syuun の不思議な少年時代

2024年7月15日 (月)

前中・前高 令和6年度同窓会に出席

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前中・前高 令和6年度同窓会に出席

令和6年7月13日、前橋商工会議所で開催された県立前橋高等学校の同窓会に出席した。

前回はコロナ直前2019年・令和元年の同窓会に出席した。

それから同窓会が中止または、総会だけになったり人数制限があったりであった。

今回は従来通り制限なく開催された。

この間に顔見知りの先輩方が亡くなったり、2019年の総会に参加していた同期3名が亡くなったと小暮氏から聞き及んだ。

昭和45年卒の参加者は、写真で確認すると13名(不明1)だった。

青柳・阿部・荒井・大島・岡崎・小田・木下・小暮・志塚・鈴木・田島・塚田・船津

(1名は、「岩」としか書かれていなくて未確認)

あとから確認したら名札が全部見えておらず本当は「岸」だった。

AFSで1年遅れて卒業したので正式には46年卒。

1971年当時NHKのステージ101で活躍した「唯一」の芸能人。

(101活躍期間Webより・1971年7月7日 - 1973年4月1日)

1971年夏は大学の夏休みで実家でTVを見て驚いたことを思い出す。


今回は高校一年の記念すべき「前高高高定期戦」に大きな影響を与えた深夜放送の始まり。

TBS深夜放送(パックインミュージック)

この第1、2回放送に投稿をして「前高高高定期戦」を大きく盛り上げた同じクラスの現小田(名誉教授)が北海道から参加した。

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会長は、1年先輩の都丸正樹氏に交代になっており、校長は新任で59年卒の天野正明校長になった。

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記念講演会の講師は、幹事学年(平成9年卒)の津田塾大学教授・ 深谷健氏。

演題は「多様化と標準化のはざまの日本の政策形成」

大学の授業を受けているようで、よく分からなかったのが事実であった。

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2023年7月 5日 (水)

記事「前代未聞の東大現役合格ゼロ、“生徒流出”の懸念が表面化

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「前代未聞の東大現役合格ゼロ、“生徒流出”の懸念が表面化

《東大京大への挑戦 群馬の合格ランキング」の疑問

地方紙に表記の記事があった。(公開:2023/6/19)

この記事は新聞の本紙では見つけられなくて、偶然Yahoo!ニュース(6/24)に全文が載っていた。

要するにWeb版だけの記事のようで今更「東大・京大」という50年前の高度成長期の学歴偏重時代を思わせる。


先ず結論を言えば・・・・

2015年以降、高崎高校(高高)に進学すべき生徒が中央中等教育学校(高崎)に流出して、「東大・京大」の現役合格者数で中央中等教育学校(高崎)に(数ではなく割合で)負けた。

それで約10年前に高高の校長をしていた「羽鳥進一先生」(47年前高卒)が「高高はもはやブランドではない」と嘆いている話。

その時に作った

「群馬県内高等学校 2年生対象東大合格セミナー」(群馬県高等学校長協会進路対策委員会主催)というのは今でも続いていると言う話。(例・前橋女子高など)

***********************

突然妙な企画でおかしいなと思ったら元々「中央中等教育学校」を持ち上げてその手の学習塾に繋げるようなサイトがあった。

実を言えば中央中等教育学校(偏差値は58程度Web調べ)は、定員120人(男女60)で進路実績の人数が少ない。

確かに最近前橋地域の予備校の進路実績に中央中等がチラホラ出始めている。

しかし、前高、前女が圧倒的に多くいわゆる誤差範囲である。

新聞記事では中央中等の影響が大きいとあるものの、この手の宣伝Webサイトでの分析によれで中央中等の影響は前橋女子高では全く見られていない。

同様に前橋高校でも影響は少なく、又浪人が多い前橋高校の進路実績では中央中等を凌駕している。

そうというのも前高、前女、高高、高女に対して中央中等の最上位層というのは男女を含めて120人中40人強であって実を言えばそれほど影響が大きいとは思えない。

そして現在前女と高女との比較で驚いたのは、2015年以降では高女は前女に上位層の人数で全く追いついていない。

そして記事ではあえて無視しているのは、2016年に中央中等から現役で東大理IIIに1名合格。

2018年に前橋高校から現役で東大理Ⅲに2名(合格者数98名)合格していることである。

要するに中央中等の進路実績に前橋高校は余り影響を受けていない証明ともいえる。

又、進路実績というのは、個人の資質の問題で優秀な生徒がどこに集まるかである。

10年前と直近しか見ていないで、今更「東大・京大」と前述のように高度成長期の話のようである。

京都大学は、東大紛争のあと東大とは全く違う傾向の試験になっているはず。


約50年前の高度成長期であれば、東京大学を出るとよい就職先に恵まれてたとえ使い物にならなくともそこそこの部署で安泰に過ごせた時代があった。

しかし、そういう時代は過ぎ去った。

進学する生徒が少なくなりつつある中で、私立高校は生徒確保のため進路実績を積み重ねるようになったのはもう随分前からである。

小生などの前橋高校の時代(1967)では、群馬県の東部全域から優秀な生徒が集まった。

しかし、前高の432人の定員が今では280人になり、昔の前高ではないとしみじみ思う。



 

 

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2023年6月26日 (月)

47-小説Syuunの不思議な少年時代 第47回・1967年(昭和42年)

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47-小説Syuunの不思議な少年時代    第47回・1967年(昭和42年)

