syuun の不思議な少年時代

2023年1月28日 (土)

44-小説Syuunの不思議な少年時代第44回・1967年(昭和42年)

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44-小説Syuunの不思議な少年時代第44回・1967年(昭和42年)

深夜放送の幕開け・パックインミュージックのその後

前橋高校の二学期が始まると「深夜放送・パックインミュージック」の投稿者は誰だという噂で一杯になった。

そのうちに「俺だ」と密(ひそ)かに漏らす生徒がいた。

特別に目立つ生徒ではなかったので「だれ??」という感じだったのと、同時に同じクラスにいるとは思わなかった。

それは席の左後ろにいた小田君という生徒で、すぐに「名前が知られるとマズイ」といわれて否定することになったもののあっという間に名前は広まってしまった。

(小田君とは、後に北海道大学薬学部を卒業して今は北海道在住で「北海道医療大学薬学部・名誉教授」の小田和明先生である。※小田和明先生に確認了承済)


9月の実力試験が終わると新しい授業として「地学」が始まった。

大学入試とは関係のない新しい授業は、ピリピリしない何となく緩やかな雰囲気であった。

そういう中でいつの間にか「地層について調べて研究成果のレポートを出す」という課題が出た。

それも「幾人かでグループを作って調査」という課題で、前の席の「阿部君」その隣・左斜め前の「岩崎君」(群大附属中出身)と3人で組を作ることにした。


課題の調査は次の日曜日、前橋公園に朝6時集合と言うことになった。

前橋公園は、土手の上の公園部分と土手下の「さちの池」周辺という広いところで、利根川によって浸食された地層がこのころではあちこちに残っていた。

その9月の天気のよい日曜日、朝目覚めると6時だった。

まだ夏の余韻を多く残す気持ちの良い朝で・・・すぐに前橋公園まで自転車を飛ばして6時15分頃についたものの、人っ子1人見当たらず見つからない。

6時30分頃まで探して集合場所の岩崎君の家に向かうことにした。

岩崎君の家は前橋駅前の細い路地の東側にあって、以前下校のとき「ここだ」と教えてもらったはず。

しかし、同じような大きさの家が連なって多少分かりにくいところであった。



戦前からある前橋駅前のケヤキ並木大通りの西側路地には、小さな住宅が密集して建っていた一方、東側は倉庫と工場など雑然としていてたところである。

今では住宅はほとんどなくなって、マンション、ビジネスホテルと駐車場と殺風景な雰囲気が広がる。



少し空き地があったくらいのこの頃、夏のこの時間では日差しが差し込まず日陰で少し薄暗い。

同じ規模の家が連なる中、岩崎君の家が見つかるかと心配していたところ、阿部君と岩崎君の姿が見えた。

「ああここか」とほっとした。

なぜか家に入らず立ち話をしていて「家の前にいるのか ??」

駐車場のマツダ・ファミリアの横まで行って・・・

「どうしたの?」と尋ねると

「うちは日曜日は遅いから・・」という。

それから30分くらい時間を潰して、7時20分近くなると「もう良いだろう」と静かに玄関を開けて応接間に入った。

「音を立てるなよ」と岩崎君がいうものの、入り口の木製の扉の音くらいはする。

いわゆる昔ながらの玄関横の「応接間」に入ると、エンサイクロペディア(英語版)が本棚にこれ見よがしに並べられていた。


「あ~社長さんの家だ」と理解した。

昭和40年代に百科事典を買うというブームがあった。

それは会社の社長さんというクラスの家に、米国の百科事典をセールスしていた時代である。

(英語の文学全集が附属)

又その頃は、日本文学全集とか世界文学全集とかを買っていた時代でもある。

家では平凡社かどこかのカラー百科事典を買っていた。

2-3か月か半年に1冊ずつの配刊で全巻揃(そろ)うのに何年もかかった。

*************


7時頃になると階段を下りる足音などがして、部屋の扉が突然開いた。

ノーメイクの非常に綺麗なお姉さんが顔を出して・・・「お友達がいるのね!」

「誰?・お姉さんがいた?」と聞くと岩崎君が母親だという。

<情報通・阿部君情報>によると「岩崎君は20歳くらいで生まれた子だと言う」

・・・そうするとお母さんは30歳台後半?

そうであれば「お姉さんと間違っても全く不思議はない」。

8時頃になって、紅茶を持って再びあらわれたときは「老けメイク」で40歳前半のような感じであった。

「かまわなくて良いから」と岩崎君が言う。


地学のレポートは、集合時間に間に遅れたことから全部小生が書くことになった。

それなので打合せは短時間で終わり8時半過ぎには終了。

そのレポートはどう書いたのかは全く覚えていないものの、書き上がったものを提出前に見せて了解を得たことを覚えている。

そして提出レポートは、クラスで一番の評価を得て授業で小生が発表した。


その岩崎君の家もその後10年少したった頃には、どこにあったのか全く分からない景色で消えていた。

こんなことで9月も無事に終わり10月になった。

10月と言えば初めての「前高高高定期戦」の時期になる。



そして同時期にコンサートがあった。

バイオリンの「江藤俊哉」のコンサートである。

何となく慌ただしさの中で、午後に行われたコンサートは、1年生なので体育館の割合と前の方の席だった。

このコンサートが始まる前のお昼頃、体育館の前で結構強面(こわもて)のオジさんがバイオリンを弾いていた。


この演奏会、演奏が終わるとあっと言うのに帰ってしまった。


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2022年11月 7日 (月)

04深夜放送の幕開け・パックインミュージック・小説Syuunの不思議な少年時代43・1967年(昭和42年)

19677200782
1968・前高高高定期戦・前橋高校校庭


04深夜放送の幕開け・パックインミュージック・小説Syuunの不思議な少年時代43・1967年(昭和42年)

修正 2022/11/08

第二校歌・復元

★パックインミュージック(1967年7月31日から1982年7月31日)事件。

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高崎高校では「山猿」と呼んだことによって、高崎高校の生徒が激怒したと言うのは第3回木曜深夜の投書によって明らかになる。
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第3回木曜深夜★★★★★★
1967年8月25日1時より・・・(24日深夜25時)

待ちに待った木曜日深夜(金曜日)24日深夜、パックインミュージック-(野沢那智と白石冬美) が始まった。

その第一声は当然「前橋高校と高崎高校」に関する前回の前高のリスナーの続きの投稿。

しかし簡単に紹介し、肩透かしであった。

その一方で高崎高校のリスナーからの投稿を紹介した。

その内容は2回の放送内容に対して一つ一つ反論したものだった。

しかし、書いてある内容は「伝聞」であるかのように不正確な上、文章の稚拙。

そして反論内容は単なる罵詈雑言に終始して全く説得力がないものだった。

最後には、前高・高高定期戦の話しに及び「首を洗って待っていろ」という捨て台詞で終わっていた。

しかし、このときの「山猿」は今(2022)では前橋高校の掲示板に「山猿高校」と書かれていることに驚くものでもある。

前橋高校のリスナー投稿の流れる様な文章は、元々放送作家が書いたものかと思ったくらいの名文で文章の質だけで勝負があったように思う。


パーソナリティの野沢那智も前高-高高を煽りすぎたかと思ったのであろう。

「これはここまでにしてと」・・・以後前橋高校や高崎高校の話題を取り上げたことはない。

前橋高校も一躍有名にはなった一方で、この3回の冒頭投稿によってパックインミュージック木曜日が軌道に乗って何年も続くことになった。

実を言えば「前橋高校の話題」以降目を引く投稿というのはほとんど見られなかった。




そうして高校の3年間には、話題がなくなり野沢那智自身が主宰する赤字続きの劇団「ばら座」の話などの身の上話が多くなったことがある。

それに関連して野沢那智自身の「奥さんが突然荷物を持って押しかけてきた」結婚とその破綻の原因など、何も知らない高校生の身では興味深かった。    
野沢那智自身が言う破綻の原因は、声優などをして漸(ようや)く食べられるようになると突然「劇団」にお金を使ってしまい奥さんが「質屋」に通う始末だったという。

