高校の受験科目は9科目。
中学校もその受験科目に合わせて試験と順位が付けられる。
学年順位は、2年になってからだと言うことで男女別でクラス順位がついた。
だから試験は900点満点という今からでは考えられない広範囲なものであった。
広範囲というのは「音楽、美術、保健体育、技術家庭」の4科目もそれぞれ100点で、英語や数学などと同一点。
順位の上位に位置するためには、この4科目を制覇しないと意味がなかった。
ところが、この4科目の試験はどんなものなのかと言うことすら分からなかった時代であった。
だから、ほぼ満点を取らなければならなかった、この4科目で大きく点数のロスをした。

英語は100点だったが、あとの4科目がアラウンド80点そこそこたまに70点中盤。
単純に言えば5教科で手一杯であとの4教科の手が回らない。

前橋高校に合格するには入試の全問正解以外合格するすべはないから、かなり深刻な問題であった。
結果は、総得点は600点代で700点には及ばず、やはり4科目が大きく足を引っ張っていた。
それでもクラスでは5-6番(男)と言うところだった。
この状況は1学期中続いて、多少前高進学という話も夢となりそうな雰囲気で1学期が終わった。

この頃、今で言う補習校や予備校、学習塾というものは少なく、昔ながらの勉強法ばかりで特に良質な塾というものは存在しなかった。
しかも、公立の中学や高校の先生が学習塾をやっているというのも当然普通で、担任の梅沢先生もその一人だったらしい。

ところで小学校から行っていた英語塾は、高校の英語の先生が副業でやっていた私塾でだんだんと生徒が集まりすぎていた。
ここにいたのは、小塚、小池、岡野、坂本君・・・と中央小からの生徒を中心に、栗林、荻野、倉林さんなどの女子学生併せて10人くらいであった。
その後主要なメンバーは替わらず中学3年の頃には14-15人まで増えた。

学業での課題は、「音楽、美術、保健体育、技術家庭」の試験だった。
しかし、夏休みが近づくにつれて夏休みの宿題をどうするかが問題になった。
特に夏休みの課題の製作発表会をするということだった。

こういう発表会は兄の頃からあったもので、兄の作ったインチキ「無線機」などを見たことがあった。
そのインチキとは、無線機を作る予定が出来なくて、無線機風に見せかけたものだった。
本当のところは、真空管時代のアマチュア無線機を作る予定が部品がなくて、できなかったということだった。
後から考えれば、そんな小型の無線機(ハンディトランシーバー)ができるはずもなく同様の無線機が市販されたのは15~20年後である。

******************************

1964年7月9日の木曜日の暑い日に、突然北海道から兄が帰ってきた。

開襟シャツに灰色のズボンをはき、小さな手荷物だけを持っている。
その兄が突然玄関で靴を脱いでいた。
このとき
「やあ~」みたいなことを言うがイントネーションが違う。

「荷物は『チッキ』であとから駅に取りに行くから・・・」
チッキとは、国鉄の手荷物輸送で今で言えば宅配便で送ったと言うものである。
「お母さんは?」
「いないよ、買い物に行った!」
「ああ、そう」

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2014年12月 1日 (月)

小説・syuun の不思議な少年時代 その32(2012-01-10 23:15:58)

Ken1



syuun の不思議な少年時代 その32(2012-01-10 23:15:58)

映画「ALWAYS三丁目の夕日'64」という映画が公開される。
1964年と言うのは、東京オリンピックの年で種々記憶に残る。
その始めは札幌から手紙で「東京オリンピックの入場券を買って!!」いう話しが母のところに届いていた。札幌からと言うのは北大に進学していた兄からで、なぜ札幌で買えないのか不思議な手紙でもあった。
それで3月の末か4月に売り出された東京オリンピックのチケット。
日本が参加する様なバレーボールなどはとても買えるものではなく、買って来たのが「ホッケー」と「ラグビー」だった様な気がする。
バレーボールは買えなかったというと「それならけっこう(要らない)」ということらしかった。
1964年と言うのは、厭な年の幕開けというものだが特に熱い一年だった。

【昭和39年、1964年春 その2】

当時の典型的な学校建築である第一中学校。
今見れば耐震設計なども出来る余地がないほどの老朽建物である。
入学式、事前に購入した今でも学校で使っている上靴。この年の新入生は黄色だった。
ここで入学式があったはずなのだが、入学式の記憶というのがさっぱりない。
それもそのはず、この時の体育館(旧々体育館)は小さくてあまり人数が多いので入学式の代わりに放送で校長先生が挨拶して入学式の変わりをしたのである。
翌年には新体育館が出来てそんなことはなかった。
その上、クラス分けされたクラスの席についてもどう言うものだったのかも全く覚えていない。
多分、勝手に好きなところに座れと言うものだったのかも知れない。