★前高・高高定期戦3
--深夜放送の幕開け・パックインミュージックの後始末--

騎馬戦のあと--定期戦終了

その他の一般参加の試合は、玉入れと綱引き。

★玉入れは、1年、2年、3年と続いて行われる。

どうということはない。前高の負け。

1年生で参加する前高・高高定期戦は、いわゆる親善試合という認識だった。

しかし、高高はそうではなかった雰囲気があった。

★綱引きも、1年、2年、3年。

□1年生の綱引きだと呼ばれて見てみると高高側は既に定位置について準備している。

なぜか高高側の馴れた感じが嫌な雰囲気を醸し出す。

それで言われて白い体育着の前高1年生がとってつけたように綱に取りついた。

開始と同時に前高の負け。

交代の時に2年生と交代しない高高のメンバーを見たら綱引き用にスパイクなどを履いていた。

2年生の部になると前高は全員綱から離れて全員2年生と交代した。

その一方高高を見れば半分程度しか交代していなくて、最後尾は綱引き用に準備万端の体勢。

2年生の部はお約束なのか高高側が手を抜いたらしく、多少高高側に引かれたものの前高の「出来レース」のように前高の勝ち。

□3年生の部

前高は全員綱から離れて全員3年生と交代した。

その一方高高のひ弱そうな生徒が綱から離れ、1年の部に参加していたスパイクを履いているような人たちが戻ってきてガッチリと組む。

3年生は結構頑張ったものの最終的に高高に負け全体として2対1で高高の勝ち。

高高のお膳立ての上で何となく出来レースのようで終了。

この定期戦の結果は、部活の部分では前高が勝っていたものの、他の試合で完敗して全体としては高高の勝利。



前高高高定期戦が終わった時間、「秋の日はつるべ落とし」と言うように鬱蒼とした森からのぞく夕日がかなり傾いていた。

高高の校門前の未舗装路はたまにトラックが通る程度で閑散としていたところ、高高の生徒が校門を出て続々とバス停のある大通り方へ向かって帰って行く。

それに釣られて前高の生徒も道路にかなり出てきている。


この時どこからともなく小田君が現れ、校門近くの送迎バス待ちの前高集団の一員になった。

2台ぐらいバスが来ると「1年生からクラスに関係なくどれでもよいからバスに乗れ」という実行委員の指示が出た。

砂利道で砂ぼこりが舞うような高高前の車道に出て待っていた生徒が真っ先に1台目のバスに乗りすぐに出発した。

2台目のバスに我先に乗ろうとするとき、何となく嫌な感じになったことがあった。

それは校門から続々と高高生が帰って行く中で、校門近くで数人の高高の生徒がなぜかたむろしている。


その中の1人、高高の小柄な生徒が石の上に乗って何かを見ている。

単純にはバスを見ている風だが目つきが悪い。


校門の人混みの中から車道を渡ってバスに乗るところが勝負と考え、小田君に「帽子を被るか?」と誰かが帽子(前高の制帽)を渡した。

その帽子を深々と被って小田君が早歩きで道を渡り、あと数歩でバスの入り口にたどり着くこれで終わりだと思われた。

このとき目つきの悪い高高の生徒が全力で走ってきて、小田君に飛びついて帽子を引ったくった。

それを振り切って小田君はバスの中に逃れた。

その高高の生徒は、あっという間に高高の生徒の群れに紛れ込んでどこかへ行ってしまった。


たいした被害には逢わなかったものの、毛が数本抜けたと小田君は言っていた。

こんなことがあるなら友人達でガードすればよかったと今なら思う。

しかし、1年生でまだクラスのまとまりは全くない。

クラス全員の名前も覚えていないどころか顔もしっかり分からないこともあった。

その一方、高高の生徒は、本当に執念深く執拗であった。


バスは満員になったところで高高前のでこぼこした道をUターンして舗装の大通り(和田橋通り)に出た。

和田橋通りに出たバス停に高高の生徒が少し群がっている。

その時定期バスが来て、乗車するも行く方向が違うのかあまり乗っていない。

そのまま和田橋方面へバスが進むと高高生の黒い長蛇の列が続く。

何か異様な雰囲気だと思った。

和田橋を渡り始めるとそれははっきりして、高高生のほぼ全員が裸足で「セッタ」(ゴム草履)を履いていたことであった。

それはペタペタと音がするような雰囲気すら感じさせる。


そして、和田橋を渡りきったところのバス停に集まっていた。(現在バス停はナシ)


和田橋を過ぎるとバスは左折して当時新しくできた17号バイパスへ。

まだ交通量が少なく、日没になった道をバスのエンジン音が大きく響く。

みんな疲れて眠っているうちに前高についた。








******************
10月後半は2年生が「奈良京都の修学旅行」に行ったために教師も少なく、すぐに11月になった。



11月の最初の土日が前女(前橋女子高)の文化祭だった。

土曜日の下校時に自転車で小中学校同期の萩原君と一緒になった。

それで、帰り道に文化祭に寄っていこうと言うことになった。

前女の校門には「文化祭」の看板があるものの始まってすぐのためか案内はない。


本当に文化祭なとやっているのかという雰囲気の中、よく分からないので入れる昇降口から入った。

それでも何かあるのかと校舎内を見ていると、高女(高崎女子高)の生徒(実行委員?)が翌年開催する文化祭の参考にするための視察に来ていたらしい。

このとき、初めて高女の生徒を見た。

前女に行って、正面とは違う入り口から校舎に入ってしまったために結局迷った。

案内は正面にあるようなので聞いてみることにした。

そして、よく見ると前女の生徒はみんな帰り支度をして帰って行くところ。

この少なくなって行く生徒の中で、丁度来た女生徒に(一見どこかの御曹司のような風体の)萩原君が道を聞いた。

そのついでに萩原君が(よく見たら可愛かったので)「1年生?出身はどこ?」と聞いた。

「1年です、伊勢崎」

「え・伊勢崎???」

萩原君も絶句。

はっきり言って「範疇外」の女生徒であった。


前高もそうだが、前女約430人のうち200人前後が伊勢崎方面の出身。

200人弱が群馬大学附属中(附属)と1中、3中で大方占める。

前橋地域でも前女の生徒は、附属出身とその他というのは何となく分かる。

(正確には2年になってからで、この頃は出身中学の女子生徒の印象が強かった。

但し、ほとんどすれ違いでも逢ったことはない。)

特に「伊勢崎」出身というのは前橋地域と全く顔かたちが違う。

そして、「伊勢崎」というのは電車通学(現在JR)。



このときは全く「電車通学」の意味が分からなかった。

2年になって、伊勢崎の同級生に子細を教えてもらい愕然とした。

(この話は2年になったから)


単純に言えば、前女の「電車通学(伊勢崎方面)」の生徒は、同じく伊勢崎の前高生なら素性をよく知っていることだった。


この時代、進学校という前女でも四年制大学に進学する女子生徒は少数派だったと後に気がついている。


確かにこの当時、前女で国立大学に進学するには学年での成績で50番以内の順位が必要と言われていた。

前高では学年で100~150番以内。


今で思えば当時の1期校に進学した中学時代の2人クラスメイトの女子生徒は優秀すぎた。

ちなみにこの(一見どこかの御曹司のような風体で)長身の萩原君は、

中央大学法学部を卒業して、後年本当に「どこかの御曹司のような」立場になってしまった。

だから、最高級のレクサスを車検ごとに買うという身分になった。


 

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2023年5月 3日 (水)

1970年とヒトナミの青春時代

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1970年とヒトナミの青春時代

 自身の「青春時代」とは何だったのかと前橋高校時代を振り返ってみた。

 最近はテレビを見ていないけれど、その昔は「青春ドラマ」を放映していたことがある。

 しかし今の高校生はなにがしらの形で全員進学という時代になって、昔の青春ドラマは成立しなくなったような気がする。

 昭和42年・1967年当時女子のほとんどは高卒で就職し、当時の前橋高校のように全員進学というのは逆に今の高校に繋がっているように感じる。

 キラキラした高校1年生から虚ろな目になった高校三年生になり、1970年春に浪人生活を始めるとして東京へ出た。


 この浪人生活を始めるにあたり、親戚が知っていた昔ながらの下宿屋に住むことになった。

ここは3畳一間で、朝・夕食の2食が付いて10,000円でお釣りが来た。

 戦前からある下宿屋は3畳の部屋が4、6畳の部屋が1で、先に東大農学部があり少し歩くと郁文館高校の校庭が見えたような気がする。

 夏目漱石の「吾輩は猫である」の世界であった。



 母に連れられてこの下宿屋に行くのに高崎線特急「あかぎ号」を赤羽で下り京浜東北線「王子」で下車。

王子駅南口から飛鳥山公園へ登って本郷通りへ降り、当時まだあった都電(19番?)に乗った。(20円)