その他、当時の人気番組「ナポレオン・ソロ」のイリヤ・ニコヴィッチ・クリヤキンの吹き替え。
このときオーディションでやけになって高い声を出したら採用されて困ったとの逸話(エピソード)。

収録の時には体調に気をつけて臨んだという。
******************

いずれにせよ夏休みが終わり新学期になる。

その夏休みが終わる直前に「新しい教科書」を購入した。

世界史の授業が終わり、地学、化学そして数学Iと英語のReaderの教科書が変わった。

英語の教科書はあのねつ造記事が載っていたReaderで、英語も数学Iの教科書も受験に合わなくなったらしい。

そして9月が始まる。

新学期が始まると数学と英語の実力試験。

そしてすぐに「前高・高高定期戦」のクラス対抗試合が始まった。

*******************

ここで少し当時の前橋高校を取り巻く環境、風潮というものは令和の今とは全く違っていると説明しないと分からないことが多い。

今現在(2022)前橋高校の定員は280人、1967年の定員は441人(49人クラス9組・卒業440人) 。

統計で18歳人口を見てみると

1967年人口236万人
2022年人口112万人

18歳人口減少が始まる「18年問題」と言われた2018年は118万人である。

単純に比例計算での定員は約209人。

当時は、前橋市では他に男子が進学できる公立の普通高校はなく、私立高校の「特進」という進学クラスもなかった。

不合格なら「高校浪人」をして前橋高校に入学している。

しかも高校浪人をしたから前橋高校でも成績が悪いということもなく、大学は医学部に進学した例もある。

その他、群馬県内の地区で市役所以外の5支部同窓会がある。

「伊勢崎佐波 前中・前高同窓会」(伊勢崎)というのは当時の通学範囲である一方
○東毛 前高同窓会(桐生)
○西毛地区 前中・前高同窓会(高崎)
○前中・前高北毛同窓会(渋川)

などは当時では通学区域外で事実上群馬県中から生徒(前高生)が集まっていた。

1年生の時、中之条(群馬北部)から2時間かけて通学していた生徒も数人いた。

このことから今に換算すると実質150人程度の定員の難易度に相当すると考えられる。

当時の前橋高校がいかに難関だったかわかるものである。


2019年の前橋高校資料によると現役進学は69%とある。

近年では2015年が70%を越え、その後65%前後に落ち込んでいたと記憶する。

その一方1967年当時では、教師は「高校は4年あると考えてくれ」と述べている。

一浪は「ひとなみ」と呼ばれ理系の生徒の約80%以上が浪人している。

当時は、大学進学予備校の全盛期を迎えようとしていた頃でもあった。

今のように私立大学が乱立している時代ではなく、また今ある有名私大も設立されたばかりだったりした。

戦後のベビーブーム世代直下というのはいつも一つのブームを作る。

そうして、高度成長時代が終わる「石油ショック」は、昭和48年(1973)で6年後である。
*********************

クラス対抗試合は、卓球を選んだ。

しかし、クラス対抗で最初に当たった堀口君(1中出身)のカット攻撃にあっさりと敗れてしまった。

この堀口君とは不思議な縁で、どう言う訳かその後スキーによく行く仲間となり、高校3年の時には同じクラスに。

ひとなみで静岡大学(二期校)に進学しても夏休みに一緒に山に登ったり、日光へドライブをしたりと大学2年までは多少の交流があった。

その後逢うことはなかったものの、前高3年のクラス同窓会を含めて今でも合うことがある。

(堀口君は、当時一期校・新潟大学工学部に現役合格していたので学年が上で、その後は卒業研究や就職活動で忙しくなったので会えなくなったという理由。)

それで小生が参加する「前高・高高定期戦」では騎馬戦に出場することだけになった。


そして「前高・高高定期戦」が近づくと1-2年生を中心として、「騎馬戦」、「綱引き」、「玉入れ」などの練習が徐々に始まった。

このときの応援団はまだ3年生がやっていた。

この練習では、先ず「校歌」や「応援歌」、「凱旋歌」の斉唱から始まる。

終わりには、校歌や応援歌、凱旋歌が歌われることもあった中で、目を引いたのは「第二校歌」という数え歌であった。

この引退間際の応援団長の「第二校歌」での流れるような指揮は今でも目に浮かぶ。
***********************

正式な歌集に載っていない「第二校歌」は、廃れてしまった。

それをWeb上で再現したものを引用する。

但し、修学旅行用の歌集に掲載されていたものらしく1967年当時の第二校歌とは違っている。

前橋高校 第2校歌**********

一つとせー
ひーとつ田んぼの中にある
前橋高校良いところ
そいつは豪気だね そいつはねー

二つとせ~~
双子山から煙(けむ)が出て
今日もエンタで日が暮れる
そいつぁ豪気だね そいつぁね~~

三つとせ、それ三つとせ
見たか聞いたか前高の
揃いも揃ったバカ員教
そいつぁ豪気だね、そいつぁねぇ~

四っつとせ~え~え それ四っつとせ
横目で睨んだ女学生~
胸の辺りが気にかかる
そいつぁ豪気だね そいつぁえ~

五つとせ~~
粋な洋館伊達じゃない
硬派軟派の養成所
そいつぁ豪気だね そいつぁね~~

六っつとせ~え~え それ六っつとせ
昔なじみの女学生~
今じゃ愛しの花嫁さ
そいつぁ豪気だね そいつぁえ~

七つとせー
斜め道路で体当たり
彼女はエス校の落第生
そいつは豪気だね、そいつはねー

八つとせー
やっぱり気になる女子高生
腰のあたりが気に掛かる
そいつは豪気だね、そいつはねー

九つとせ~え~え それ九つとせ
腰の手拭い伊達じゃない~
魔除け虫除け女寄せ
そいつぁ豪気だね そいつぁえ~

十(とう)とせ~え~え それ十とせ
今日でとうとう卒業だ~
員教殴ってさようなら
そいつぁ豪気だね そいつぁえ~

おわりとせーそれおわりとせ
尾張名古屋は城で持つ
天下の前高俺で持つ
そいつは豪気だね、そいつはねー

**************

第二校歌が作られたのは、「五つとせ~~・粋な洋館伊達じゃない」とあるように、昭和29年11月第2期工事の鉄筋三階建て校舎が竣工した後であることがわかる。

(昭和27年12月22日(1952)、旧木造校舎は全焼している。)

多分新校舎誕生を記念して作られているとして、1955年頃からして10年少ししかたっていない計算になる。

しかし、この約10年間の環境は大きく変わり、1967年当時では「六っつとせ~え~え」のなどや「女学生」あたりなどが幾つか違っていたかもしれない。

記憶によれば「右と左の泣き別れ」という「電車通学」のフレーズがあったと思う。

「六っつとせ~え~え」の中の「今じゃ愛しの花嫁さ」は既に現実的ではなくなっていた。

なぜなら前高生の大部分は、大学進学によって青春時代は地元に残らない。

1960前後とではこんなところでも大きく違ってきていた。

 

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2022年9月18日 (日)

深夜放送の幕開け・パックインミュージック03・小説Syuunの不思議な少年時代42・1967年(昭和42年)

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深夜放送の幕開け・パックインミュージック03・

小説Syuunの不思議な少年時代42・1967年(昭和42年)