担任は、M先生と言って理科の教師で天然パーマと「弥五郎」という特徴のある名前であった。
この「弥五郎」という名前は「祖父の名前」なのだそうで、その名前を引き継いだと自ら説明していた。
このM先生は学年主任でもあって、伯父と同じ年齢くらいだったらしい。
今でもこの名前でググルと「昭和47年度の教育研究の記録」に出てくる。
後年校長にもなったという噂だが、確認出来ていない。

一年生に入るとまずは部活の選択をするのだが、先生は異口同音に
「部活をしていると進学出来ないぞ!!」という時代なのである。
運動部、文化部‥‥という選択枝では事実上運動部しかなかった。
兄は、「電気部」というところに入っていて部長をしていたこともあった。それもカリスマ電気部長で部員が50人以上だったと言うから凄いものであった。
その電気部というのは何をしていたのかと言えば、ラジオなどを作っていたのであった。今で言えばパソコン部と言うようなところである。
そして、その電気部というのは部員がいないためにこの年に廃部になった。

最初のホームルームだったか、理科の授業だったかの話。
天然パーマのM弥五郎先生は、先生の記憶に残っている「先輩のOBと同じ名字」があると「◯◯という卒業生がいたが、◯◯は親戚か?」と聞くのが通例であった。
そして「◯◯と関係が明らかになると」
「◯◯は凄く勉強が出来たヤツだ」と言うのである。
小生から見れば「それが何だ」と思うのだが、3年生の時に再びM弥五郎先生が理科担当になった時も同じことを聞いた記憶がある。
そしてこのM弥五郎先生の悪い癖は、生徒がうるさくしていると後ろの黒板におもいっきりチョークを投げることであった。
「バシッ」と。
あるとき、黒板のチョークがないので「どうした」とM弥五郎先生が聞く。
すると生徒
「先生がみんな投げてしまったではないですか!!」
それでは、職員室からチョークを取ってこいと週番の生徒を職員室に取りに行かせるのであった。

Syuun の不思議な少年時代 その33

【昭和39年、1964年春 その3】

中学生生活が始まる。学校には生徒があふれかえって雑然としている。
1年生は1階、2年生は2階、3年生は3階と言うことになっていて、鉄筋校舎とはいうものの1年10組は北側の西隅(3クラス)だった。
1組から8組までは少し離れた木造二階建ての西校舎で日当たりは良かったが、非常にレトロの雰囲気が強かった。
実はその木造校舎が使われたのは、この年が最後である。

ベビーブーマーの世代直下というのは、何やら重苦しい雰囲気に包まれた世代であった。
考えてみれば今でも「ぞっとする」不安な毎日なのである。
それは中学に入った途端に高校進学という文字が片時も頭から離れたことがない。
その重圧を常に感じる毎日というのは今では想像もつかない。
今の親は、中学生の子どもに勉強を教えるということは程度の差こそあれさほど難しくは無い。しかし、当時の親は大正生まれの親である。
父親や母親は戦前の教育を受けた人たちで、小学校低学年なら兎も角中学の勉強を教えられるはずもない時代でもあった。
しかも当時は勉強のための参考書というのは少なく、その上に今のように進学塾が氾濫してもいない。
だから高校教師がアルバイトで塾をやっていることが多かった。

そんなスタートの中学生生活の4月は、平穏無事と言うより嵐の前の静けさというのが正しかった。
東京オリンピックと言うのもまだ視野に入っていない。
そういえば秋には東京オリンピックがあるという程度のものである。

この頃、4人家族の我が家は4人家族として成り立って以来最高に充実した時であった。充実したというよりもう一つの未来が開けたということである。
その一つは兄が北海道大学に進学したこと。もう一つは父が病気から立ち直ったことであった。
この二年前には父は、胃の痛みが激しく吐血もしていたのだが胃潰瘍らしいことが分かり手術した。今なら胃潰瘍などは早期に発見されて大したことにはならないことが多い。しかし、その昔は今では毎年の検診で胃カメラを飲むと言うことも普通に行われた分けではない。
実を言えば小生だけが何やら蚊帳の外にいた。

新中学生となった身では前述のように何とかして普通高校に紛れ込めないかと思案していたのが真実である。

新中学生の最初のスタートダッシュ。
今の子供達も全く同じで、この時期から如何にスタートダッシュを切れるかで中学3年間の大半が決まる。
転換期があるとすれば、二年になるときのクラス替えのチャンスの1回しかないというのも何となく分かっていた。しかし、何をして良いのかが分からないというのが本当である。

中学を卒業して高校の教科書を買ったとき、多少予習でもするかと思って英語の教科書を見て驚いた。
教科書の最初の一行からして全く刃が立たない。
夏休みにはヘミングウェイのFor Whom the Bell Tolls原書(誰がために鐘は鳴る)が課題だったり、トルストイの「人は何で生きるか」What Men Live Byの英語版だったりする。
小説は何とかなるが、英語の教科書は大学に入ってから読んだ専門書の何倍も難しいというのは今で思えば無意味な教科書だった気がする。