 東大が近くなるなと思っているときに下車して、坂道を上り向丘へ。

 よくこんな道で行くのかと思ったら娘時代に通った道だと母は、嬉々として言った。


 この下宿の住民はほとんど東大生で、夜中にならないとほとんど帰ってこないのであまり話をしたことがない。

 一応挨拶に行ったときに、多少雑談した。

 その時、「代々木」と「早稲田」には近づくなと何度も警告された。

「代々木」とは民青(日本民主青年同盟)、早稲田とは全共闘だという。

 予備校は研数学館(既に廃校)で水道橋駅からすぐのところで、向かい側に日大経済学部、その西側裏に法学部があった。

 予備校には巣鴨からくる都バス(都電が廃止されたばかり)で水道橋駅まで。

 70年安保で水道橋駅ではマイクを持ったヘルメットの人物の声が春先はうるさかった。




 令和5年3月28日に坂本龍一氏が亡くなって、多数の経歴が書かれた新聞記事が出た。

「龍」という文字があるので辰年だと思っていたら、誕生日が幾日も違わなかった。

 1970年坂本氏とは東京で同じ空気を吸っていたと思うものの大きな違いがある。

 代々木公園に集まっていたという坂本氏は東京生まれの藝大生、小生は群馬の田舎から出てきて翌年4月にはどうなっているのか分からない予備校生。

 今は全国どこでも東京とあまり違わない言葉を話す。

しかし、夏に通信のスクーリングに来た九州の人とは言葉が通じなかったという時代でもある。

 そもそも坂本氏は高校生時代から学生運動に関わっていたと新聞記事にあって別世界の人物である。

東大安田講堂事件の後、70年安保は高校にも波及して1968年に東京都立竹早高等学校は生徒によるロックアウトが起こり機動隊が導入された。


 しかし、公開模試で行った大学は静かなもので、銀座も新宿も全く学生運動などみじんの痕跡もなかった。

 学生運動が盛んな大学が近い駅には、学生運動家が大音量のマイクで何やら叫んでいた。

 浪人生としては巻き込まれないようにそういう駅には近づかなかった。

 しかし、代々木ゼミナールの講習へ行くときは代々木駅で大音量の学生運動家のマイクが耳障りだった。

 当時代々木(駅)学生の数は非常に多かったとはいえ、予備校と専門学校くらいしかなかった駅周辺、何を表現したかったのだろうか。

 浪人生にとっては、「学生としての身分」がある運動家を多少うらやましく思ったくらいである。


 正直言って浪人生ほどつらい身分はない。

 特に秋になると学力が上がらなくて絶望感が強くなる。

 そして決定的だったのは志望していた東北大学の入試が中止になったことである。

(大学のロックアウトにより。全員留年)

 これで進学を希望していた大学がなくなった。


 前高同期の研数学館生の1人は、予備校の授業が役に立たないと夏休み前に宅浪に切り替えて群馬へ帰って行った。

 事実、研数学館の講義は日本史以外全く役に立たなかった。

 代ゼミも研数学館も今から思えば私立大学受験を中心にしていて、国立大学を目指すなら他の予備校(駿台予備学校)などに行く必要があった。


 一浪すれば大学に入れるというのは全く嘘で、そもそもすれすれで落ちたような大学にしか受からない。

 大学に入って同じ学生アパートの住人が、1点(情報公開開示)足らなくて京大に落ちたといっていた。

 そしてまだ難問奇問が入試ではまかり通っていた時代、当時の偏差値62以上の国立大学に入るには難関国立大学専用の数学問題集「赤チャート」を完全マスターしても無理だと分かった。

 もう一つ上の何かが必要であった。

 そしてそれを2月になって偶然手に入れて大学に受かったのは運命かもしれない。 

※進学した静岡大学工学部は、難問(数学)奇問(日本史)でも有名だった。

但し、入学してから分かったことである。

 

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2023年3月20日 (月)

46-小説Syuunの不思議な少年時代第46回・1967年(昭和42年)

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二本線のある体育着が高高。

46-小説Syuunの不思議な少年時代第46回・1967年(昭和42年)

★前高・高高定期戦2

--深夜放送の幕開け・パックインミュージックの後始末--

慌ただしい昼食の後、午後一番の騎馬戦に備えて準備をし始めた。

体育着に着替えて明るい校庭に出て行く中で「お手洗い」に行くことになった。

不案内な高高校舎で、廊下に出たところ西の方(奥)から級友が来たので「お手洗い」はどこかと聞くと、「廊下の奥に行ったところにあるよ」と言う。


昔の木造校舎の小学校を思わせる板張りの暗い廊下を西に数人で歩いて行くと・・・

たくさんの短冊や大学受験に向けたスローガンが貼ってある部屋があった。

その先から出てくる級友がいて「ここがお手洗い」だという。

高高のお手洗いは「綺麗なのだな」と思い帰り際に廊下の短冊をみた。


どうもそこは職員室の前のようで、よく見ると「○○大学合格 ○○○○(君)」という少ない短冊のほかは、「東北大学合格○○名」、「群馬大学合格○○名」という数枚のものがあった。

当時は「大学」とは国立大学を示し、裏口入学や入試で学費の外に寄付金、学納金、学債購入が必要だった私立大学は大学とはよばれていない。

廊下の窓側には、模擬試験結果と思われる順位、点数、名前が張り出されていた。

B4用紙何枚にも及んで、過半以上の人数のようであった。

「全員ではないのか?・・・そうでもないような」という声が聞こえる中・・・

人数などを正確に見ようと思ったときに邪魔が入った。


こういう職員室前の張り紙は、前橋高校では全く見たことはなかったので実は驚いていたものであった。

前高だったら「○○大学合格 ○○○○(君)」という短冊だったら張り切れないだろうし、まして模擬試験結果など張り出されたことはない。

こういう張り紙などは進学校とはいえ、いわゆる二番手高校以下に見られる傾向で当時ダントツトップの前橋高校では全く見られないものであった。


正確に言うと、前橋高校では教師は大学受験に関して無関心で

「高校は大学受験の予備校ではない」

「大学受験は自分で勉強しろ」

と公言しながら、進路結果は学校や教師の成績という無責任なものだった。


邪魔が入ったのは、前高の先生が来たからで

「ここで何をしている」という。

「お手洗い」に行った帰りですと誰かが言うと・・

「お手洗いなら向こうにある」といって職員室に入っていった。


それでそそくさと待機室(教室)に帰ってきた。

あそこは職員用のトイレ(お手洗い)だったかと思った。

(2年後に高高に来たときは、生徒用のトイレの張り紙があった。)



体育着に着替えて校庭に出て騎馬戦に備えていると実行委員が来て、騎馬戦は1年生のみになり3回戦をするという。

又、各馬には前高・高高の審判がつくと説明した。

騎馬戦に出場する1年生が集まるまだ試合が始まる前に

「小田を探せ」という声が高高から何回も発せられた。

小田君に大丈夫かと聞くと


「隠れているから」といった。


小田君は騎馬戦で馬の左足をすることになっていて、顔が見られないようにして参加した。


****************


★1年騎馬戦1回戦

 


結果はあっという間に負けてしまった。

その理由は、前高が普通の態勢で高高に臨んだのに対して、写真のあるように高高が足を蹴り上げた暴力を振るった。


それで前高が怯(ひる)んだすきに騎馬を足止めし、後方の対峙していない遊撃隊という別の騎馬が後ろから回って帽子を取って回った。

審判がいたはずだが、帽子を取られたかどうかを確認するだけだった。

 