★パックインミュージック(1967年7月31日から1982年7月31日)事件。


1967年の夏休みが本格的になったと思ったら8月になりそうだった。


高校1年生の夏休みの宿題は夏休みを「遊ばせないように」多くの宿題が出る。


これは進学校や特進クラスと呼ばれる高校では、50年以上経った今でも同じである。


実を言えば定期試験の問題に50年以上前の問題が出たりするのは中学校と同じで唖然とすることがある。


この時代は家にクーラーがあるわけでもなく、公立図書館に行っても扇風機が活躍していた。


今頃のような異常気象はなくて、昼過ぎになれば暑くて勉強などしていられない。


それで暑いからと昼寝でもすれば夕方まで起きられない。

そんな中、何枚にも及ぶ数学の計算問題の終わりにめどがついてきて「For Whom the Bell Tolls」(誰がために鐘は鳴る)の部分全部翻訳。

しかし。冒頭から研究社「新ポケット英和辞典」に単語が載っていない。

(高校1年に入ったときに学校から推奨辞典として紹介されている。)

これは2010年に日本名「ハリー・ポッターと死の秘宝」(Harry Potter and the Deathly Hallows)の英国語版原書の単語を電子辞書で引いて読もうと思ったら単語が引けなかったのと同じ。

結局、約50年前に買った研究社「新英和中辞典」で何とかなった。

(高校2年になったときに「新英和中辞典」(1967年初版)が推奨辞書になった。)

結局訳文はどうしたのかというと、当時家にあった世界文学全集で該当部分を探して参照した。


そんなことをし始めているとき、電波状況が悪くほとんど聞き取れなかった文化放送の「大学受験ラジオ講座」。

これが終わった後、TBSラジオに回すと「深夜放送のお知らせ」が入るようになった。(24時半終了)

7月の月末に近くなると月曜夜(火)から土曜日夜(日)までのDJ-パーソナリティの紹介。

8月が近づくと「リスナーからの投書」をお待ちしていますのお願いが頻繁になり25時(翌日1時まで延長)。

そうして待ちに待った第1回パックインミュージック7月31日月曜日深夜25時(火曜日1時)、第一声は突然男性(増田貴光)のパーソナリティの呼びかけから始まる。

リスナーからの投書はなく、はっきり言って全くつまらない。

30分も聞いてスイッチを切った。

1週間だけ聞いてみようと思って、火曜日夜、水曜日夜とすぐにラジオのスイッチを切る毎日。

そして、木曜日深夜(金曜日)に野沢那智と白石冬美担当(後年の呼称・ナチチャコ コンビの「ナチチャコ パック」)が始まった。

第1回木曜深夜★★★★★★★★★★
1967年8月11日1時より・・・(10日深夜25時)

以前にも書いたようにTBSラジオは鮮明に受信できた。

第一声は野沢那智の呼びかけから始まり白石冬美とのお喋り。

そして「リスナーからの投書」が突然始まる。

何か聞いていると「前橋」というフレーズがあり、前橋市の成立ち、絹の街の様子から。

当時の街の中心部でも幾つか小さな製糸場があり、前橋高校の周りはほぼ全部桑畑。

それから高崎市との関わり~~明治初期に前橋に県庁が置かれていたところ県庁が高崎に移転した経緯を示す有名な逸話。

前橋に県庁所在地戻した逸話では・・・

当時の生糸商人や相場で財をなした人が中心になって県庁を前橋に戻そうと内務卿大久保利通に伺い書を提出。

(当時の金額で100,000円を要求される。現在金額で約40~50億円)
(当時の安田銀行の総資産5,000円・支店長の月給17円)

このときに後の市長初代市長・下村善太郎(生糸商人)などの一部の高額納税者により資金集め前橋に県庁を戻すことに成功。(明治13年)

このことから前橋と高崎の因縁が続くことを紹介。

・・・と言うことで有名な「群馬県庁所在地が移転した高崎から前橋戻したことによる確執」を紹介した。 (ウィキペディア(Wikipedia)を参照)



第2回木曜深夜★★★★★★★★★★
1967年8月18日1時より・・・(17日深夜25時)

群馬県の進学校と言えば、1位、2位を争う前橋高校と高崎高校と紹介されることが多い。


(現在でも)

これは高崎がターミナル駅として有名であるから東京などでは知名度が高崎の方が高いからである。


しかし、前橋高校はあらゆる面で高崎高校の後塵を拝したことはないと説明。

先ず、前橋高校(群馬県立前橋中学校)の成り立ちとして、明治10年9月に創立された東京大学区第17番中学利根川学校。

高崎高校は、明治30年前橋中学(群馬県尋常中学校)の分校(群馬県尋常中学校群馬分校)として創立。

(群馬、甘楽、碓氷、利根、新田、多野の6分校)

前橋高校の教師は前高OBであることが多く、旧制中学時代や戦後直下の前高生徒時代のよく知っているエピソードを話すことがある。

それは

「前高(旧制中学含)で落第しそうになると高高に転校する。」

「そうすれば普通に卒業できる。」

「それでも落第しそうになると他の高校へ転校する。」という。

*************************************
★1960年代まで高校のランキングは東大合格者の数で決められた。

1967~1968年ころ・・・東大合格者ランキングの上位は、

(都立)日比谷高校、麻布高校、開成高校・・・上位の内、神奈川では東大合格者約35人以上の湘南高校が有名だった。

今のように集中的に東大合格者を出す高校は希(まれ)で分散していた。

灘高校は、まだ京大で止まって東京に余り進出してきていない。


1966年から都立高校入試で始まった学校群制により、1969年(東大入試中止)より日比谷高校が脱落し代わりに登場するのが私立高校。

2022年で東京大学91人合格の聖光学院(神奈川・中高一貫) は、1970年では東大合格者17人程度であった。

1967年当時は公立高校が大学進学の主力だった。

※結果の平等を主眼とする学校群制は、関西でも実行されて私立高校優位、公立高校の没落が始まっている。

*******************************************************


○学力対決

1967年前橋高校と高崎高校の東大進学実績では、前橋高校23人、高崎高校10人余。

(1968年前橋高校の東大進学実績25人)

群馬大学医学部合格者では、前橋高校約10人強、高崎高校若干名。

○スポーツ対決

※高校野球で甲子園に出場した実績

●前橋高校・夏の大会

旧制中学時代3回、1948年と合計4回。

●高崎高校・夏の大会

出場実績ナシ(現在まで同)
(選抜を含め実績なし)



**************************
その後 選抜の実績
前橋高校
第50回1978(松本稔の完全試合で有名)
第74回2002(松本稔監督で出場)
高崎高校
第53回1981
第84回2012
***************************



1967年当時、前橋高校の1階正面玄関に甲子園出場実績を示す展示があり、大きなスペースを持って飾られていた。

1968年に校長先生が交代したときに、古いものだからと脇の廊下の方へ移された。

その他のスポーツでは、バスケットボールが県大会優勝。

外の競技でもそこそこの実績を残していた。

高崎高校が強いのが古武道で、一般的な競技ではこのとき実績がなかった。

こうして学力、スポーツ共に前橋高校には高崎高校か及ばないという実例を説明した後に


「前高・高高定期戦」の話に当然及んで行く。

このとき「前高・高高定期戦」での高崎高校の生徒は「山猿」と初めて正式に呼んだのではなかったと思う。

この「山猿」という愛称は半世紀以上たった今でも呼ばれるように完全に定着している。

この深夜放送で「山猿」と呼ぶきっかけになったのは・・・・

★大分県に高崎山自然動物園という「野生のサルに餌付け」しているところがある。

この1967年夏に高崎山自然動物園で「ボスザルの交代」という記事がテレビでなぜか何回も放映された。

「高崎山自然動物園」の猿。

短縮して「高崎山猿」。

「高崎-山猿」という連想で「前高・高高定期戦」での高崎高校は「山猿」となった。

・・・と言う説がある。

しかし、高崎高校では「山猿」と呼んだことによって、高崎高校の生徒が激怒したと言うのは第3回木曜深夜の投書によって明らかになる。


第3回木曜深夜★★★★★★

1967年8月25日1時より・・・(24日深夜25時)