小学生から中学1年になる時は、高校に進学する時ほど急に難しくはないもののその変化に慣れるのには時間がかかるものである。

今は東大生が使う勉強ノートというようなものが売りに出されたり、「東大合格生のノートはかならず美しい」という本まである。

その昔もサブノートを作ると良いとして、ほとんど書かれているサブノートが売りに出されていた。しかし、そういうノートは中学校のレベルのことしか書かれていないから無駄の一言に尽きた。

そのスタートダッシュの4月というものは、何となく過ぎてしまった。
その昔は、部活は何でも良かったから「卓球部」に入った。
入ったと言っても顧問の英語の先生に入りたいと言っただけで何の案内もなかった。
その後に◯年◯組の教室が練習部屋になっていると言うのを知って、そこに行く事になった。1年生はラケットのフォームと基礎体力練習。ほとんど卓球台に向かう事もなく何か止めてしまった。
テニス部も大量に入るが、1年生は延々と球拾いでほとんど止めるのだそうな。
生徒が多かった時代の面白い現象であった。

そんなわけで早々と卓球部は幽霊部員になりその後止めてしまった。
それで何か咎められるという時代でもなく、内申書が悪くなると言うこともなかった。
そもそも高校受験に内申書は一切関係がない一発勝負だった。

連休に家庭訪問がある。
小学校の時代には、家庭訪問の時にはわざと家にいないようにしていた。
しかし、中学では家にいる必要があるのだとかで待っていた。



Syuun の不思議な少年時代 その34 Episode 3

中学に入学したのが1964年という忘れようとも忘れられない年。
映画「ALWAYS三丁目の夕日'64」の舞台になってしまった年として、今では再確認されているのかも知れない。
中学1年の時は、11クラス52人学級だった。
これだけ人数が多いと1年のうちに話もしない級友も数多い。当然名前も覚えていなかったクラスメイトもいて現在でも名前と顔が浮かぶのは十指に満たない。
なぜなのかと言えば、中学に進学してくる小学校は桃井小から約100名。中央小の全部約250名、城南小の過半数約200名と言う具合に桃井出身者のSyuunが見知っている学生が圧倒的に少ない。
しかも街の中心部を網羅する中央小からの進学者が一番成績優秀と来ているからなお更である。
その内の女子学生はと言うと中央小学校からの1人しか記憶にない。
なぜ名前と顔を記憶に留めたのかというと、その女学生「木戸まりこ」はその1年生の時に何度かクラスで1番の成績を取ったという噂だったからである。
しかも記憶は高校の時に前橋女子校(2年5組)とのクラス交換の時に同じグループになったという経緯で補強された。
そして、何十年かして名だたる事業家だった彼女の実家の仕事をさせてもらったということぐらい。
それもどういうわけか父がその家をよく知っていて、仕事をもらったという妙な縁でもあった。
その女子学生木戸まりこは当時はひょろひょろとして、首が長く細面の背が高い女性だった。
話をしたこともないし、同じ女子学生とも余り親しげにしていない木戸まりこの話し声さえ聞いたことはない。またその背が高いと言っても当時Syuunは身長160㎝程度。
成長が早い女性は、中学の時点で成長が止まっていることが多い。
それで中学に在籍しているうちに身長では楽々追い越すのだが1年の時は彼女の方が背が高かった。
容姿かたちと言っても、中学1年生のレベルでは女性を感じさせるものはなく、将来的には美形の女性になるのではないかという片鱗を見たくらいであった。
そして2年になってクラス編成替えとともに、忽然と消えてしまって以後見かけたことはなかった。
しかし、17歳の女子高生になった木戸まりこは、ひょろひょろとしてアンバランスな姿態は姿を消して美形の女子高生になってはいたが、それまで。
結果、単にすれ違ったというくらいの印象であった。

この中学生になる直前の春休み、母の実家へ遊びに行って女性としては将来的に係わり合いを持つ年代というのはこの頃かと気が付いたことがあった。
ただし、その年代とはその時まだ小学校にも上がっていない。