★1年騎馬戦2回戦

2回戦目は対戦する騎馬の数が合わず結構ゴタゴタした。

理由は、前高は高高の態度に嫌気をして2回戦目の騎馬が2騎辞退。

その一方、高高は1回戦を戦った騎馬3騎が居残りして3騎多くなった。

しかも審判の言うことを聞かず居残ったことによる。

それで、妥協策として前高は3騎補充して、高高は2騎崩して数合わせをしたという顛末。


●詳細経緯

前高は終わると一斉に全ての騎馬を崩して2回戦組と交代する。

その中には腹を抱えた友人がいて、「腹を蹴られた」と歪んだ顔をしていた。

こういう中で高高の余りの暴力に嫌気をして前高では2騎が辞退した。


しかし、双方2回戦の組が騎馬を組んだところで、騎馬戦の2回戦はなかなか始まらない。

それは前高と高高で騎馬の数が合わないからである。

現状、前高は2騎棄権、高高は、後方の(遊撃隊の)3騎が騎馬を崩さず居残っている。

それで騎馬の数をあわせるため、審判が前高の棄権した2騎の補充として一回戦組から加えた。

北側の(観戦者)人混みから出てきた生徒が、にやりと笑って「任せろ」と前側に整列した騎馬の後方で2騎が騎乗。

審判は、3騎多い高高の方に「一回戦から居残った騎馬」を崩せと説得して1騎が騎馬を崩した。

高高の後方の一回戦から居残ったのは2騎に減った。

高高の1回戦からの残留騎馬が審判の言うことを聞かずかなり手こずっている。

高高では2回戦めに交代した2回戦組の騎馬が辞退することはなく、当然まだ騎馬が多い。

審判はもう一度数を数えて高高の残った後方2騎を崩すように再び説得していた。

しかし、高高は2騎全てを崩すことを拒否しているようで、1騎を残すことで決着が付いたようだ。

これで高高の一回戦から居残りの騎馬は1騎に減った。

このように高高の1回戦からの残留騎馬が審判の言うことを聞かず、残り1騎に減るのに時間がかかった。

高高の騎馬が1騎増えたので、数あわせで前高は新規に1騎追加することになった。

新規の騎馬1騎は今度は南がわで観戦していた一回戦残留組が、後方外側で騎乗した。

互いに設定より1騎ずつ多くなった前高、高高の騎馬の数が揃(そろ)った。


★試合開始

試合開始とともに対峙していた正面の騎馬がぶつかると前高は高高の足蹴り攻撃を防御。

高高の騎馬と対峙していない遊撃隊2騎が一挙に後方の高高の1回戦から残る騎馬1騎に駆け寄る。

その後から追加された前高3騎目の遊撃隊が高高の騎馬外側からの帽子を3個奪取。

高高の遊撃隊1騎に対して、前高の2騎が襲いかかったので直ぐに帽子を奪取。

その後は混戦となったものの既に過半の帽子を奪取して体勢は前高の勝利。

そのまま前高が勝った。


さて、3回戦と思ったところ3回戦は中止となった。

実施していたら多分乱闘騒ぎになっていたかもしれない。

結果、騎馬戦は引き分けとなった。

以降、騎馬戦は前高-高高定期戦対戦に入れられていない。

結果、前高-高高定期戦騎馬戦の最後となった。


そして、1回戦の騎馬戦に参加していた小田君は、2回戦の準備でゴタゴタしている中どこかに消えていなくなった。

それにしても高高は、小田君の名前のみならず騎馬戦に参加するという情報をどこから入手したのか実に不思議だった。

その後の競技である「綱引き」で高高は妙な動きをして騎馬戦での疑義が深まった。

それは1年生だけが参加するという競技に「上級生が参加していないのか」ということであった。

*******************************

*******************

騎馬戦2回戦終了直後、前高の騎馬が試合開始の定位置に戻ってゆくとき。

既に帽子を取られても戦っていた高高の騎馬1騎が、この戻ってゆく騎馬1騎に後から襲いかかって帽子を無理矢理むしり取った。

このとき、髪の毛も少し抜けて顰蹙(ひんしゅく)をかったことであった。


阿部先生の情報によると・・・

後年になって、この高高の騎馬で帽子をむしり取った生徒が、「小田の帽子を取った」と言っているようであった。

しかし、小田君は1回戦の騎馬の足で参加して2回戦には参加していないし、帽子を取られた前高の生徒は小田君より背が高く顔も余り似ていない。

何か思い違いをしているのではないだろうか。



 

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2023年3月11日 (土)

45-小説Syuunの不思議な少年時代第45回・1967年(昭和42年)

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45-小説Syuunの不思議な少年時代第45回・1967年(昭和42年)

★前高・高高定期戦1

--深夜放送の幕開け・パックインミュージックの後始末--

少し秋めいて朝晩多少冷える頃になってもまだ木々は夏のままの秋晴れの朝、早めに登校した。

この朝の8時に前橋高校の正門(天川校舎・現県生涯教育センター)のところまで来ると、何台もの大型観光バスが列を作り未舗装先まで続いている。

(この頃前橋市内は急ピッチで舗装されていたところ、前橋駅から前橋高校までは、1934年(昭和9年)昭和天皇の陸軍特別大演習并地方行幸のおりに全舗装されている。)

見ると続々と上級生らしい生徒が乗り込んでいて、何やら不安をかき立てる風景でもあった。

これは前高・高高定期戦当日の朝の前橋高校の風景である。

近年の前橋高校の学校案内を見ると「前高・高高定期戦」は9月とある。

しかし、定期戦の写真を見れば分かるように衣替えの後で制服を着ている。

前高・高高定期戦は、実行委員が中心となって行っているので中々意思疎通が悪い。

当日はいつもの服装に体育の準備(+弁当+上履き)をして登校すれば良いと言うだけで、集合時間も周知されていない。

何もすることなく時間を潰していると9時半頃になって実行委員から「バスが来たから乗れ」という指示で急いでバスに乗った。

高崎高校というのはこのとき行ったことはなかった。

バスはできたばかりのバイパスを走ると思ったら、今でもある通常の路線バスと同じ「芝崎経由」で高崎へ向かう。

バスは、気がつけば烏川に架かる和田橋を渡っていた。

そして、突然右折すると高い木々か見えたと思ったら突然ガタガタとバスが大きく揺れ、未舗装の穴ぼこだらけの砂利道に突っ込んで止まった。

そう思ったら高崎高校の正門の前だった。

10時過ぎに到着した。

正門から見える高崎高校は整然と高い木々の並木が見え広い校庭と見合って、当時の貧相な前橋高校より旧制中学の趣が多く感じられた。



その校門から木々の合間を抜けて古い木造校舎に入ると、突然ゴミの散らかった入り口で印象が大きく崩れた。

それは昇降口の先の壁は大きく破られて、ゴミためと化した壁。

廊下にもあちこちにゴミが散乱して、とても信じられない光景が広がっていた。

前橋高校では、廊下に目に見える大きなゴミなど見たことはない。

その一方、高崎高校は「荒れた学校」という印象が強く残った。

余りに酷いのである生徒が先生に「ゴミが散らかっていますが!」というと「まあ高高だからね」と驚きもせずに言う。

それでまたある生徒が「清掃しても良いですか?」、それと前高のせいにされては困るので「壁が破れています」と同じく先生に言うと「高高に言っておく」という。

それで全員でゴミ拾いをして、教室内もゴミだらけと思えば廊下ほど手はなかった。

何の連絡もない中で手持ち無沙汰に待っていると実行委員が来て・・・

「もう試合は始まっている。」

「試合に出る者はすぐ着替えて、そうでない者はすぐに応援にゆけ」という。

個別の試合に出るクラスメイトは少なかったから、みんな制服のまますぐに飛び出した。

そうかと言っても高高は初めてなのでよく分からない。

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何かありそうだと思って、テニスコートなどを見て回った。

試合の状況を聞くと、高高側が多少優勢か前高がかろうじて勝った程度。

先輩に「高高はどうですか?」と聞くと渋い顔をして

「高高側は感情的になっていて感じが悪い」という。

部活の方は勝っているとの話は聞くものの、午前中でほぼ前高側が負けそうであった。

小生が参加するのは、午後の1番のスケジュールである騎馬戦。

それで午前中は単に試合を見るだけで、昼休みになって待機の教室に戻った。



昼はいつもの弁当だが、高高の正門前に小さなパン屋があったような。

どんなパン屋だったかと外を少しのぞいて帰ってきたところ、何やらバタバタした雰囲気があった。


その中で小田君が

「罠かもしれないけど・・行ってくるわ!」

行かないように止める声が聞こえる中

「ちょっと見てくるだけだから・・」と言うようなことを言って、どこかへ出かけていった。

どうしたのかと周囲聞いたところ、「校内放送があって呼び出された」と聞かされた。

校内放送は聞いていないので聞いてみたところ・・

その内容は「前女の生徒が応援で小田君に会いに来ていますので、○○教室までお越しください。放送室までお越しください。

」というような趣旨の放送だったような。
(訂正)

(阿部先生・情報)

小田君はすぐに戻ってきて「しっかり顔をみられた」といっていた。

周囲漏らした話では、呼び出された教室に行くと「男しかいなくて」・・・

おまえか」といわれたとか。


試合のスケジュールによれば、予定通り午後の最初の対戦は騎馬戦になっている。

その午後の騎馬戦に対して、実行委員から1年生だけで行うと告知された。

何やら微妙な感じになってきた。

 

 

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2023年1月28日 (土)

44-小説Syuunの不思議な少年時代第44回・1967年(昭和42年)

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44-小説Syuunの不思議な少年時代第44回・1967年(昭和42年)