「前高・高高定期戦」で次回へ続く・・・・



 

 

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2022年9月 9日 (金)

深夜放送の幕開け・パックインミュージック02・小説Syuunの不思議な少年時代41・1967年(昭和42年)

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深夜放送の幕開け・パックインミュージック02・小説Syuunの不思議な少年時代41・1967年(昭和42年)

★パックインミュージック(1967年7月31日から1982年7月31日)事件・前哨02。

「誰がために鐘は鳴る」のDVDは今では110円で手に入るようになった。

1937年とDVD冒頭にあるようにスペイン内戦の物語。

映画の説明とは違い、同じく冒頭に共和国政府軍将軍(司令官)が登場する。

小説を読むよりDVDを見た方が簡単とはいえ、こういう映画というのは作られた時期(1943年)ではまだ歴史になっていない。

従って、分かりきった背景というのはバッサリと切られている。


戦後すぐにインドシナ戦争としてアジア各国で独立戦争が起こり、朝鮮戦争などをかわきりに延々と戦争が続いていた。

ベトナムではフランス軍の再進駐とフランス軍の敗退がある。

フランス軍に関しては、ベトナムからの撤退とすぐ続いたのがアルジェリア紛争(後に独立戦争と改名)。

このアルジェリア紛争(当初の名)の実話を基にした映画「Lost Command」日本題名「名誉と栄光のためでなく」が前年の1966年に公開されている。

60年安保の直前にラジオで毎回放送されていたニュースがアルジェリア紛争だった。

1950年代では家庭にテレビはなくニュース映像は、映画ニュース(映画を見るとニュース番組があった)が存在した。

この映画ニュースでは、60年安保の映像を繰り返し流していたもののいつの間にかなくなった。

それは1964年の東京オリンピックを前にしてテレビが家庭に普及したからである。


そして第35代ジョン・F・ケネディアメリカ合衆国大統領になった頃からベトナムの紛争が激化した。

1963年11月ゴ・ディン・ジエム政権がクーデターにより失脚と直後のケネディアメリカ合衆国大統領の暗殺。

ジョンソン政権により1964年には、米軍が本格的なベトナム戦争に介入。

戦争というのは延々と続いて、ただ日本が直接関係しないだけだった。

以前に述べているように1966年には中国で文化大革命が起きている。




その一方、戦後ベビーブーム世代直下の昭和26-27年生まれ、1967入学の前高1年生には厳しい時代であった。

前橋高校1年の時、今あらためて記憶を呼び起こしてみると多くの事柄の幕開けが感じられる。

しかし、当時放課後の部室や学校内でうろうろしていると常に「大学に行けないぞ」と教師に脅されていた。

しかもそう言う教師の帰宅の早いことは生徒以上。

放課後すぐに職員室になど誰もいない。

生徒による伝聞だと、「塾があるから早いんだよ!!」とか??

桐生から期限を限って特別に呼ばれていたと噂(うわさ)される旧高等師範出身の森先生は、当時発売されたばかりの日産サニー1000でさっと帰ってゆく。


このころの教師のほとんどは戦前又は戦後直後に大学を卒業していて、戦争に行ったことがあるくらいの世代も多かった。

夏休みの宿題に「作文」を出した現代国語の亀島先生は、「俺は東大だ、東大卒業だ」とそれが自慢の先生。


その亀島先生は戦前、東京帝国大学卒業後幹部候補生で少尉になって南方の島の守備隊についたという。

その島は米軍が攻めてこなかったので大きな戦闘はなく、8月15日の朝に島の司令部に集合の命令が下ったという。

何となく「終戦だろう」と准尉と話しながら車に乗って司令部に出かけて「玉音放送」を聞いた。

亀島先生は「分かりにくかったが、何となく終戦だと分かった」という。

しかし、聞いていたほとんどの兵士が何を言っているのか分からなかったのではないかと述懐していた。

帰りは、車を置いて徒歩で帰ったとか。

島の分隊指揮官として大きな声も出せないし、ろくな指揮もできなかったけれどむちゃなことはしなかった。

それで「戦争が終わった」後に指揮下の兵士に大いに感謝されたといっていた。

軍隊にいってよかったことは、大学と言えば西(の京都)に1つあるだけと思っていたという。

しかし、慶応や早稲田の出身でも優秀やヤツがいると言うことが分かったことだった。

(今では当たり前だが戦前の感覚では、大学は帝国大学だけが大学という感覚だったのだろう。)


亀島先生によると東大卒の初任給は50円、私大だと40円だったとか(昭和初期)。

戦前では旧制高校を卒業しなくてはならず、大学卒というのは非常に少なかった。

小生の父のように立教大学卒(旧制高校は明治学院卒)であっても、大企業に幹部候補生として入社している。


当時の女性事務員の給与がおよそ10円だったから、月給50円というのは今の価格として約100万円。

従い、大卒だと初任給で年収約1,000万円と言うところだろうか。


その亀島先生は、戦後は朝日新聞の記者をしていたという。

それが将校だったのでパージにあって退職し、その後に教師になっていたわけである。

****************************************

当時の進学校の生徒というのは少ない国立大学(学費12,000円)を目指すために、「赤尾の豆単」でも何でも飛びついた。

以前に述べたように私立大学の高額な学費・学債・寄付金を払える家は少なかった。

だから大学受験に有益と思われれば先に紹介した「高校の夏期講習」のように何でも挑戦した。



そして丁度このころ文化放送で「大学受験ラジオ講座」(数学、英語など)が夜の10時半~11時半まで開講されるようになった。

しかし、当時の群馬では文化放送というのは電波状況が悪く、そのために雑音で昼間はほとんど聞き取れない。

この夜の10時半~11時半になっても半分聞き取れないことも多かった。

だからこの講座のテキストも買っていなかったくらいである。

文化放送ではこの「大学受験ラジオ講座」の前に、大学受験には全く役に立たない「百万人の英語」という講座が20時頃にもあった。

当然まだ早い時間なので文化放送は雑音で聞き取れない。

まともに聞こえるのはNHKとTBSラジオだけだった。

その半分聞き取れない「大学受験ラジオ講座」も内容が薄く単なる時間潰しか気休めにしかならなかった。

理由は国立大学受験なら内容が易しすぎ、私立大学受験なら試験傾向が違うため当然役に立たない。

今にして思えば「大学受験ラジオ講座」の対象受験生はどの階層だったのかと思う。


その文化放送の「ラジオ講座」が終わるとすぐに「本日の放送は終了します。」と単なる雑音になってしまう。

そこでまだやっているTBSラジオに回し、12時(24時)になると「本日の放送は終了します。」 で終わる。

これが1967年の夏休みの始まる前後のことである。


 

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2022年8月23日 (火)

パックインミュージック・小説Syuunの不思議な少年時代-夏その40・1967年(昭和42年)

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パックインミュージック・小説Syuunの不思議な少年時代-夏その40・1967年(昭和42年)