この頃の女性との係わり合い、「袖振り合うも多生の縁」というものはより少ない人数が集う英語塾というところでしかなかった。

*****************************************


syuun の不思議な少年時代 その19

第二部 希望を持って

新聞によると「ALWAYS 三丁目の夕日」の続編が作られそうだ。
「ALWAYS 三丁目の夕日」は、昭和33年(1958)年で、続編は34年だという。昭和33、34年と言えばノスタルジーを感じさせるかもしれないが、決して便利でも住みやすい世界でもになかった。
何としてもおかしいと思ったのは、33年にしてテレビがあったことだろう。
普通の家にはテレビなどほとんどなかった。そして、多分放送していたのはNHKと日本テレビくらいなもの。
力道山の試合は、8時か9時、「月光仮面」(TBS系)は7時くらいだった。
この頃は、夜更かしなどしなかった。
今で言う夜7時というのは当時は結構遅かった。
そして、他の民放が出来るのは34年頃だった。
そしてテレビが倍増したのが、34年の今の天皇のご成婚の時だ。それでも10軒に一軒もテレビはなかった。よく見たのは34年からのフジテレビ系の「少年ジェット」。
なぜ「少年ジェット」なのかと言えば、学校から帰って夕方友達の家に行って見たのがそうだったからだ。
TBS系の昭和33年から始まった「月光仮面」はほとんど見ることはなかった。
なぜか、それはまだどこにもテレビがなかったからだ。

そして、我が家にテレビが来たのが昭和38年の夏過ぎだった。確かNEC製。ナショナル製(松下)のテレビは高かったからかも知れないが以後NECばかりだった。
そして、その頃のテレビは「目に悪い」と言うので、青色の紫外線除けのフィルターをかぶせていた。実際、そんなフィルターを被せなければ白っぽくて見づらかった。

「ALWAYS 三丁目の夕日」でテレビを昭和33年に買ったと言うが、我が家ではラジオを買った。それも木製キャビネットの大きくて重いヤツ。当然真空管のもの。だから真空管が熱くなるまで音が出なかった。
何か短波放送も聴けるというのが自慢だったが、短波放送は株価ぐらいしかやっていなかった。
そして、地方ではNHKと東京放送が良く入感した。文化放送、日本放送になると深夜聞こえるかどうかだった。
そして、放送番組は夜9時で終わり、あと10時頃から文化放送で「戦争の話」をやっていた。戦争の話?、何だと思って夜更かしして聞いてみたが、いわゆる訳の分からない「反戦」放送だった。
だから、そんなものを聞くなと父が言ったのは間違いなかった。

オリンピックが近づいた1963年、実はまだ電話がなかった。電話は、この頃高い債権を買わされた上、抽選だった。局番は2局のみ。
だから、緊急の場合は電報を打った。

小学校の6年生。
新クラスになってよく見ると、ほとんど知らない人達ばかりだった。
1学年200人強で今では街場の小学校の全学年に相当する。しかし、実際は4年から普通クラスに入ったから知らないのも当然だった。
教師は、Y先生といった国語を専門とする教師だった。
それがどういう訳か、小学校6年生に中学と同じ国語の授業をした。今までの3-4年生の授業とは180度違った。
但し、音楽は、歌が中心で先生は、オルガンも上手に弾いたが、楽典は教われなかった。
ある時、昔のN先生が音楽の授業を代講したとき、楽典の簡単な質問をしたが誰も答えられず、あからさまに児童を馬鹿にした。
しかし、そのN先生が言った「楽典」の内容について中学に進学したときも習うこともなかったし、参考書にも書いてなかった。その時大方想像はついたが、全く無意味なことだった。
このY先生は、書道も熱心だった。書は授業の回数ごとに「級」をつけた。
そして、期末の「書道」成績は上の級から5が付けられた。
書道塾も10級から毎回競書を出すごとに級が上がったか、塾の競書の方が級の分類が多かったから、学校での級の方が上がりか早かった。
但し、小生はいつも二番手で「4」の口だった。6年の終わりは、確か2級が最高で終わり。
そして、最後の書道授業の時、墨が無くなって隣の席のA.M嬢(「5」の口)に墨をもらって書いた。
そうしたら、何やら上手く書けて級は2級で最上位に並んだ。まあしかし、「5」とするには一人多い。結局先生も迷ったあげく結果は「4」だった。
6年の終わりには、競書雑誌の「級」が追いついて1級(小学生)となったが、この手の競書雑誌では、まだまだ初心者の内だった。

子供ながら、学校での「書」の書き方を再確認するものではあった。
小学校の6年生というのは、実は良く覚えていない。各教科でつまずくこともなかったし、別に塾に行くこともなくても分からないことはなかった。
5年の時、分からなかった文章題の算数も、分からなかったのが不思議ぐらいに解けた。
夏には、プールで早々4級(50m)を取り、親戚に連れられて千葉の海に行った夏の終わりには3級(100m)を取った。但し、3級の黒線1本を付けることはなかった。

夏休みが過ぎ、実は何やらクラスでは妙な雰囲気が漂った。
それは、今で言う「お受験だ。」
ここの小学校からは、毎年国立の附属小学校へ編入試験を受ける児童がいたが、中学からは一クラスの募集があって、それを目指していた。
我がクラスからは、男1、女1の「お受験組」がいた。
だから、社会の授業などは歴史年表の暗唱など当たり前だった。
「鳴くよウグイス平安京」とは、附属中学校へ受かった、学年一の美少女で秀才だった「増田たまみ」が言った年号だった。‥‥794年平安遷都。
増田たまみとは、吉永小百合の小さい頃にそっくりだったと言えば、察しがつく。