深夜放送の幕開け・パックインミュージックのその後

前橋高校の二学期が始まると「深夜放送・パックインミュージック」の投稿者は誰だという噂で一杯になった。

そのうちに「俺だ」と密(ひそ)かに漏らす生徒がいた。

特別に目立つ生徒ではなかったので「だれ??」という感じだったのと、同時に同じクラスにいるとは思わなかった。

それは席の左後ろにいた小田君という生徒で、すぐに「名前が知られるとマズイ」といわれて否定することになったもののあっという間に名前は広まってしまった。

(小田君とは、後に北海道大学薬学部を卒業して今は北海道在住で「北海道医療大学薬学部・名誉教授」の小田和明先生である。※小田和明先生に確認了承済)


9月の実力試験が終わると新しい授業として「地学」が始まった。

大学入試とは関係のない新しい授業は、ピリピリしない何となく緩やかな雰囲気であった。

そういう中でいつの間にか「地層について調べて研究成果のレポートを出す」という課題が出た。

それも「幾人かでグループを作って調査」という課題で、前の席の「阿部君」その隣・左斜め前の「岩崎君」(群大附属中出身)と3人で組を作ることにした。


課題の調査は次の日曜日、前橋公園に朝6時集合と言うことになった。

前橋公園は、土手の上の公園部分と土手下の「さちの池」周辺という広いところで、利根川によって浸食された地層がこのころではあちこちに残っていた。

その9月の天気のよい日曜日、朝目覚めると6時だった。

まだ夏の余韻を多く残す気持ちの良い朝で・・・すぐに前橋公園まで自転車を飛ばして6時15分頃についたものの、人っ子1人見当たらず見つからない。

6時30分頃まで探して集合場所の岩崎君の家に向かうことにした。

岩崎君の家は前橋駅前の細い路地の東側にあって、以前下校のとき「ここだ」と教えてもらったはず。

しかし、同じような大きさの家が連なって多少分かりにくいところであった。



戦前からある前橋駅前のケヤキ並木大通りの西側路地には、小さな住宅が密集して建っていた一方、東側は倉庫と工場など雑然としていてたところである。

今では住宅はほとんどなくなって、マンション、ビジネスホテルと駐車場と殺風景な雰囲気が広がる。



少し空き地があったくらいのこの頃、夏のこの時間では日差しが差し込まず日陰で少し薄暗い。

同じ規模の家が連なる中、岩崎君の家が見つかるかと心配していたところ、阿部君と岩崎君の姿が見えた。

「ああここか」とほっとした。

なぜか家に入らず立ち話をしていて「家の前にいるのか ??」

駐車場のマツダ・ファミリアの横まで行って・・・

「どうしたの?」と尋ねると

「うちは日曜日は遅いから・・」という。

それから30分くらい時間を潰して、7時20分近くなると「もう良いだろう」と静かに玄関を開けて応接間に入った。

※玄関を入ると当時の住宅の主流の設計で、玄関ホール横に2階に上がる木製階段がある。

その向かいの玄関横が応接間になっていた。


「音を立てるなよ」と岩崎君がいうものの、入り口の木製の扉の音くらいはする。

いわゆる昔ながらの玄関横の「応接間」に入ると、エンサイクロペディア(英語版)が本棚にこれ見よがしに並べられていた。


「あ~社長さんの家だ」と理解した。

昭和40年代に百科事典を買うというブームがあった。

それは会社の社長さんというクラスの家に、米国の百科事典をセールスしていた時代である。

(英語の文学全集が附属)

又その頃は、日本文学全集とか世界文学全集とかを買っていた時代でもある。

家では平凡社かどこかのカラー百科事典を買っていた。

2-3か月か半年に1冊ずつの配刊で全巻揃(そろ)うのに何年もかかった。

*************


7時頃になると階段を下りる足音などがして、部屋の扉が突然開いた。

ノーメイクの非常に綺麗なお姉さんが顔を出して・・・「お友達がいるのね!」

「誰?・お姉さんがいた?」と聞くと岩崎君が母親だという。

<情報通・阿部君情報>によると「岩崎君は20歳くらいで生まれた子だと言う」

・・・そうするとお母さんは30歳台後半?

そうであれば「お姉さんと間違っても全く不思議はない」。

8時頃になって、紅茶とお菓子を持って再びあらわれたときは「老けメイク」で40歳前半のような感じであった。

「かまわなくて良いから」と岩崎君が言う。

<阿部君情報>
それほど親しくない連中が来たので、多大な接待は不要との意味を背後に感じたものでした。

<解説>

※阿部君と小生は、前橋市立第1中学校出身で岩崎君は、群馬大学教育(学芸)学部附属中学校出身。

(昭和42年当時)

附属中出身者は小学校入学組と中学からと大きく分かれる。

附属中学のトップクラスを構成する中学からの生徒では、郡部(当時)の子や転勤族も多くハイソ(High society)を目指すような雰囲気は全くない。

(小学校の時の抽選で落ちた生徒の受験組も多い。)

その一方、小学校から入学した生徒は旧市街地の少しハイソを目指す家庭出身者が多い。

しかし、その約3割は前高、前女に進学できていない。(中学全体では約18%)


以前に清心幼稚園時代の記事で、卒業式に附属小学校の制服を着ていた10人程度の級友の内1人も前高に進学していない。

(制服を着ていなかった友人は、前高~東大に進学。)

要するに阿部君と小生は、のんびりとしたハイソな雰囲気は全く持っていなかったということになる。

そして、何となく感覚が違う附属中出身者(在校生の約14%)との交流は非常に少なかった。


*****************

地学のレポートは、集合時間に間に遅れたことから全部小生が書くことになった。

それなので打合せは短時間で終わり8時半過ぎには終了。

そのレポートはどう書いたのかは全く覚えていないものの、書き上がったものを提出前に見せて了解を得たことを覚えている。

そして提出レポートは、クラスで一番の評価を得て授業で小生が発表した。


***********************
<阿部君情報>

当日、荒井先生不在での地層探検は、がけの上の方まで登ったりで、結構なアドベンチャー気分を味わったもの。

確かクロスラミナを発見したことを報告したので、クラストップの評価になったと記憶。
*********************

その岩崎君の家もその後10年少したった頃には、どこにあったのか全く分からない景色で消えていた。

こんなことで9月も無事に終わり10月になった。

10月と言えば初めての「前高高高定期戦」の時期になる。



そして同時期にコンサートがあった。

バイオリンの「江藤俊哉」のコンサートである。

何となく慌ただしさの中で、午後に行われたコンサートは、1年生なので体育館の割合と前の方の席だった。

このコンサートが始まる前のお昼頃、体育館の前で結構強面(こわもて)のオジさんがバイオリンを弾いていた。


この演奏会、演奏が終わるとあっと言うのに帰ってしまった。


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2022年11月 7日 (月)

04深夜放送の幕開け・パックインミュージック・小説Syuunの不思議な少年時代43・1967年(昭和42年)

19677200782
1968・前高高高定期戦・前橋高校校庭


04深夜放送の幕開け・パックインミュージック・小説Syuunの不思議な少年時代43・1967年(昭和42年)

修正 2022/11/08

第二校歌・復元

★パックインミュージック(1967年7月31日から1982年7月31日)事件。

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高崎高校では「山猿」と呼んだことによって、高崎高校の生徒が激怒したと言うのは第3回木曜深夜の投書によって明らかになる。
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第3回木曜深夜★★★★★★
1967年8月25日1時より・・・(24日深夜25時)