★パックインミュージック(1967年7月31日から1982年7月31日)事件前哨。

前橋高校文化祭の仮装行列の写真がある。

最近ではこういう仮装行列は全く見たことはない。

当時は、天川校舎から前橋市内中心部までのルートで回っていたような気がする。

そして、その看板を見ると「ベトナム戦争」だとか「ベトコン勝利」とか結構物騒なプラカードや意味のよく分からない仮装をしている。

今にしてみれば「ベトコン」などは存在せず、全て「北ベトナム正規軍」だったことは明らかになっていてその時代を感じさせるものである。

<<<
前橋高校文化祭の仮装行列(昭和42年)--これは有志(ほぼ同じメンバー)によって行われた。

しかし、次回(昭和44年)の前橋高校文化祭では、この伝統ある仮装行列は中止された。

この頃では、70年安保が近くなり学生運動が激化した上、1月に発生した東大安田講堂事件が起こり東京大学の入学試験が中止になった。

その影響で元より政治色の強い仮装行列は、忌避されるようになったのだろうと思う。

それ以降仮装行列の伝統はなくなったのかもしれない。>>>


そして1学期の試験のすべてが終わり、暑い夏の到来と共に前橋高校1年生の1学期が終わる。

しかし、ようやく夏休みだ・・・・と言うわけには行かない。

何と数学Iの補講と夏休み前に告知されていた「夏期講習」があった。

数学は、数学Iの教科書のはじめから(前半)と真ん中から(後半)と別々の数学教師よって講義されていた。

その後半部分が新任の桜井(直紀)先生の担当で、講習会などで休んだ日の分を夏休みの1日目から3日間の補講。

一応自由参加・・・とはいうものの全員参加(場所は中央校舎1階)。

夏期講習はその後引き続いての4日間であった。


この「夏期講習」は、数学と英語のみの開講でわずかな金額だが有料。

いわゆる進学予備校の夏期講習をしてくれるのかと思って、数学だけ受講することにした。

「夏期講習」は単に口答の告知で、申し込んだ後に多少の講習内容が分かった。

それは、クラス担当の数学、英語教師が教えるらしいというのである。

講習プログラムを見ると、数学は数学I前半を教えていた教師で、英語は文法の先生だった。

そこで不人気の教師の講義を避け、皆が集まりそうな他クラスの数学の講義を受けることにした。

だから、夏期講習の初日に他のクラス教室へ行って席を確保。(北・木造校舎1階)

取りあえず念のために、講義が始まる直前に本来受ける数学のクラスをのぞいて見たら、ガランとして10人程度しかいない。
当然いつもの数学教師。

その後、急いで他クラスの講義室へゆくと、後から教室に入って行く生徒が続いてほぼ満席。

この人気クラスというのは森(芳一)先生の講義で、教わっていないのに見んなよく知っている。

少し遅れて森先生が登壇すると、多少ビックリして・・・・

「こんなに受講生はいないはずだけど・・まあ いいか!!」とニコッと笑って、上機嫌で講義を始めた。

しかし、教えている内容は桜井先生が教えていた「数学の後半」部分と同じで、多少がっかりした。

本来参加する予定の夏期講習クラスを受講していた生徒に様子を聞いてみると、「俺がいなくなったら誰もいなくなるだろう」だった。

この夏期講習は、実のところ1学期の授業でついて行けなかった生徒の「底上げ」という意味合いがあって単なる復習だった。

しかし、1学期の数学の授業で「赤点」を取りそうな生徒は誰ひとり当然英語も受講していなかった気がする。

その他英語の講習内容を聞くと「いつもの通り」との解答があった。

こんな感じで夏休み前半の7月が終わってしまった。

この夏休みの宿題は、数学では大量の計算問題。

英語は、「For Whom the Bell Tolls」(誰がために鐘は鳴る)の部分全部翻訳。

国語は、原稿用紙2枚での自己紹介。


後日談では、「For Whom the Bell Tolls」(アーネスト・ヘミングウェイ)の部分訳は英語の研究会で話題に出た話で、当時の進学校の一部で実施されたらしい。

この小説「誰がために鐘は鳴る」は、スペイン内戦を舞台にした小説。

課題に出された小説の部分は主人公が「革命軍の軍用列車が通過する橋梁を偵察に行くシーン」

ヘミングウェイの小説は、「武器よさらば」(第1次大戦を背景)は既読だったものの、面白くないと思われた「誰がために鐘は鳴る」読んでいなかったので結構分かりにくかった。


スペイン内戦の国際旅団(スペイン第二共和国政府・外国人義勇軍)に参加したヘミングウェイの体験を基にしたもの。

この国際旅団は、アメリカ共産党(ジョージ・ワシントン大隊など)などが参加して事実上の8割方「共産軍」だった。

(ウィキペディアより)

スペイン内戦でのバスク地方のゲルニカ爆撃を題材にして、パブロ・ピカソの絵画『ゲルニカ』が描かれた。

小生の中学高校時代に、NHKがピカソの絵画の「ゲルニカ爆撃」のおどろおどろしく紹介していたのを思い出す。

しかし、この「ゲルニカ爆撃」(1937)というのは「前橋大空襲」の半分以下程度の死傷者で、

77年前の日本の東京大空襲その他を思えば・・・・



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2022年8月15日 (月)

前高祭の頃・小説Syuun の不思議な少年時代-春~夏その39-9 1967年(昭和42年)

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前高祭の頃・小説Syuun の不思議な少年時代-春~夏その39-9 1967年(昭和42年)



前橋高校の1年生の生活に多少慣れ、落ち着いてきたころに2つの赤い冊子が本屋(煥乎堂)に並んだ。

どちらも赤いビニールの装幀で手帳以下サイズで色も似ていた。

そのひとつは「赤尾の豆単」(「英語基本単語熟語集」(1966年:昭和41年刊行))。

大学入試に出る「英単語」という触れ込みだったが、この「赤尾の豆単」で英単語を覚えるのには他の生徒同様に1週間で挫折した。

単純にはほとんど使えなかったし、高校教科書に載っている単語の辞書の代わりにもならなかった。

そして後の受験の模擬試験でもほとんど役に立たなかった気がする。

(電卓もなかった時代に何を元にして単語を集めたのかは不明。)

そもそも国立大学の入試は「難問・奇問」のオンパレードだったし、国立理系受験だったので対象が違ったのかもしれない。

(私立大学受験用??)