一方、6年の夏休み後になって自分に現れた顕著だったのは、背が伸び始めた事だった。どちらかと言えば「ちび」だった4年生くらいから大部大きくなった。それにつれて、部分の力が出るようになった。
走る‥‥というのはこういう風に走るのか、とその時実感した。‥‥但しまだ実感が湧かなかった。


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2014年1月31日 (金)

<アーカイブ>syuun の不思議な少年時代 その31 【昭和39年、1964年春】

syuun の不思議な少年時代 その31

【昭和39年、1964年春】

昭和39年と言えば何を思い浮かべるのであろうか?
思い付かなければ1964年と言うことで、東京オリンピックの年である。この東京オリンピックを前にしてうちでもテレビをようやく買った。
テレビが普及したのが今上天皇の御成婚の年、昭和34年前後とも言われる。しかし、昭和34年にテレビを買ったという家はそれほど多くない。
それどころか、まだ電話も普及していなくて電話を入れるのには抽選だとか、債権を買うとかなどの種々の手続きが必要だった。
電話が急速に普及するのは、申し込みさえすれば入れることが出来たその翌年(昭和40年)くらいからである。
そして、その昭和39年という年が、小生(Syuun)のとって絶対に忘れられない年になるとは思いもよらなかった。

その昭和39年の4月。
朝八時前に家を出て、約1キロ先の中学校へ向かった。
その中学校とは、前橋市立第一中学校といって前橋刑務所の直ぐ隣にあった。
その中学へ行く道も中学を通り越して少し行くと行き止まりで、見渡す限り水田か桑畑のどちらかだった。
遠くに見える森が神社でその一画だけに人家があった。
そんな面影は、今ではとても思いもよらないもので、元々郊外に在ったはずの中学は今では市街地の真ん中になっている。
そして、真新しいダブダブの学生服を着て、今でも変わらない正門をくぐったもののどこへ行ったら良いのかうろうろする始末だった。
通学途中の上級生は新一年生か!と声をかけきて、「入学式はもっとあとだせ」と言うことらしかった。
考えてみれば、入学式の時間などを確認してこなかったし聞いた覚えもなかった。

兄がいれば多少なりとも助言を得るところであった。しかし、兄はその年北海道大学(当時の一期校)に合格して札幌に行ってしまった後だった。
母に言われたのは、「兄ちゃんもダブダブの学生服だったわよ!!」
と、ダブダブの学生服を怪訝に思う小生に言われたことぐらいであった。

多少雨が降り出し、9時を過ぎ誰いなくなった正面玄関の屋根のある通路で待ちくたびれていると一人の新入生と思われる男子学生が来た。
それは、同じように身体に合わない学生服を着ていて、お互いに制服を見せ合って何やらホットした気分だった。
さすが9時半になると玄関の通路は、新入生で一杯になってきた。
するとどこからともなく、先生が出て来て
「クラス分けを発表します。体育館の横に貼るので、それを見てクラスに集まるように!!」
‥‥と通路に集まった新入生は一斉に雨の中校庭を走って体育館の前まで行った。
黒山の人だかりを見ていても中々名前が出で来ない。
やっと見つけたと思ったら1年10組だった。
一クラス48人から49人、全11クラス、学年人数約535人。
この人数は、今では市街地の小学校に全校生徒よりも多い。
しかし、全校生徒となると約2,000人にもなるのである。
概算で大まかな人数を上げておくと、2年生13クラス約640人。3年生15クラス約780人。
こんな数値というのは今ではとても考えられない。今の第一中学校の全校生徒でも500人に満たない。

そんなわけで、1年10組約50人の名前は覚えきるうちに2年に進級してしまったというわけである。
ここから普通高校へ進学すると言うのがいかに困難を伴うのかと言うことを説明する。
当時の高校の通学区域というのは、前橋市、伊勢崎市とそれに隣接する郡部であった。
そして女子校を別として前橋市の唯一の公立普通高校とは、最難関校の県立前橋高校しかなかったのである。
その前橋高校には、おおむね伊勢崎とその周辺から約200人、前橋とその周辺から約200人という構成である。
ベビーブーマーの時期に合わせて定員が450人になったために増えたと言ってもSyuunなどが入学したときの定員が約432人。
そして「前橋とその周辺から約230人」という感じであった。
その約230人の構成とはどんなものだったのだろうか。
当時の中学校は、一中から七中までのナンバースクールのほかに7校、郡部に4校、群馬大学学芸学部付属中学校で全19中学校であった。
その内で付属中が概算で65人、一中が63人、三中が40人の4校で7割以上の入学者を占め残りの約60人が15中学からと越境入学者に占められると言うものであった。
だから、上位4校以外では、学年で5人程度入学出来れば良い方で、1人という中学も珍しくないのが現状であった。