待ちに待った木曜日深夜(金曜日)24日深夜、パックインミュージック-(野沢那智と白石冬美) が始まった。

その第一声は当然「前橋高校と高崎高校」に関する前回の前高のリスナーの続きの投稿。

しかし簡単に紹介し、肩透かしであった。

その一方で高崎高校のリスナーからの投稿を紹介した。

その内容は2回の放送内容に対して一つ一つ反論したものだった。

しかし、書いてある内容は「伝聞」であるかのように不正確な上、文章の稚拙。

そして反論内容は単なる罵詈雑言に終始して全く説得力がないものだった。

最後には、前高・高高定期戦の話しに及び「首を洗って待っていろ」という捨て台詞で終わっていた。

しかし、このときの「山猿」は今(2022)では前橋高校の掲示板に「山猿高校」と書かれていることに驚くものでもある。

前橋高校のリスナー投稿の流れる様な文章は、元々放送作家が書いたものかと思ったくらいの名文で文章の質だけで勝負があったように思う。


パーソナリティの野沢那智も前高-高高を煽りすぎたかと思ったのであろう。

「これはここまでにしてと」・・・以後前橋高校や高崎高校の話題を取り上げたことはない。

前橋高校も一躍有名にはなった一方で、この3回の冒頭投稿によってパックインミュージック木曜日が軌道に乗って何年も続くことになった。

実を言えば「前橋高校の話題」以降目を引く投稿というのはほとんど見られなかった。




そうして高校の3年間には、話題がなくなり野沢那智自身が主宰する赤字続きの劇団「ばら座」の話などの身の上話が多くなったことがある。

それに関連して野沢那智自身の「奥さんが突然荷物を持って押しかけてきた」結婚とその破綻の原因など、何も知らない高校生の身では興味深かった。    
野沢那智自身が言う破綻の原因は、声優などをして漸(ようや)く食べられるようになると突然「劇団」にお金を使ってしまい奥さんが「質屋」に通う始末だったという。

その他、当時の人気番組「ナポレオン・ソロ」のイリヤ・ニコヴィッチ・クリヤキンの吹き替え。
このときオーディションでやけになって高い声を出したら採用されて困ったとの逸話(エピソード)。

収録の時には体調に気をつけて臨んだという。
******************

いずれにせよ夏休みが終わり新学期になる。

その夏休みが終わる直前に「新しい教科書」を購入した。

世界史の授業が終わり、地学、化学そして数学Iと英語のReaderの教科書が変わった。

英語の教科書はあのねつ造記事が載っていたReaderで、英語も数学Iの教科書も受験に合わなくなったらしい。

そして9月が始まる。

新学期が始まると数学と英語の実力試験。

そしてすぐに「前高・高高定期戦」のクラス対抗試合が始まった。

*******************

ここで少し当時の前橋高校を取り巻く環境、風潮というものは令和の今とは全く違っていると説明しないと分からないことが多い。

今現在(2022)前橋高校の定員は280人、1967年の定員は441人(49人クラス9組・卒業440人) 。

統計で18歳人口を見てみると

1967年人口236万人
2022年人口112万人

18歳人口減少が始まる「18年問題」と言われた2018年は118万人である。

単純に比例計算での定員は約209人。

当時は、前橋市では他に男子が進学できる公立の普通高校はなく、私立高校の「特進」という進学クラスもなかった。

不合格なら「高校浪人」をして前橋高校に入学している。

しかも高校浪人をしたから前橋高校でも成績が悪いということもなく、大学は医学部に進学した例もある。

その他、群馬県内の地区で市役所以外の5支部同窓会がある。

「伊勢崎佐波 前中・前高同窓会」(伊勢崎)というのは当時の通学範囲である一方
○東毛 前高同窓会(桐生)
○西毛地区 前中・前高同窓会(高崎)
○前中・前高北毛同窓会(渋川)

などは当時では通学区域外で事実上群馬県中から生徒(前高生)が集まっていた。

1年生の時、中之条(群馬北部)から2時間かけて通学していた生徒も数人いた。

このことから今に換算すると実質150人程度の定員の難易度に相当すると考えられる。

当時の前橋高校がいかに難関だったかわかるものである。


2019年の前橋高校資料によると現役進学は69%とある。

近年では2015年が70%を越え、その後65%前後に落ち込んでいたと記憶する。

その一方1967年当時では、教師は「高校は4年あると考えてくれ」と述べている。

一浪は「ひとなみ」と呼ばれ理系の生徒の約80%以上が浪人している。

当時は、大学進学予備校の全盛期を迎えようとしていた頃でもあった。

今のように私立大学が乱立している時代ではなく、また今ある有名私大も設立されたばかりだったりした。

戦後のベビーブーム世代直下というのはいつも一つのブームを作る。

そうして、高度成長時代が終わる「石油ショック」は、昭和48年(1973)で6年後である。
*********************

クラス対抗試合は、卓球を選んだ。

しかし、クラス対抗で最初に当たった堀口君(1中出身)のカット攻撃にあっさりと敗れてしまった。

この堀口君とは不思議な縁で、どう言う訳かその後スキーによく行く仲間となり、高校3年の時には同じクラスに。

ひとなみで静岡大学(二期校)に進学しても夏休みに一緒に山に登ったり、日光へドライブをしたりと大学2年までは多少の交流があった。

その後逢うことはなかったものの、前高3年のクラス同窓会を含めて今でも合うことがある。

(堀口君は、当時一期校・新潟大学工学部に現役合格していたので学年が上で、その後は卒業研究や就職活動で忙しくなったので会えなくなったという理由。)

それで小生が参加する「前高・高高定期戦」では騎馬戦に出場することだけになった。


そして「前高・高高定期戦」が近づくと1-2年生を中心として、「騎馬戦」、「綱引き」、「玉入れ」などの練習が徐々に始まった。

このときの応援団はまだ3年生がやっていた。

この練習では、先ず「校歌」や「応援歌」、「凱旋歌」の斉唱から始まる。

終わりには、校歌や応援歌、凱旋歌が歌われることもあった中で、目を引いたのは「第二校歌」という数え歌であった。

この引退間際の応援団長の「第二校歌」での流れるような指揮は今でも目に浮かぶ。
***********************

正式な歌集に載っていない「第二校歌」は、廃れてしまった。

それをWeb上で再現したものを引用する。

但し、修学旅行用の歌集に掲載されていたものらしく1967年当時の第二校歌とは違っている。

前橋高校 第2校歌**********

一つとせー
ひーとつ田んぼの中にある
前橋高校良いところ
そいつは豪気だね そいつはねー

二つとせ~~
双子山から煙(けむ)が出て
今日もエンタで日が暮れる
そいつぁ豪気だね そいつぁね~~

三つとせ、それ三つとせ
見たか聞いたか前高の
揃いも揃ったバカ員教
そいつぁ豪気だね、そいつぁねぇ~

四っつとせ~え~え それ四っつとせ
横目で睨んだ女学生~
胸の辺りが気にかかる
そいつぁ豪気だね そいつぁえ~

五つとせ~~
粋な洋館伊達じゃない
硬派軟派の養成所
そいつぁ豪気だね そいつぁね~~

六っつとせ~え~え それ六っつとせ
昔なじみの女学生~
今じゃ愛しの花嫁さ
そいつぁ豪気だね そいつぁえ~

七つとせー
斜め道路で体当たり
彼女はエス校の落第生
そいつは豪気だね、そいつはねー

八つとせー
やっぱり気になる女子高生
腰のあたりが気に掛かる
そいつは豪気だね、そいつはねー

九つとせ~え~え それ九つとせ
腰の手拭い伊達じゃない~
魔除け虫除け女寄せ
そいつぁ豪気だね そいつぁえ~

十(とう)とせ~え~え それ十とせ
今日でとうとう卒業だ~
員教殴ってさようなら
そいつぁ豪気だね そいつぁえ~

おわりとせーそれおわりとせ
尾張名古屋は城で持つ
天下の前高俺で持つ
そいつは豪気だね、そいつはねー

**************

第二校歌が作られたのは、「五つとせ~~・粋な洋館伊達じゃない」とあるように、昭和29年11月第2期工事の鉄筋三階建て校舎が竣工した後であることがわかる。

(昭和27年12月22日(1952)、旧木造校舎は全焼している。)