初期の「赤尾の豆単」は、小生には試験に出ない英単語だった。


もう一つの赤い手帳サイズの冊子は、「毛沢東語録」である。

前年の昭和41年から始まった騒乱、当初壁新聞という情報でしか報道されていなかった。

その後に中国の紅衛兵が何かを掲げている写真があり「紅衛兵手帳」かと思った。

当時のテレビはまだカラー化は余り進んでいなくて、「毛沢東語録」の表紙が中国の国旗の色と同じ赤だとは思わなくて、本屋に並んでいた赤に目が痛かった。

この毛沢東語録(日本語版)は昭和41年に発刊されたというものの、地方の本屋(煥乎堂)には「赤尾の豆単」同様に置いていなかった。

それがテレビで「毛沢東語録」が紹介されてすぐに店頭にコーナーが作られて販売された。


その頃、毎日本屋・煥乎堂に行って何かを探してくると言うのが日課になっていた。

その(本屋に並んでいた赤に目が痛かった)「毛沢東語録」が販売されたのを見て、立ち読みした翌日、教室に行くと数人がその赤い冊子(毛沢東語録)を必死に読んでいる。

「毛沢東語録」を持っているKにどうだと聞くと、いつになく「目を輝かせて」赤い冊子をかかげ「これは凄い」と大絶賛。

何となく狂気の目をして本場の「紅衛兵」よろしく「毛沢東語録」を掲げる姿は、1966年から始まりまだ「文化大革命」と言われていなかったこの頃の中国に恐怖を感じた。

その後文化祭ころ、古代中国かぶれで後年中国ビジネスに生涯を掛けた別のK君に問いただしたところ、大した評価はしていなかった。

約10年続いた文化大革命は、その否定という結末を今では見ている。




当時の英語の教科書は「イギリス英語」で、現代の英語電子辞書では単語を検索できない。

この教科書の文体も妙なもので、高校卒業後英文を読むこともかなりあったものの一度も出くわしていない。

しかも書かれている内容は、米フーバー元大統領(Herbert Clark Hoover)を誹謗中傷するようなものだった。

フーバー元大統領(共和党・1964年亡)は、元実業家でスタンフォード大学に「フーヴァー研究所」を創設しいるので有名。

この文章を書いた人物は民主党のFDRを支持していたのかもしれない。

この時代は、まだ先の戦争の余韻を多分に残していた。

****************

前高創立90周年記念文化祭

今は「蛟龍祭」という前橋高校文化祭は、当時は「前高祭」と言った。

この「前高祭」は、隔年6月に行われ前年に「前高祭」が開催されていた。

しかし、この昭和42年は前橋高校「創立90周年」に当たり、その記念事業として文化祭が前倒しされて5月に開催された。

実を言えば、前橋高校文化祭が当時「前高祭」と言うのを高3の時に校門の掲示を見て確認した。

2、3年生に言わせると前年に文化祭行事をしたから、今年は全て1年生が中心になって文化祭をヤレと言われたと実行委員が言っていた。

高校に入ったばかりで他校の文化祭も全く見ていない。

何も分からない中、クラスでは「下駄供養」と実行委員が言い出して、下駄供養をすることになった。

それで「下駄」を並べるので貸して欲しいとの要望。

うちでは玄関に置いてあったほぼ新品の桐の下駄を持っていった。

その下駄が置いてあるところを確認して見守っていた。

しかし、日曜日の文化祭が終わる頃に何と行方不明。

この下駄供養は本当にくだらなかった。


この文化祭、正直言って誰も来ない。

特に女子高生の紺の制服姿など影すら見えない。

2年生に言わせると「昨年文化祭をしているから今年は誰も来ないよ」という。


その誰もいない文化祭が終わる日曜日の午後2時頃、正門の近くに突然次々と自転車が止まってゆく。

自転車に乗っているのは知らない制服の女子高生で、紺のセーラー服に赤い線。

そして行くところが決まっているように脇目も振らずに目指すのは校門から左に逸れ、校舎の南の校庭へゆく。

何かと思っていると2年生の実行委員がクラス展示の方へ来て・・・

「男が足りないから呼んでこい」という。

それで校庭に向かうと知らない制服を着た女子高生がたくさん集まっていた。

フォークダンスをするという。

そして、男は実行委員しかいない。

だから女子学生どうしでペアを組んでいるのがほとんど。

それに校舎に残っていた男どもがフォークダンスの輪に入っても2組ぐらいは女子生徒ペアだった。

その女子学生ペアを割って入り、お義理のフォークダンス。


このフォークダンスが終わった後、知らない制服の女子生徒にどこの高校・何年生と聞くと・・・

「前高の生徒は前女しか興味がないみたいだから・・・」

「制服の目立つところを外して頑張っているのよ!!!」とニコっと笑って言う。


それはよくよく知っている私立高校の生徒の制服だった。

この女子高生は聞いてみれば2年生で、大人びた感じの綺麗系の生徒だった。

なるほど頑張っているのかと周りの女子生徒を見ると、全部同じ偽装制服で同じ高校だった。

このフォークダンスが終わるとあっという間に女子生徒は(蜘蛛の子を散らすように)消え、文化祭で使った不要品を校庭の真ん中で燃やす。

残っていた下駄は全てなくなった。


 

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2022年8月 3日 (水)

春~夏 小説Syuun の不思議な少年時代-その39-8 1967年(昭和42年)

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小説Syuun の不思議な少年時代-春~夏その39-8 1967年(昭和42年)

2019年版(前橋高校)学校案内を見ると実態はともかく、高校の授業でいかにもよく教えてくれるような雰囲気を醸し出している。

しかし、今では有名大学に進むには補習塾や現役高校生対象の予備校に、生徒が通うというのが定番だと子供の受験を鑑みて思う。

50年以上前では、大学受験用の勉強は高校では行わないと教師が公言する。

高校は4年間だと思ってくれれば良いと言うのである。

当時の教師は大方戦前の大学を出ているか、戦後直後に卒業している場合がほとんどであった。

昭和42年に東京教育大学を卒業して、最初に前橋高校に赴任した新任数学教師の桜井直紀先生などは例外であった。

*************

前橋高校1年次、48人×9クラスのうち何組だったかは正確に覚えていない。

古い瓦葺きの2階建木造校舎は8教室で、1クラスだけ中央の本部棟の1階だった。

小生のクラスは体育館に近い1階だったので4組くらいだったかもしれない。

担任は、英語の森永先生。

教室での着席位置は1年から3年まで名簿順で、2年からは目が悪いと言って席を替わってもらっている。

しかし、1年の時はまだ眼鏡をかけていないので名簿順であった。

着席は、

相川-浅見-阿部-荒井-新井-飯島・・・・

横は、岩崎と内山くらいしか覚えていない。

こんな具合でクラス全員の名前を覚えるのに1年位かかるとは言うものの、2年になったらほとんど忘れている。

従って、顔と名前が一致するのは後になれば自分の席のまわりだけという世界になってしまう。

その中で1年間でほとんど会話もしなかった名簿順1番の相川君をよく覚えている。

それは、自己紹介が突拍子もなかったからであった。

その自己紹介は「うちの姉はプレイガールで夜遅くしか帰ってこない・・・・」と言うことから始まる。

それで本人の自己紹介はよく分からなかったし覚えていない。

確かに女装させたら「可愛くなるかもしれない」と思ったことも確かである。


前の席は色白の阿部君、その時の身長は小生と余り変わらず今とは別人である。


後ろの席の新井君は、試験間近でもないのに休み時間に新聞広告の裏を使って必死に数学の勉強をしている。

(他人には不干渉なので、誰も気にしないが・・)

当時の前橋高校の(表面上の)風潮は、「受験勉強などはしない、高校生活は有意義に??」というもの。

それで理由を聞いてみると・・・
「今、窓から飛び出したくて仕方がないので・・・勉強をして気を紛らわせている。」
という。
・・・「ここは1階だろ」というと「それはそうだが・・・」と奇妙な会話に終始する。


南どなりが、夏休み過ぎの作文で現代国語の亀島先生に褒められた名文家の内山君(応援団) 。

そうして、夏休み以降の前高高高定期戦で話題になる人物は3列目以降の後の方の席でほとんど知らなかった。

こんなふうに学校の授業は遅遅として進まなかったものの、試験だけが先行していた。

そうこうしているうちに「文化祭」の話になった。

 

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2022年7月29日 (金)

1年初夏まで 小説Syuun の不思議な少年時代 その39-7 1967年(昭和42年)春頃~

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小説Syuun の不思議な少年時代 その39-7 1967年(昭和42年)春頃~