そんな状況下で、「兄ちゃんが進学出来たのだから僕だって進学出来るさ!」という甘い気持ちだけしかなかった。
あとから考えてみれば、兄の時代というのはベビーブーマー世代の直前でかなり人数が少なかった時代であったと言うことだった。

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<アーカイブ>syuun の不思議な少年時代 その30 Episode 1 その8 【幼稚園の中のもう一つの幼稚園・年中時代3】

syuun の不思議な少年時代 その30 Episode 1
               その8

【幼稚園の中のもう一つの幼稚園・年中時代3】

そんなリンゴ狩り。
実は、知らされていなくて行かなかった人が沢山いた。
あとでリンゴ狩りの話しをしたら知らなかったという人達ばかりだった。
K園長は言う
「リンゴ狩りは、寄付金を納めた人達だけの個人的な遠足です。」
こんなことも問題になって、父母から抗議が出て、翌年からは園児全員がリンゴ狩りに行くことになった。
いずれにせよこのあと、母は相当腹立たしかったらしく、11月、12月分の寄付金は払わなかった。
その寄付金。
寄付金というのは規定はなくて暗黙の了解だった。
だから当然その額は、決まっていない。
入園当初に月謝を払った後に、会計担当の先生に「あと寄付金を納めてください」と言われたのだか、その寄付金を母は知らなくて金を持ってこなかった。
寄付金‥‥金額はというと「寄付金だから幾らでも構いません」とその先生は言う。
それでは分からないから「ふつう幾らぐらい払っているのですか?」と聞いたところ‥‥
困ったような顔をしながら「月謝の1ヶ月分の人が多いです」というものの、「(月謝の)半分の人もいます」という。
「寄付金ですので、払える金額で結構ですし、払える時で結構です」とも言っていた。
実際、その後色々な人に聞いて見たところほとんどの人達が「月謝の半分」だったようだ。

秋の深まる11月。
突然今までの単なる童謡からクリスマスソングに変わった。
毎日ジングルベルである。
そして、良く分からない聖書の話し。
そのうちに何やら年長組の混じって「劇のまねごと」に参加する様になった。
参加するといても、年長組が何かやるのを見ているようなその他大勢、台詞一言である。
その劇とは、クリスマスパーティに向けてのキリスト誕生の劇であることはその後分かった。
昼食の前に「天にまします我らが神よ‥‥」「アーメン」などとお祈りをしてから食事をすることさえ何だか分かりはしない時である。
ましてキリストというのは誰というのが当時の感覚であった。

そのクリスマスの観劇のリハーサルは、通常の園の授業を全く無視して延々と毎日続いた。
要するに、先生は観劇の準備に余念がなかった。
そして劇では、その背景や被り物などは既に作られていて、園児はその中に単に入れられるだけのことである。
今でこそ12月24日はクリスマスイブとして誰も知らない事はないのだが、昭和31年の冬ことである。
当然園児としては何も知らない。
そんなときには物知り顔の園児というのが何時もいて、キリストの馬屋での誕生秘話をとうとうと話してくれた。
しかし、それが何なのかは当時は知るよしもなかった。
12月中旬になると突然観劇のリハーサルの見学もその劇中に入ることもなくなり、園舎の教室で幾人かと延々と自習する日々か続く。
そしてリハーサルが済むと何時もの悪ガキが戻ってくると共に閉園時間が近づく。
そしてその24日が近づくと突然クリスマス会の観劇のリハーサルがなくなった。
別の日にする事になったのか、行われなくなったのかははっきりしない。
それで講堂を覗いてみると何やら雑然とした趣になっている。
そして、幼稚園の終業式というのは12月23日であった。

講堂は、既にクリスマス会の飾り付けは終え最終点検を先生がしているところである。
それでクリスマス会はどうなっているのかと先生に聞くと、「聞いてきます」と主任の先生に聞きに行くと午後の1時だったか2時だったかの時間であった。