多分新校舎誕生を記念して作られているとして、1955年頃からして10年少ししかたっていない計算になる。

しかし、この約10年間の環境は大きく変わり、1967年当時では「六っつとせ~え~え」のなどや「女学生」あたりなどが幾つか違っていたかもしれない。

記憶によれば「右と左の泣き別れ」という「電車通学」のフレーズがあったと思う。

「六っつとせ~え~え」の中の「今じゃ愛しの花嫁さ」は既に現実的ではなくなっていた。

なぜなら前高生の大部分は、大学進学によって青春時代は地元に残らない。

1960前後とではこんなところでも大きく違ってきていた。

 

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2022年9月18日 (日)

深夜放送の幕開け・パックインミュージック03・小説Syuunの不思議な少年時代42・1967年(昭和42年)

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深夜放送の幕開け・パックインミュージック03・

小説Syuunの不思議な少年時代42・1967年(昭和42年)

★パックインミュージック(1967年7月31日から1982年7月31日)事件。


1967年の夏休みが本格的になったと思ったら8月になりそうだった。


高校1年生の夏休みの宿題は夏休みを「遊ばせないように」多くの宿題が出る。


これは進学校や特進クラスと呼ばれる高校では、50年以上経った今でも同じである。


実を言えば定期試験の問題に50年以上前の問題が出たりするのは中学校と同じで唖然とすることがある。


この時代は家にクーラーがあるわけでもなく、公立図書館に行っても扇風機が活躍していた。


今頃のような異常気象はなくて、昼過ぎになれば暑くて勉強などしていられない。


それで暑いからと昼寝でもすれば夕方まで起きられない。

そんな中、何枚にも及ぶ数学の計算問題の終わりにめどがついてきて「For Whom the Bell Tolls」(誰がために鐘は鳴る)の部分全部翻訳。

しかし。冒頭から研究社「新ポケット英和辞典」に単語が載っていない。

(高校1年に入ったときに学校から推奨辞典として紹介されている。)

これは2010年に日本名「ハリー・ポッターと死の秘宝」(Harry Potter and the Deathly Hallows)の英国語版原書の単語を電子辞書で引いて読もうと思ったら単語が引けなかったのと同じ。

結局、約50年前に買った研究社「新英和中辞典」で何とかなった。

(高校2年になったときに「新英和中辞典」(1967年初版)が推奨辞書になった。)

結局訳文はどうしたのかというと、当時家にあった世界文学全集で該当部分を探して参照した。


そんなことをし始めているとき、電波状況が悪くほとんど聞き取れなかった文化放送の「大学受験ラジオ講座」。

これが終わった後、TBSラジオに回すと「深夜放送のお知らせ」が入るようになった。(24時半終了)

7月の月末に近くなると月曜夜(火)から土曜日夜(日)までのDJ-パーソナリティの紹介。

8月が近づくと「リスナーからの投書」をお待ちしていますのお願いが頻繁になり25時(翌日1時まで延長)。

そうして待ちに待った第1回パックインミュージック7月31日月曜日深夜25時(火曜日1時)、第一声は突然男性(増田貴光)のパーソナリティの呼びかけから始まる。

リスナーからの投書はなく、はっきり言って全くつまらない。

30分も聞いてスイッチを切った。

1週間だけ聞いてみようと思って、火曜日夜、水曜日夜とすぐにラジオのスイッチを切る毎日。

そして、木曜日深夜(金曜日)に野沢那智と白石冬美担当(後年の呼称・ナチチャコ コンビの「ナチチャコ パック」)が始まった。

第1回木曜深夜★★★★★★★★★★
1967年8月11日1時より・・・(10日深夜25時)

以前にも書いたようにTBSラジオは鮮明に受信できた。

第一声は野沢那智の呼びかけから始まり白石冬美とのお喋り。

そして「リスナーからの投書」が突然始まる。

何か聞いていると「前橋」というフレーズがあり、前橋市の成立ち、絹の街の様子から。

当時の街の中心部でも幾つか小さな製糸場があり、前橋高校の周りはほぼ全部桑畑。

それから高崎市との関わり~~明治初期に前橋に県庁が置かれていたところ県庁が高崎に移転した経緯を示す有名な逸話。

前橋に県庁所在地戻した逸話では・・・

当時の生糸商人や相場で財をなした人が中心になって県庁を前橋に戻そうと内務卿大久保利通に伺い書を提出。

(当時の金額で100,000円を要求される。現在金額で約40~50億円)
(当時の安田銀行の総資産5,000円・支店長の月給17円)

このときに後の市長初代市長・下村善太郎(生糸商人)などの一部の高額納税者により資金集め前橋に県庁を戻すことに成功。(明治13年)

このことから前橋と高崎の因縁が続くことを紹介。

・・・と言うことで有名な「群馬県庁所在地が移転した高崎から前橋戻したことによる確執」を紹介した。 (ウィキペディア(Wikipedia)を参照)



第2回木曜深夜★★★★★★★★★★
1967年8月18日1時より・・・(17日深夜25時)

群馬県の進学校と言えば、1位、2位を争う前橋高校と高崎高校と紹介されることが多い。


(現在でも)

これは高崎がターミナル駅として有名であるから東京などでは知名度が高崎の方が高いからである。


しかし、前橋高校はあらゆる面で高崎高校の後塵を拝したことはないと説明。

先ず、前橋高校(群馬県立前橋中学校)の成り立ちとして、明治10年9月に創立された東京大学区第17番中学利根川学校。

高崎高校は、明治30年前橋中学(群馬県尋常中学校)の分校(群馬県尋常中学校群馬分校)として創立。

(群馬、甘楽、碓氷、利根、新田、多野の6分校)

前橋高校の教師は前高OBであることが多く、旧制中学時代や戦後直下の前高生徒時代のよく知っているエピソードを話すことがある。

それは

「前高(旧制中学含)で落第しそうになると高高に転校する。」

「そうすれば普通に卒業できる。」

「それでも落第しそうになると他の高校へ転校する。」という。

*************************************
★1960年代まで高校のランキングは東大合格者の数で決められた。

1967~1968年ころ・・・東大合格者ランキングの上位は、

(都立)日比谷高校、麻布高校、開成高校・・・上位の内、神奈川では東大合格者約35人以上の湘南高校が有名だった。

今のように集中的に東大合格者を出す高校は希(まれ)で分散していた。

灘高校は、まだ京大で止まって東京に余り進出してきていない。


1966年から都立高校入試で始まった学校群制により、1969年(東大入試中止)より日比谷高校が脱落し代わりに登場するのが私立高校。

2022年で東京大学91人合格の聖光学院(神奈川・中高一貫) は、1970年では東大合格者17人程度であった。

1967年当時は公立高校が大学進学の主力だった。

※結果の平等を主眼とする学校群制は、関西でも実行されて私立高校優位、公立高校の没落が始まっている。

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○学力対決

1967年前橋高校と高崎高校の東大進学実績では、前橋高校23人、高崎高校10人余。

(1968年前橋高校の東大進学実績25人)

群馬大学医学部合格者では、前橋高校約10人強、高崎高校若干名。

○スポーツ対決

※高校野球で甲子園に出場した実績

●前橋高校・夏の大会

旧制中学時代3回、1948年と合計4回。

●高崎高校・夏の大会

出場実績ナシ(現在まで同)
(選抜を含め実績なし)



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その後 選抜の実績
前橋高校
第50回1978(松本稔の完全試合で有名)
第74回2002(松本稔監督で出場)
高崎高校
第53回1981
第84回2012
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1967年当時、前橋高校の1階正面玄関に甲子園出場実績を示す展示があり、大きなスペースを持って飾られていた。