★前橋高校3年間のイベントが集中した1年初夏まで

今から思うと前橋高校一年次は、クラスメイト達のだまし合い、様子見の様相を呈していた。

その「だまし」に騙(だま)されたと・・・今でも苦い想い出として残っていると同クラスだった阿部裕幸先生が語っている。

前橋市のほぼ中心部を学区とする第一中学校、第三中学校からの生徒。

群馬大学附属中学校、前橋市のその他の中学からの生徒。

伊勢崎やら当時の佐波郡(現伊勢崎)というものの、ほぼ太田に近い場所から来る生徒。

前橋高校進学者が多く、優等生が多かった第一中学校出身者などとは違い、同級生に面と向かって「おまえは○○だ」とか罵倒するような生徒がいる。

そして、俺は「(頭が良いから)勉強しなくてもできるのだ・・・」と言う態度を示す生徒。

また、あえて間違った噂や先輩達の話をでっち上げて他の生徒を貶(おとし)めようとする生徒。

それに引っかかればそれこそ「おまえは○○だ」、劣等生呼ばわりする。

勉強ができ、学校の成績が良いから・・・・品行方正で優等生とは別物と大人世界をかいま見る風景。

しかし、事実として教科書などを1回読めば全て覚えるという「勉強しなくてもできる」という超人生徒も存在しうるものの当然静かなものである。

学年があがるごとにこういうことは少なくなるのではなく、都合の良い幾つかのグループを作ってその仲間達以外では会話をしなくなったりする。

今から思えばそれでも前橋高校1年の頃はまだまだ平穏無事であった。



それで1年では、書道、美術、音楽から芸術科目を選択ということがある。

高崎高校では、「書道」がないそうで高校の書道の教師には高高OBは見かけない。

ここで「書道」を選択しなかったのは以前に述べたように「ちょうどこの頃は書道(書写)に若干疲れたという時期」であった。

このとき書道を教えていたのは「田村由夫」先生で雅号を「翠淵」(かな作家)と知ったのは15年以上後のことである。

田村翠淵生誕100年・翠書道会60周年記念展を観覧する

http://syuun.way-nifty.com/blog/2013/04/60-f5ab.html
http://syuun.publog.jp/archives/5943595.html



また「美術」は東京藝大出身の武沢先生だったのだが、「抽象画」だから止めた方がよいという噂があった。

その一方で音楽は、「ギヤマン」が停年に近いから選択した方がよいという噂。


50年以上たった今でも同窓会誌に登場する「ギヤマン」という伝説の名物教師・福島栄三先生。

それでその「ギヤマン」に賭けることとした。

その時、英語塾で長年同席した小林T氏に音楽選択の理由を聞いたところ「レコードによる音楽鑑賞ができるから」との解答があった。

今では全くお目にかかることはない「コールユーブンゲン」とかの授業もあった。

実際はドイツ留学時代のエピソードや世界一と言われる声楽科のエピソードなど今では聞けない貴重な話しもあった。

音楽の授業・・・津久井君(1中出身)の美声に驚き、飯島君(伊勢崎)が絶対音感に近くピアノが弾けたのにも驚いた。

その他では、クラシック音楽のレコードを聴いて感想などを聞くなど。



そうとは言っても音楽選択は、美術や書道などある程度の技術を伴う分野に興味が持てなかったというより・・・・寝ながら楽に授業を受けたいという生徒ばかり。

事実上音楽など興味もないからレコード鑑賞ではみんな居眠り。

こういうやる気のない生徒ばかりが集まったのが音楽選択。

それでほとんどろくな授業が成立せず、やる気のない生徒に対して「ガマンできない」と毎回言う。

その「ガマンできない」を「ギャマンできない」と発言をくり返した。

この「ギヤマン」こと福島先生。

国立音楽大学の声楽科を出てドイツ留学していた経歴がある。

しかし、そのドイツ語を聞いたことはない。

そのドイツ語の逸話では、ドイツ人(音楽関係)に自慢のドイツ語で話したところ「訛りがある」と言われて驚いたという。

 

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2022年7月20日 (水)

去る者・消える者・小説Syuun の不思議な少年時代 その39-6 1967年(昭和42年)春頃~

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小説Syuun の不思議な少年時代 その39-6 1967年(昭和42年)春頃~

去る者・消える者

今のような補習塾や予備校がなかったこの時代、中学~大学までの先生が少人数の学習塾をしていた。

当時の自宅から歩いて5分のところで、前橋商業高校の英語教師・満島先生が英語塾をしていて小学校6年から通っていた。

小生のクラスは2人から始まり、中学1年頃になると10人(男6、女4)ぐらいに増えた。

それが中学3年の夏休み後になると14人(男7、女7)にもなった。

(実際は女子が増えすぎて9人くらいいたかもしれない。)

実を言えば中学3年の頃では、この塾ではほとんど役に立たないと思い始めていた。

なぜなら授業が順調に進みこれで新しいことが学べると思う頃に突然今までの授業を止めてしまう。

なぜなのかと聞くと、進みすぎると・・・・?

そしてやっている授業はどうでもよい何の役にも立たない内容。


それでも通っていたのは惰性と情報交換のためで、単にワイワイとやっていた。

だからこのクラスは「いつも騒がしい」と満島先生は言っていた。

そう言う調子だからこういう時間潰しの授業が嫌いなAM君、たまに進捗状況確認のために様子だけ見に来るという生徒もいた。

男子は既に前橋高校合格圏内に入っているから単に遊びに来ているだけで、中学3年の夏休み頃から入塾しても、高校受験には全く役に立たない。

まともな授業もしていない今頃どうするのかと思っていたものであった。


4月・最初の塾の日。

前橋高校、前橋女子高に合格した塾生の顔合わせである。

このときは例の幽霊塾生AM君も当然のように出席して、前橋商業に進学した1人を除いて6名はいつもの顔ぶれ、それに中央高校から1名で従来どおり7名。


それで女子はというと、前橋女子高の制服を着た新顔の1人を含めて2人しか来ていない。

どうしたのかと思っていると遅れて、5中と1中出身の女子が登場。

女子は4人になった・・・・前女には4人落ちた??

その英語の塾も5月の連休過ぎになると、懈(だる)い授業内容を見越してか幽霊塾生AM君は来なくなり、中央高校の生徒もいなくなった。


そしていつも遅れてくる2人の前女高生が授業が始まると、目がうつろになって焦点が合っていない。

テキストを見ている様子もなく、何も反応しなくなった。

今思えば高校生の「五月病」のようなものだったかもしれない。

それから直(す)ぐにその2人は来なくなり塾を辞めた。

これで女子が2人になった。



なにか何も進まないような前橋高校の授業だったが、突然来週に「遠足」があると言われた。

行くのは谷川岳の手前の山で、自由参加。

山登りはしたことがなくて、このときは不参加だった。



しかし、後から大反省して6月末の週末の「尾瀬登山」に参加した。

これは前橋高校の教師が企画して、全学年から募集した企画。

漏れ伝えられたことによると、昨年は余り集まらなかったという。

それが今回は多く参加者が集まって大型バス1台で行われた。

集合は午前3時前高正門集合。

遠足に行ったからと1年生はほとんど参加せず、クラスの中からでは数名だったと思う。

尾瀬からかなり下の大清水の駐車場で下りて、脇の細い林道を上って三平峠を越え尾瀬沼まで。

帰りは尾瀬ヶ原・竜宮十字路~富士見峠集合。

全員で隊列を組んで、校歌などを歌いながら富士見下まで降り、バスに乗って終わり。

このときは、歩いて家まで帰った。


***********
※その後20年ぐらい経って、「大清水の駐車場~三平峠を越え尾瀬沼」のコースを登ったことがある。

(帰りは鳩待峠のコース)

高校2年のときは、大清水の駐車場からすぐ人が1人通れるくらいの山道だった気がする。

別の脇道から登ったのかもしれない。

尾瀬沼が近くに見えそうな尾瀬が近くなるところの木道は今でも全く変わらないものの、大清水の駐車場周辺と途中まではかなり変わっている。



翌年からこの「尾瀬登山」は実施されていない。

しかし、大学に入ってから北アルプス登山で縦走を何回もするきっかけとなった。


 

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2022年7月13日 (水)

小説Syuun の不思議な少年時代 その39-5 1967年(昭和42年)春頃~「数学研究部」の時代

小説Syuun の不思議な少年時代 その39-5 1967年(昭和42年)春頃~

「数学研究部」の時代


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★部活・「書道部」ではなく「数学研究部」の時代

昔自宅があった前橋市役所当たりから前橋高校(天川校舎)まで約4Km(?)あった。

進む方向が両毛線(高架前)の線路を越えて東なので、女子高の生徒とは出会わない。

最短で12分という記録があるものの、前高に進む自転車の流れに乗って大方15分の道のり。

駅の先から続く斜め道路の突き当たり、細い農道の西に朝だけ開く駐輪場横の北門。

1年生は乗ってきていないものの50CCのスーパーカブが何台もあった。

(※斜め道路の農道・市街地だった部分を除き区画整理のため現在のケヤキ(旧ダイハツ)から先は残っていない。)