12月24日の寒い一日。
午後の1時、2時ではおかしいと思って母に言うとそれなら12時頃に行ったらという。
それでも遅すぎると11時20分頃に幼稚園につくと講堂の椅子の半分はガラガラでクリスマス会は終盤にさしかかっている。
そしてなぜか休憩に入って、ざわざわとし始めているではないか。
良く見知っている悪ガキの後ろに行くと、
「おう、こっちへ来いよ」
「ずいぶん遅いじゃねーか、もう終わりだぜ」
という。
その悪ガキは、フサの付いた銀色の三角の帽子を被って、靴の形をした小さな菓子を持っている。
しばらくすると、先生が
「お菓子をもらっていない人はいませんか」という。
悪ガキ
「この子がもらっていません」と言うのだが、先生は嫌な顔をして無視する。
「なんで休憩に入ったの?」と悪ガキに聞くと‥‥
悪ガキ
「あ!、それは付属の卒業生が来るのが11時半なんだよ」
「なぜ?」
「付属(群馬大学学芸学部附属小学校)は今日が終業式なんだ」
そんなふうに話している間に、ゾロゾロと冬なのに半ズボンの制服を着た小学生が集まって一杯になってしまった。
それを見計らって、クリスマス会が再開されて園児の名前が呼ばれる。
園児は、呼ばれると前に出で行って今までもらった小さな「銀の靴の菓子」ではなく、より大きな「靴」か又は何かのものをもらう。
その悪ガキも呼ばれて、一抱えもある特別大きな「菓子の入った銀の靴」をもらってきた。
それから、後ろの小学生もゾロゾロと前に呼ばれて菓子のプレゼントをもらいそのまま帰ってしまう児童もいた。
それで終わる頃にはだんだん閑散として来て12時には終了。
帰り際に悪ガキは
「こちらがあるから、これはやるよ」
「見た目だけだからね‥」と
小さな「靴型の菓子の詰まった網」を寄こした。
うちへ帰ってこの「靴型の菓子」を開けてみると駄菓子屋で買うような「あめ玉2-3個」と「チョコ味のビスケット菓子」という有様。
それは確かに見た目だけのクリスマスプレゼントだった。

家に帰って、母に事情は話すと良く理解したようで
「来年はクリスマス会に参加出来るようにします」と言い切った。

昭和32年の12月。
前年のクリスマス会と同じようにリハーサルが始まり、役どころとしては一言だが前年に見たキリスト誕生秘話の部分ではない。
何を演じていたのかは今でも分かっていない。
しかし、前年のように「園舎の教室で幾人かと延々と自習する」という事はなくなった。
それでも数人自習していたのだが、昨年のことを園児に伝えると翌日から一緒に劇に加わるようになって、自習している園児はいなくなった。
昭和32年12月24日のクリスマス会。
小生が来る時間は10時だった。
それは、観劇に出る時間だと教えられたのだが‥‥

それで当日10時に行くと当然クリスマス会は始まっている。
既に、大きなクリスマスプレゼントの包みがあちこちに配られているのが見て取れた。
自分たちが座る席はガラガラで、まだ後から園児が来る様子だった。

しばらくすると自分の出番が廻ってきて壇上から降りてくると前年より多少大きい「銀の靴の菓子」をもらった。

そして、例の悪ガキに会うとこう言う
「僕は9時半だった」と昨年より多少小さい菓子の袋を上げて見せた。
クリスマス会は、9時から始まっていたらしかった。

何のことはない、寄付によって「クリスマスプレゼント」をもらう時間が異なり、もらう大きさも違うと言うわけだ。
「付属の卒業生は?」と悪ガキに聞くと
「今年から終業式が23日になったんだ」
「よく見ろ、後ろにいるだろ」
と言うような事を話しているうちに終了してしまった。
そして時間はなんと11時だったのである。

syuun の不思議な少年時代 その27 Episode 1 その7 【幼稚園の中のもう一つの幼稚園・年中時代2】

syuun の不思議な少年時代 その26 Episode 1 その6 【幼稚園の中のもう一つの幼稚園・年中時代2】

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<アーカイブ>syuun の不思議な少年時代 その29 Episode 2

syuun の不思議な少年時代 その29 Episode 2

その2 同窓会に出てこない人たち

syuun の不思議な少年時代 その28 Episode 2

syuun の不思議な少年時代 その27 Episode 1 その7

そのYとは連続して隣の席になったが、実に妙な人物だった。
試験のあるとき、ささっと答案を書き上げてほとんどの時間を残してボーッとしている。見ると、分からない問題は飛ばして空欄であった。小生は、当然全問解答していたからそんなに早くは終わらない。終わってから見直しと確認で時間は余す事はない。
そしてちらりと見れば、直ぐに分かる明らかに違っている解答がある。
密かに「それ書き間違いだそ」と指摘すると、ちらりと答案をみて「いいんだ」とそのままで提出した。
試験の点数ではYはそれほど悪くはなかったが、実力から言えば小生と大差ないと言うのが良く分かった一幕だがその後聞いたことがある。
S「どうして間違い解答を直さないのか」
Y「勉強が嫌いなんだよう!!!」
S「しかし、今そんなことを言っている暇はないのでは???」
Y「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」