1968年に校長先生が交代したときに、古いものだからと脇の廊下の方へ移された。

その他のスポーツでは、バスケットボールが県大会優勝。

外の競技でもそこそこの実績を残していた。

高崎高校が強いのが古武道で、一般的な競技ではこのとき実績がなかった。

こうして学力、スポーツ共に前橋高校には高崎高校か及ばないという実例を説明した後に


「前高・高高定期戦」の話に当然及んで行く。

このとき「前高・高高定期戦」での高崎高校の生徒は「山猿」と初めて正式に呼んだのではなかったと思う。

この「山猿」という愛称は半世紀以上たった今でも呼ばれるように完全に定着している。

この深夜放送で「山猿」と呼ぶきっかけになったのは・・・・

★大分県に高崎山自然動物園という「野生のサルに餌付け」しているところがある。

この1967年夏に高崎山自然動物園で「ボスザルの交代」という記事がテレビでなぜか何回も放映された。

「高崎山自然動物園」の猿。

短縮して「高崎山猿」。

「高崎-山猿」という連想で「前高・高高定期戦」での高崎高校は「山猿」となった。

・・・と言う説がある。

しかし、高崎高校では「山猿」と呼んだことによって、高崎高校の生徒が激怒したと言うのは第3回木曜深夜の投書によって明らかになる。


第3回木曜深夜★★★★★★

1967年8月25日1時より・・・(24日深夜25時)

「前高・高高定期戦」で次回へ続く・・・・



 

 

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2022年9月 9日 (金)

深夜放送の幕開け・パックインミュージック02・小説Syuunの不思議な少年時代41・1967年(昭和42年)

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深夜放送の幕開け・パックインミュージック02・小説Syuunの不思議な少年時代41・1967年(昭和42年)

★パックインミュージック(1967年7月31日から1982年7月31日)事件・前哨02。

「誰がために鐘は鳴る」のDVDは今では110円で手に入るようになった。

1937年とDVD冒頭にあるようにスペイン内戦の物語。

映画の説明とは違い、同じく冒頭に共和国政府軍将軍(司令官)が登場する。

小説を読むよりDVDを見た方が簡単とはいえ、こういう映画というのは作られた時期(1943年)ではまだ歴史になっていない。

従って、分かりきった背景というのはバッサリと切られている。


戦後すぐにインドシナ戦争としてアジア各国で独立戦争が起こり、朝鮮戦争などをかわきりに延々と戦争が続いていた。

ベトナムではフランス軍の再進駐とフランス軍の敗退がある。

フランス軍に関しては、ベトナムからの撤退とすぐ続いたのがアルジェリア紛争(後に独立戦争と改名)。

このアルジェリア紛争(当初の名)の実話を基にした映画「Lost Command」日本題名「名誉と栄光のためでなく」が前年の1966年に公開されている。

60年安保の直前にラジオで毎回放送されていたニュースがアルジェリア紛争だった。

1950年代では家庭にテレビはなくニュース映像は、映画ニュース(映画を見るとニュース番組があった)が存在した。

この映画ニュースでは、60年安保の映像を繰り返し流していたもののいつの間にかなくなった。

それは1964年の東京オリンピックを前にしてテレビが家庭に普及したからである。


そして第35代ジョン・F・ケネディアメリカ合衆国大統領になった頃からベトナムの紛争が激化した。

1963年11月ゴ・ディン・ジエム政権がクーデターにより失脚と直後のケネディアメリカ合衆国大統領の暗殺。

ジョンソン政権により1964年には、米軍が本格的なベトナム戦争に介入。

戦争というのは延々と続いて、ただ日本が直接関係しないだけだった。

以前に述べているように1966年には中国で文化大革命が起きている。




その一方、戦後ベビーブーム世代直下の昭和26-27年生まれ、1967入学の前高1年生には厳しい時代であった。

前橋高校1年の時、今あらためて記憶を呼び起こしてみると多くの事柄の幕開けが感じられる。

しかし、当時放課後の部室や学校内でうろうろしていると常に「大学に行けないぞ」と教師に脅されていた。

しかもそう言う教師の帰宅の早いことは生徒以上。

放課後すぐに職員室になど誰もいない。

生徒による伝聞だと、「塾があるから早いんだよ!!」とか??

桐生から期限を限って特別に呼ばれていたと噂(うわさ)される旧高等師範出身の森先生は、当時発売されたばかりの日産サニー1000でさっと帰ってゆく。


このころの教師のほとんどは戦前又は戦後直後に大学を卒業していて、戦争に行ったことがあるくらいの世代も多かった。

夏休みの宿題に「作文」を出した現代国語の亀島先生は、「俺は東大だ、東大卒業だ」とそれが自慢の先生。


その亀島先生は戦前、東京帝国大学卒業後幹部候補生で少尉になって南方の島の守備隊についたという。

その島は米軍が攻めてこなかったので大きな戦闘はなく、8月15日の朝に島の司令部に集合の命令が下ったという。

何となく「終戦だろう」と准尉と話しながら車に乗って司令部に出かけて「玉音放送」を聞いた。

亀島先生は「分かりにくかったが、何となく終戦だと分かった」という。

しかし、聞いていたほとんどの兵士が何を言っているのか分からなかったのではないかと述懐していた。

帰りは、車を置いて徒歩で帰ったとか。

島の分隊指揮官として大きな声も出せないし、ろくな指揮もできなかったけれどむちゃなことはしなかった。

それで「戦争が終わった」後に指揮下の兵士に大いに感謝されたといっていた。

軍隊にいってよかったことは、大学と言えば西(の京都)に1つあるだけと思っていたという。

しかし、慶応や早稲田の出身でも優秀やヤツがいると言うことが分かったことだった。

(今では当たり前だが戦前の感覚では、大学は帝国大学だけが大学という感覚だったのだろう。)


亀島先生によると東大卒の初任給は50円、私大だと40円だったとか(昭和初期)。

戦前では旧制高校を卒業しなくてはならず、大学卒というのは非常に少なかった。

小生の父のように立教大学卒(旧制高校は明治学院卒)であっても、大企業に幹部候補生として入社している。


当時の女性事務員の給与がおよそ10円だったから、月給50円というのは今の価格として約100万円。

従い、大卒だと初任給で年収約1,000万円と言うところだろうか。


その亀島先生は、戦後は朝日新聞の記者をしていたという。

それが将校だったのでパージにあって退職し、その後に教師になっていたわけである。

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当時の進学校の生徒というのは少ない国立大学(学費12,000円)を目指すために、「赤尾の豆単」でも何でも飛びついた。

以前に述べたように私立大学の高額な学費・学債・寄付金を払える家は少なかった。

だから大学受験に有益と思われれば先に紹介した「高校の夏期講習」のように何でも挑戦した。



そして丁度このころ文化放送で「大学受験ラジオ講座」(数学、英語など)が夜の10時半~11時半まで開講されるようになった。

しかし、当時の群馬では文化放送というのは電波状況が悪く、そのために雑音で昼間はほとんど聞き取れない。

この夜の10時半~11時半になっても半分聞き取れないことも多かった。

だからこの講座のテキストも買っていなかったくらいである。

文化放送ではこの「大学受験ラジオ講座」の前に、大学受験には全く役に立たない「百万人の英語」という講座が20時頃にもあった。

当然まだ早い時間なので文化放送は雑音で聞き取れない。

まともに聞こえるのはNHKとTBSラジオだけだった。

その半分聞き取れない「大学受験ラジオ講座」も内容が薄く単なる時間潰しか気休めにしかならなかった。

理由は国立大学受験なら内容が易しすぎ、私立大学受験なら試験傾向が違うため当然役に立たない。

今にして思えば「大学受験ラジオ講座」の対象受験生はどの階層だったのかと思う。


その文化放送の「ラジオ講座」が終わるとすぐに「本日の放送は終了します。」と単なる雑音になってしまう。

そこでまだやっているTBSラジオに回し、12時(24時)になると「本日の放送は終了します。」 で終わる。

これが1967年の夏休みの始まる前後のことである。


 

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