夏休み過ぎに「軽免許」を取る生徒がチラホラ出て「本検」とかいって早引きする生徒がいた。

昭和42年度中に「軽免許」を取得すると自動二輪免許が付いてきたので、それが目当てだったとは後で聞いた。

それで2年になると富士見村(現・前橋北部)あたりから、125CC(ホンダCB125)のバイクで通学する同級生もいた。

雨が降ると軽自動車で通学していた生徒もいたのは3年になって知った。




前橋高校というので前橋市からだけだと思うと、前橋市と伊勢崎市周辺の群馬県中央から東に広がる地域だった。

(現在は全県一区)

当時の隣接区域はほとんど前橋市と伊勢崎市に合併しているので、分かりにくいところが多い。

それなので前高生の約三分の一が電車通学で、当時の国鉄・両毛線で伊勢崎方面からやって来る。

前橋駅を右に出て南下し(第二校歌・右と左に分かれて泣き別れ)、当時あった養魚場の先から第二校歌にも登場する「斜め道路」という農道を行く。

(先述の通り現在一部しか存在せず)

これが冒頭の駐輪場横、北門近くの農道につづく。




帰りは正門しか開いていないので、木造のバラックのような建物・・文芸(文化)部の部室の横を過ぎて正門に向かう。

この文化部系の部室近くの屋根裏のようなところからピコピコとモールス信号の音がする。

「アマチュア無線部でもあるの?」と聴けば、2級の免許を取ったので個人的に練習をしているという。

5月頃になると、アンテナが撤去されていたから一時的なものかもしれなかった。

文化部の部室の一番奥では、4月上旬に紺の制服が出入りする様子がチラチラと見える。

何かと思ったらESSの看板。

偶然出会ってしまったら、眼鏡をかけた強そうな女子学生。

それほど前女の生徒が出入りするのかと思ったら、ESSの行事に関して2年生が連絡に来ていたらしい。

その後は白襟に赤線のセーラー服を着た(何となくナヨナヨした)女子生徒が入り浸っていたような。

しかし、5月を過ぎると前高生は忙しくなって誰も部室にはいなかった。



中学時代の部活動は短期間で止めてしまったので、高校では文化部でと「数学研究部」に入部した。

書道は、書写として小学校から塾へ通っていて、芸術選択でも「書道」は選ばなかった。

そして、今(令和4年)のように毎日書道展審査会員までなったりして、「書道」から一生抜けられないようになるとは思わなかった。

ちょうどこの頃は「書道」に若干疲れたという時期であった。


「数学研究部」の狭い部室。

先に入部していたのが同じ1中からきた浜野君。

ほかには元同級生の後藤君がいるとの話だが、余り逢ったことはない。

入部書類を書いて部室の連絡箱にいれたものの、部室にはいつも浜野君ぐらいしかいない。

それでちょうどいた背が高い三年生(部長)に「数学研究部」とは何をするのと聞いてみても、言っていることが分からない。


5月の連休前にして、部室にゆくと今度の日曜日に「数学研究部の発表交流会」をするから前橋駅に7時半集合という。

「数学研究部」の活動内容が分かるから「1年生は全員参加」と部長が言う。


日曜日の朝早く駅前の初めて利用する「自転車一時預かり」という商店に自転車を預け駅へ。

日曜日は預からないという店も、前橋高校の制服を着ていると普通に預かってくれた。

(夕方5時頃までと・・・)


前橋駅に着くと3年生2人、2年生1人、1年生3の総勢6名。

どこへ行くのか分からないままで聞くと富岡へゆくという。

高崎駅の0番線から上信電鉄に乗り富岡へ、「上州富岡」駅。

そして行くのは群馬県立富岡東高等学校(富岡東高)

(当時・女子高・2018年に群馬県立富岡高等学校(共学化)と統合し閉校)。

駅には多少人はいたものの国道254もほとんど人がいない。

富岡東高が近くなると歩いている人も車も全くいない。



富岡東高の正面玄関に付くと、待っていたと思われる紺の制服を着た女子生徒が1人いて、許可を取ってくるとかで多少待たされた。

それから空き教室に案内されて手持ち無沙汰にただ立っていると・・・





富岡東高の数学研究部の生徒に「何をするのですか」と聞かれた。

「1年生なのでついてきただけなので・・」というしかない。

2年生に聴くとほら(3年生が)説明するよという。

参加者の他高校はいない。

高高・不参加、高女はナシ、前女は維持の1人なので他の参加者はナシ。

富岡東高の数学研究部は4人。



このとき高崎地域・学区の高校生の制服は全く知らなかった。

高崎女子高の制服や校章を初めて見たのは、高校2年のときにあった前橋女子高の文化祭の時だった。

高崎女子高の校章(バッチ)は赤地の大きなもので、OGの女房殿に言わせると「100mバッチ」と呼び嫌だったそうな。

そして、今富岡東高の制服を調べて見たら高崎女子高とほとんどそっくりで、ボタンが高女の4個に対して富岡東高は3個だつた。

富岡東高の校章は小さくて気がつかなかった。

なるほど「100mバッチ・・・100m先からで認識できる。」は理由があったようだ。



それで(背が高くイケメンの)3年生(前高・部長)が「数学研究部への要望や意見など」の紙を配布してあるはずだが・・・」
そう言うもののほとんど沈黙。

富岡東高の2年生らしい生徒が「何もありません。」というようなことを言ったような。


それで部長が何やら黒板に数式を書き出す。

黒板いっぱいに数式が並んだところで図形を描き出す。

曲線(curve)だとか代数曲線?・・・・そんなふうなもの。

こんなのを書いても数IIIを習っていないからほとんどみんな「ドン引き」状態。



それで午前中は終わり、昼になったので校外へ出るも何もない。

それで国道254、駅の近くに雑貨屋があったのを思い出してそこで菓子パンを買って何とか昼とした。

午後は富岡東高の番ということだったが「何もなし」。

何だか無駄に時間を潰して

部長や2年生が富岡東高の生徒に数学研究部に入部した理由を聞くと・・・

「学校の数学の勉強の足しになれば」というようなことを聞こえないような小声で言っていたような・・・



今から思えば「数学」を教えてもらいたかったのかもしれない。

しかし、1年生だったから言えなかった。

どうも上級生は数学の崇高な理想を持っていたのかもしれない。


しかし、大学で一般数学を学びその後、数学の教員免許取得のために数学を勉強してみて数学研究部では結構浅い知識だったと思う。

実のところ数学研究部は、高校数学と一般数学の橋渡しのような勉強をするのかと思ったらそうではなかった。

そう言う「高校数学」を一般数学を使って解くというのは高校を卒業した後、浪人してから身についた。

この後5月頃になって1中出身のM君が部室にいて、遊びに来たのかと思ったら数学研究部に入部していた。

数学に関しては4月の富岡へ行った浜野君、後藤君、そして小生がその後に「数学教諭」の免許を取得した。

M君はどうなったのかは全く不明。

またこのときの3年生の部長など2名は、京都大学理学部数学科へ進学したという噂だった。

何となく後味の悪いというか「数学研究部」の未来が見えない感じで4時近くになって解散。

列車の接続の都合から前橋駅に着いたのは夕方6時頃だった。

お店のカーテンが閉まったガラス戸を開けて、自転車を取り戻したのはかなり冷や汗だった。


 

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