事実として、大凡偏差値75以上あった前橋高校へ進学するには至難であった。
群馬県中からこの中学へ編入が絶えない時期であった当時、前橋市どころか群馬県の公立中学校でこの中学以上の進学率と「凄い中学生」が集まった場所はなかった。
結果で言うと、前橋高校へ進学した人数が一番多かったのがこの学年で、以後も以前もその記録は破られたことはない。しかも、その卒業生の中に数々の名前を知られた人物が散見するのも注目するところである。
そんな迫力のある人達の中で「勉強が嫌いなんだよう!」で済むものなのか。
そんな風な時代においては、能力があるのに「頑張らない」というのは親に対する親不孝であるし、結果として大きな禍根を残す気がするとは当時思ったものだが、自分の頭の蝿を追うのが関の山だった。
その後Yは小生の視界から消えてしまった。
そして、なぜそうなったのか今親になって良く分かるような気がするし、実の子どもも似たような感じがある。
女房殿は子育ての失敗と言い切ってしまって、あとは自己責任で大失敗すればと開き直ってしまったが、それは時代の違いである。

実際Yは「勉強が嫌いなんだよう!」で、創立4年目くらいの私立校に進学してその後どうなったのかは、その同期生の幼なじみが鬼籍に入ってしまったので良く分からない。
少なくとも、その後のYは親の後を継いで高額所得者・納税者の常連として新聞に載っていた。
そして、あるときは日本に3つしかない業種の大会社の社長として新聞に載っていた。
近年は、何回目かの独禁法違反で摘発されたという話が新聞に載った。

このYは、20歳の頃の同窓会にもその後何回か開催した同窓会にも一回も出で来なかった。
実は、同じように出で来なかった人物は幼稚園から知っていた幼なじみの女性であったが、人生の悪戯というのは、神様が人を試すように常に奇妙なところに人々を置く。

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2014年1月30日 (木)

<アーカイブ>syuun の不思議な少年時代 その28 Episode 2 その1 同窓会に出てこない人たち

syuun の不思議な少年時代 その28 Episode 2
その1 同窓会に出てこない人たち
Episode 1の続きはそのうち書き進めるとして、2に入る。

小学校の同窓会に出で来ない人たちは、「卒業アルバムと共に保存する一区切りのフォトブック」で多少触れている。その続きと言うのが中学校の同窓会に出で来ない人たちである。
中学の卒業が15歳と言うことであるから、いわゆるアイデンティティの確立以降のことで、小学校の場合とはより深刻な要素が漂う様な気がする。
小生などの時代は、ベビーブーマーの直下に位置してその煽りを食って大変だった時代である。今の菅総理などのベビーブーマー以前の人たちには、小生の兄などもいて弟としては常に兄を目標として何とか兄を超えたいと思うものが常であった。
その兄に対して、その組織力とカリスマ性には遠く及ばず、学業に対しても最終的には及ばなかった。兄は年齢において19歳で止まってしまったから、追い越したのは単に年齢だけでしかない。
しかし、勉強は兄の二倍はやったと言う自負はあっても時代の違いと言うのはいかんともし難い。
そんな将来的に不安を持ったまま中学2年になってクラス編成がなされた。
中学1年の時の成績は、クラス順位からして何とか前橋高校にすれすれと言ったところだったが、既にクラス格差というものが顕在した。
隣のクラスのCは、「俺、810点を超しているのに4番なんだぜ。」と愚痴る有様であった。810点というのは当時9科目だったから平均点90点以上と言うことである。
学年全部で550人程度の在籍だったが、平均点90点以上なら間違いなく学年で10番以内である。
そんなところで、小生も2年の最初の中間試験で驚くほどクラス順位が上がった。
それは一年の時、同じクラスのKも同じで、Kとは中学卒業まで順位争いをすることになる。
そんな中学二年の2学期に座席替えがあった。この座席替えである人物と隣り合わせになった。
その後こういう座席替えも中学3年では一つ一つ別の今の形式の新しい机になったから、こういう並んで座ると言うことは無くなった。
その人物のYは、一年の時も同じクラスだったかどうかは良く分からない。しかし、小学校の成績でクラス委員を選んだときに選ばれたことがあるのか、又は担任の教師が何か言っていたのか少々曰わく因縁のある人物だった。
何と言っても顔は役者面だし、何時も身綺麗でなにか高そうなものを持っていた。
その上、何やらピアノも弾けるらしい。
それから見れば小生など、楽器としてはギターやウクレレを持っていたものの正式に習うことはなく、絵を多少習っていたのに拘わらず図工で絵を描いて応募しても参加賞だけ。
流行っていた算盤塾のソロバンは、なぜソロバンが出来る様になるのか不思議に思うだけで全く身につかず。
そんなわけで、小中学では書道の書き初め大会でクラスで金賞を取ったくらいで何か成果を残したという記憶はない。
そういうことから言えば、Yというのは何やら数々の勲章を持っていたらしい。

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